第7話:犠牲
二〇二六年、四月十四日。
この日も俺は多くの護衛と随員を引き連れながら、愛する道産子馬こひばりの背に揺られ、東豊でも手稲でもない札幌中央の庁舎を目指していた。
二日前のあの日に朱音に殴られた顎骨が、未だに僅かな軋みをあげている。
しかし今日歩みを進めているのは豊平川の河川敷や農道、そして畑の畦道でもなく、また俺の横に橘の姿はない。
この消失後の世界には似合わない鉄とコンクリートのジャングル。
その間から吹く、まだ春風と言うには暖かさの足りない風が破れかけている広告旗をはためかせ、看板や標識をがたがたと揺らす。
自動車や通勤者、ショッピングをしている人々で賑わっていたのはいつの日のことか、その頃と比べれば無人に近くなってしまった札幌駅前。
もとい、今は札幌の自治組織の一つ「札幌中央自治共和国」を名乗る政府の中心地。
道央北伐前は札幌のリーダーを気取っていた奴らも、今は政府庁舎前に帝国兵の歩哨を立たせざるを得ないまでに落ちぶれてしまっている。
そればかりか、住民を使役して帝国政府の望む通りに道路上の自動車などをどける作業をさせているのをここに至るまで幾度となく目にした。
そんな光景のなかを馬に乗り列の中央部で騎行していると、百人ほどが並ぶ縦列の先頭あたりに見慣れない集団を目にした。
まだ冷たい風の吹く季節、ダウンを羽織り温かい格好をしているようだが、その装いは東豊や帝国などの、どの組織のものでもない。
中央区の一般人か、あるいは——。
「何か、何か食べるものをください……!」
その正体は、案の定というべきものだった。
俺と同年代か少し幼いほどの十人の男女で構成された、この消失世界においても共同体に属すこと、そして働くことを拒む者たち——。
東豊では「放浪民」と呼ばれている者たちだった。
「近付くな、俺たちが持っているものが見えないのか!」
自警団の班長らしき人物が肩から小銃を提げながら下がるよう警告するも、放浪民たちはその場でたじろぐのみで一切下がろうとしない。
……銃を見て下がろうとしないとは、相当限界が近いように思える。
消失から一年、残る旧文明由来の食料はそのほぼ全てがどこかの共同体の備蓄となっているがゆえ、こんな小さな集団が食料を見つけ出すには相当賢く探し出すか、盗むかしかないのだろう。
「そこ。何班だ、下がれ」
「委員長殿……!」
列から外れ、声が届くような距離まで馬を進める。
俺がわざわざ出てきたことに驚いたのか、班長は一瞬その動きを止めるもすんなりと引き下がった。
それを見計らい、放浪民の一団へ馬に乗ったまま向き直る。
彼らは分かりやすく痩せこけているばかりか、中にはひどく乾いた唇や張りのない肌をしているなど脱水症状の者も見られた。
「君たち、働く気があるのならば豊平川を下って東豊へ行け。そこで働けばとりあえず生きていくには困らないと約束する」
「け、けど働くって……」
「働かないのなら自由にしてくれ。お前たちがどんな集団なのか俺は知らないが、待っているのは餓死だ」
その一団の最年長らしい男が口を開いたのを見て、威圧するような声を響かせる。
理想を言うならば無条件で救けてやりたいところだが、生憎今の東豊には社会保障というものは存在しない。
戦傷者ですら動けるようになればできる仕事をやっているのだ、乳児や幼児ならまだしも働かない健常者に食わせる飯はない。
「わ、わかりました! 働く、働くのでどうか!」
「よろしい、あとそこの中学生ぐらいの三人、酷い下痢に悩まされてないか」
「え? う、うん、でも、なんで分かって……」
「酷い脱水にも関わらず熱っぽい顔をしている。もっと言えば一年前、俺の部下がそれに罹って死んだから分かるだけだ」
確認をとるとともに、縦列の最後尾で赤褐色のサラブレッドに跨る白鳥を呼び寄せる。
「どうされましたか、委員長殿」
「東豊への加入希望の放浪民十人だ、班を一つ引き抜いて東豊へ送ってやれ。ただ三メートル以内に近づかないようにした上で、最初は医務室へ送るよう言いつけろ。恐らく赤痢かノロだ」
「左様に」
白鳥へそう命令を下すなり、俺は元いた縦列の中へと戻っていく。
何も、こうやって俺自身が勧誘することは珍しいことじゃない。
可能ならば俺の手で勧誘を行うことに意味があると思っている。
キツい物言いかもしれないが、これで俺のポケットにある糧食をタダで分け与えてしまえば放浪民であり続け、いずれあの集団は全滅してしまっていただろう。
一瞬振り返ると、白鳥がその一団の前で自警団の班四、五人へ命令を下していた。
赤痢も対処さえすれば治る可能性は少なくない、無事に東豊へとたどり着いてくれると良いのだが。
そんな光景にひとまず目の前の事態は落ち着いたと馬上で一息つくも、俺の思考にはまた別の憂い事が湧いて出てくる。
一つは榎本ちあきのこと。
あの閉め切られた部屋の出来事から二日が経ったが、とはいえたった二日、実際にできることは限られる。
まずは彼女の健康管理。
湯で身を清めさせ、理髪師に散髪してもらうよう促し、また特に口の堅そうな看護師と医者を一人ずつ手配した。
医者の方は看護師上がりの無免許、看護師の方も自動車免許で言うところの仮免段階だが、何もしないよりはマシだろう。
彼らには事情を話し、また酒やタバコ、砂糖菓子、良い住居などある程度望むものを与える手筈になっている。
看護師の方がなかなか良いウイスキーのコルクを抜いたそうだが……下手に口を割られる可能性を鑑れば、費用対効果は安いものだ。仕方があるまい。
そして次に彼女の懐妊そのものについては、特に誰との子なのかは絶対機密として扱うことにした。
これを知っているのは榎本本人に俺と朱音、橘、医者、看護師、そして自警団長である猪木の七人のみという体制になっている。
特に開示することを迷ったのは猪木と黒川の二人だ。
しかしこの情報は東豊はおろか札幌の安全保障に関わる、結果的に猪木には話した上で黒川へはいったん伏せることにした。
とはいえ黒川へもいずれは話さなければならないのだが、最近のあいつはどうにもおかしい。
普段は以前にも増して寡黙になったにも関わらず、圭介の名前を出すたびに過剰反応し、あいつのことばかりを深掘りしてくる。
何もあいつの口が軽いとは思っていないが……正直なことを言えば、面倒に思って伏せているのが現状だ。
最後に、彼女自身の生活について。
まず、彼女の農業部門長の任は解かせてもらった。
今は外見にそこまで変化がないとはいえ、この先公の場に出られないことが増える以上、解任はいずれ必要になる。
彼女の方もそれについては後任の推薦も含め快諾してくれた。
だが、榎本本人は今後の作付け計画や農業人材の教育用パンフレットを引き続き自室で作成してくれるらしい。
そのまま仕事を辞めてひとまず隠居するよう言っても良かったのだが、これも彼女の要望。
こちらとしてもこの忙しい時期にまた農業部門長の経験の積み直しになるのは辛い。
補佐官的地位に収まってくれるのはこちらとしても相当助かっている。
ここまで述べて、改めて窮屈な生活をさせることになってしまい申し訳が立たない。
外見に大きな変化が現れるまでは自由に外出して良いことにしたとはいえ、逆に言えば外出に許可を出している状態。
到底、自由と形容できる代物ではない。
しかし今の東豊にはあいつを自由にしてやれるほどの力が無いがため、我慢してもらうしかないのだが……。
「……力、か」
俺の独り言に耳ざとく反応した護衛の自警団員を横目に、俺は目の前のもう一つの問題へと向き直る。
札幌駅の南西、コンクリート製の無骨なデザインをした現庁舎とは対照的にに、赤煉瓦と差し色の大理石で彩られたアメリカン・スタイルの北海道旧庁舎。
通称「赤レンガ庁舎」。
今は札幌諸政府の外交の場として使われているこの建物へは二ヵ月ほど前にも来たばかりだが、よりにもよって会談にここを指定してくるとはな。
下村三千人もなかなか皮肉なことをしてきやがる。
内心で愚痴をこぼしながら正面へ目を向けると、そこには先に訪れていたであろう東豊の使節団が、小さな塊を作りながら何か言葉を交わしている。
その真ん中にはあの出っ歯が特徴のノッポな男、橘貴弘の姿も見えた。
「苦労を掛けるな、橘。手稲の代表団はどこだ」
鐙から足を外し、馬上から降りるとともに橘へ労いの言葉を述べるも、橘は冗談の一つを口にするどころか、珍しく俺へ苦言を呈した。
「庁舎の中にいるんだが……俺を労う暇があるならあの堅物をどうにかしてくれ」
「……交渉はそんなに難航しているのか」
「難航してるだけならマシだったかもな。まず交渉の席にすら着かせてもらえやしねえ。口を開けば藤原英治、藤原英治、今日だけで一生分聞いた気にすらするぜ」
……やはり、三千人はここへ東豊と会談をしに来ているのではない、俺に会いに来ているのだと確信する。
橘も優秀なはずなんだが、帝国との最初の講和交渉の時や今日など、ここぞという場所で毎回相手が悪い。
予想通り面倒事になりそうだと、疲れ混じりの息が漏れ出た。
「しっかし、今日は随分と自警団んとこの奴らを引き連れてきたな。よく見たら遠くに白鳥も見えるし、俺らの護衛を含めたら百近くはいるんじゃねえか?」
「確かにそうだが、何か不都合でもあったか」
「いいや、お前が動かせる人員なんだから好きにしたら良いんだけどよ。パッと見戦争でも始めるのかと勘違いしそうになるぜ」
「……まあ、場合によってはそうなるかもな」
俺がそうこぼしたのを聞き逃さなかった橘はあの饒舌な語りをやめ、息をひそめた。
その目は大きく見開かれ、俺の正気を疑っているようにさえ見える。
「俺が離れたあと、指揮権は白鳥へ完全に一任するようにしてある。場合によっては庁舎内への突入も含めてな」
「な、なぜそこまで……!?」
「ハハ、それは俺が生きてたら教えてやるよ。だが一つ答えられるとすれば……」
世話係から手荷物を受け取り、庁舎の入口へ向かいながら橘の方へ振り返り、俺はあいつにこうとだけ言い残した。
「今回の相手は、そんだけ厄介な奴だということだな」
******
同行しようとする東豊の職員を振り切り、庁舎内へと足を踏み入れる。
危険だと言われはしたが、そんなのは承知の上。
火器の扱いにはごく最低限の心得しかないが、世話係から一丁の拳銃のみを受け取り胸ポケットに忍ばせた。
庁舎内の様子は、以前来た時と変わりない。
廊下に敷かれた赤い絨毯、白くぼんやりとした壁面、漆が塗られ磨き込まれた手すり。
開拓の時代から半世紀以上は使い込まれてきたであろう庁舎は、旧文明政府の日々の修繕の成果もあってか明治期の空気というものをよく残してくれている。
だが売店や廊下、そして一階の部屋のどこにも人影は見当たらず、庁舎全体が異様な静けさを帯びている。
……三千人が庁舎内で代表団を侍らせているのであればもう少し騒がしさといったものが出るはず。やはり、三千人との一対一か。
帝国といい、手稲といい、どうして組織間の会談を個人間の密談にしたがるのか。
「ここにいたか。久しぶりだな、三千人」
そしてその男は二階、庁舎内の展示室の中で俺のことを待っていた。
スーツを着こなし、山吹色の長髪をうなじで纏めた色黒の男、下村三千人。
やはりと言うべきか、彼の周りには外交官や世話係、護衛の一人すらいない。
にもかかわらず、三千人は身体の後ろで手を組み余裕の表情を浮かべている。
「久しぶりだな、英治。いや、今は『宗主さま』と言うべきかい」
「……なんだ、その含みのある言い方は」
「いいや、別に特別な意味は無いさ。ただ随分と出世したなと思っただけだよ」
そればかりか三千人は俺の方へ向き直ることすら無く、そのはっきりとした声音で皮肉を口にした。
……一対一の会談にも関わらず出迎えもない、完全に舐められている。
だが、問題は舐められていることそのものではなく「舐めても差し支えないと思えるだけの裏付け」の方にある。
見栄なのか、反抗の意思表示なのか、それとも宗主を宗主として扱わなかったとしても問題ない政治的な裏付けがあるのか。
そのどれかは分からないが、どれにしたって厄介なことに変わりはない。
今ここでそれを暴く必要もないと割り切り、展示室の中へと足を踏み入れる。
「出世か……この出世に圭介の死が絡んでなきゃ、俺も全力で喜べたんだがな」
「とぼけるのもいい加減にしてくれよ、英治。ボクは頭の回らない愚か者と話しにやって来たつもりは無いんだ」
特に意味のない言葉の応酬をしながらも、三千人は確かに俺の言葉へ釘を刺し続ける。
「ボクが話に来たのは、二か月前にここであった札幌連合構想の投票へ、ともに賛成票を投じた賢い指導者のはずだ」
「……あの時の委員長は俺じゃない、神谷圭介だ」
「いいや、違うね。あの札幌連合構想の草案にはあの日に君と語らった未来の要素が多分に組み込まれていた……違うか?」
あの日、か。
昨年の夏、まだ消失からそう日が経っていない時期に三千人と初めて会った頃のことが蘇る。
計画配給に軍備の必要性、ハーバー・ボッシュを暫定目標とする開発構想、更に札幌全体の経済的統合。
特に後半は「夢」以外の何物でもなかったが、こと実務的な部分においてはかなり気が合ったのは事実だ。
だが最終的には決別した。
俺達二人の間には、気が合うだけでは済まない決定的なまでの齟齬があったのだ。
「……そうだな。あの草案に全土の物流や資源管理の必要性を盛り込んだのは、実際俺なわけだしな」
だが、今日はその決別した相手と言えど問わねばならないことが幾つもある。
その話を進めるためにもう一歩だけ三千人の近くに寄って初めて、彼が目線を向けているものがなんなのかが分かった。
東西蝦夷山川地理取調図。江戸時代に幕府が蝦夷地の領有を確かにするために行った測量とその成果。
僅かに日焼けし色褪せつつあるその地図を、三千人はまるで花や我が子を慈しむかのような目つきで眺めていた。
「……言っては悪いが、こんなものを眺めて何が面白いんだ」
「はっ、これ自体は何も面白くないさ。まだ文明の無かった頃の北海道、山と川と沼地だけのだだっ広い土地さ」
「文明、ね……」
三千人の言葉に僅かに引っかかるところはあれど、一先ずはその言葉に耳を傾け続ける。
「だけどな、面白くなるのはここからさ。知っていたか、石狩の湾は今よりももっと内陸に食い込んでいて、もっと言えばこの石狩平野も沼地、更に長沼や千歳のあたりも深い湖がいくつも点在したらしい」
自分が「面白い」と思う理由を語るためか、それとも札幌と北海道への愛を説くためか。
三千人は地図の上を指差しながら、俺へ熱のこもった口調で語りを始めた。
事実、地図に映し出されている北海道の様子は今とは全く異なる。
石狩川は大きくうねり他の大小の河川が入り乱れ、当別の山間へ入ればそこにダム湖の面影はなく、一本のほどほどの大きさの川が流れているのみだった。
「それがどうだ、文明化の進んだ札幌には日本有数の都市が建ち、沼地はパン籠に作り変えられた! そんな今の札幌を思い浮かべて初めて美しいと——」
「……そこにいた人々を排除して、な」
あえてその語りへ水を差すように発した言葉に対して眉を寄せる三千人。
あいつ自身は何を言うでもないが、その表情は「何が言いたい」と言葉にはせずとも、確かに不満をつらつらと述べていた。
「俺達和人は、文明化と国土防衛を名分に既に文明の築かれていたはずの蝦夷へ入り込んだ。土地を測り、境界を引き、俺たちの常識を押し付けて彼らの生業を壊した」
この地図に線を引いた時点で、そこにいた人々の暮らしは、こちらの都合で測られるものになった。
程度だけ見れば海の向こうにはより苛烈な例が腐るほどあるものの、和人がアイヌの人々を支配し、抑圧し、同化したことに変わりはない。
「俺は何も、今更和人が北海道を出ていくべきだとも、謝罪をするべきだとも思わない。だがそこで生じたいたずらな犠牲を顧みずに美しいと思うことは、俺にはできっこない」
……自分で言っていて思うが、やはり蛙の子は蛙か。
父も昔こんなことを言っていたなと思い出してしまう自分が少しだけ腹立たしい。
懐古もほどほどに、地図の方から目の前に立つ色黒の男へ目を戻す。
三千人の見開かれた目の中に浮かんだ、揺れる瞳に半端に開かれた唇。
俺の語りを、三千人はただ絶句したと言わんばかりの様相で見下ろしていた。
その絶句は俺のイデオロギーに対してか、それとも俺という人間へ向けられたものかは分からない。
——そう、これこそが決定的な齟齬。
見知らぬ人間をただ「資源」として見るのか。それともそこに「救うべきもの」という意味も含ませるのか。
俺と三千人は、前者の項こそ一致すれど、後者の点において決定的なまでの差異を有していた。
「……何が言いたい」
そして三千人は、更に一歩深いところへと踏み込んでくる。
俺が口にした言葉の真意を探ってか探らずか、だがお互いがお互いの踏み込んではいけない領域を土足で踏んだことは、この臓物が握りつぶされるようなヒリついた空気が知らせてくれる。
しかしな……最初は俺だけでも会談の体裁を取ろうと思ってはいたが、結局また悪い癖が出てしまった。
少々順番が前後するが、仕方ない。
こうなってしまったからにはもう、やるしかない。
「今ならまだ間に合う……! その勝ち目のない、いたずらに犠牲を出すだけの蜂起計画を直ちに中止しろ! 下村三千人!」
「ッ……!」
目力を一層強めるとともに、黒いスーツの内側へと手を伸ばす三千人。
俺も内ポケットへ手を伸ばすも——半拍先に、銀に輝く短い銃身が俺の脳天へ向けられた。
「なぜそれが分かった……!」
「ハハ……夢はあんまり人へ語るもんじゃないぞ、三千人」
数日前の武器庫襲撃、事前に三千人から「教化」されていた実行犯から聞き出した。
口を割らないよう教育もしてはいたようだが……そこはどこまでいっても学生だ。
しかし、今はそんなことで勝ち誇っている暇はない。
目を血走らせた三千人を前にして全身の筋肉が硬直するも、指の掛けられたその引き金が引かれることはなかった。
「……殺したいなら殺してみろ。その瞬間に、札幌の未来は今度こそ闇に染まるぞ」
俺が死ねば、間接統治は失敗だったとして帝国が出張ってくることは想像に難くない。
そうなれば東豊を含めた全札幌の組織が解体され、無制限の奴隷徴発が始まる。
そのことを三千人も内心分かっているのか、引き金に添えられた指が外れる。
「英治の方こそ、今からでもボクのことを撃ったらどうだい。君の言う首謀者が今目の前にいるんだぞ」
それも、できない。
手稲がどれほどの札幌諸政府や地下組織と接触しているかは分からないが、こいつが死んだ瞬間にその全てとの対話が不能になる。
そうなれば札幌全土が戦域になり、鎮圧が出来なければ帝国が出張ってくる。同じく間接統治は失敗とみなされ、委員会もとい東豊辺境統政府は解体されるだろう。
「……お互い、考えていることは同じなようだな」
撃ってこないという半ばの確信とともに、俺は内ポケットの中で握っていた拳銃のグリップから手を離し、その手をゆっくりと外へと引き抜いた。
そして何秒か、もしくは十何秒かあったかもしれない沈黙ののちにリボルバーを内ポケットの中へとしまい込んだ。
万力で強く締められていたような緊張が、それを機に僅かに緩む。
しかし相変わらず三千人の目は血走っており、そこから発する気迫に俺の心臓は警鐘を鳴らし続けていた。
「はあ……はあ……いたずらに犠牲を出すだけ、だと? 手稲の防衛団は万全! それにボクが全くの無策だと思うな!」
白い歯を剥き出しにしながら、その右腕を展示物のガラスへと叩きつける三千人。
確かに、手稲の防衛団の状態は万全かもしれない。
中央区や西部とともに前線を張っていた東豊が降伏したのを皮切りに、札幌の諸政府は次々と降伏。
南部から侵攻してくる帝国に対して、最北部に位置した手稲や石狩はその支配域に被害を出していない。
だが。だが、それだけでは足りないのだ。
「札幌で乱が起これば、帝国はそう時間を経ずに介入してくる……! 旧文明の火器で武装し、徴発したガソリンを惜しみなく使い、車載火器で蹂躙する一万の帝国軍がだぞ! 仮にその半数でも札幌に勝ち目はない……!」
——もちろん、一万というのは理論上の最大数値の話だ。
だがこれまで略奪と征服で資源を得てきた千歳帝国、部隊にもよるがその個々人の戦術規模での戦力は計り知れない。
自警団長の猪木曰く「部隊間の連携に難はあれど、ただ武器を渡されただけの人間にあれの相手をするのは不可能」。
特に軽トラックやピックアップトラックの荷台に機関銃を載せた「タクティカルトラック」は、この段階の文明に存在して良い代物ではない。
直接相手をしていない手稲と言えど、その程度のことは情報として知っているはずだ。
にも関わらず、なぜそんなにも余裕の表情を浮かべている?
俺のことを無知だと嘲笑わんばかりに口角を上げている?
それが甚だ理解できず、どこから湧いてくるか分からない三千人の自信に困惑せざるをえなかった。
「方法ならあるぞ、英治。負けなければ。負けなければいいんだ」
「負けなければ……?」
まさか、勝つまでやるということか?
だとしても人の命も資源も有限、現実の戦争はやり直しのできるゲームでもなし、勝つまでやることなど出来るわけが——。
「真正面から戦わなければいい。どれだけ破壊されても、殺されても、負けを宣言しなければいい。そうすれば負けない、違うか、英治」
正面から戦わない。
——絶句する俺の頭の中にゲリラ戦術という単語が浮かぶ。
そして、三千人の「負けない」の意図を理解した瞬間に俺の口から一つの言葉が漏れ出た。
「……嘘だろ」
ゲリラ戦。陣地を組んで敵を正面から迎え撃つのではなく、市街地、森林、高架下、下水道、地下鉄、ビル街、さらには一般人の中まで紛れ、あらゆるところで奇襲攻撃を繰り返し敵の消耗を狙う戦術。
俺も道央北伐末期、団長の猪木がそれを実行するかどうかの意思をわざわざ圭介へ尋ねた際に、初めて詳しく知った。
しかし、消耗を負うのは敵方だけではない。むしろ実行する側のほうが多大な損害を負う戦術。
戦いは長期化し、弾薬や食料の補給は東豊ですらその遂行が不可能なほど複雑化、兵士と一般人の見分けがつかなくなれば敵はそれらを見境無く攻撃するようになり、札幌全土の物流網は停止、そしてその弊害は飢餓や疫病という形で社会全体に析出する。
自警団には単独で作戦展開ができるよう権限を渡していたにも関わらず、猪木はその余りにも大きすぎる弊害を正直に述べた。
その戦術が委員会を、札幌を滅ぼしかねないと自覚し、それでもやるかの判断を圭介へ委ね——そして、圭介は却下した。
その数時間後に圭介は首を差し出し、ひと月後に農民が牛を引き、鋤を握れる札幌を残したのだ。
だが、今目の前にいるこの男はそれを実行しようとしている。
今ここでこの男を拘束、あるいは殺害すれば戦闘が自然とゲリラ戦争化することも含め、俺の中で怒りともどかしさが混ざり合い渦を巻いた。
「……肥料が欲しいのだろう、英治。東豊も手を貸してくれるのならこの計画はより確度を——」
「馬鹿野郎ッ! お前はいったい何千人、何万人殺す気なんだッ! 肥料が手に入ったところで耕す平和がなけりゃ意味がないんだぞ!」
「ッ……! ボクはバカではない、ただ明日の栄光のために——」
「違うッ! 明日の栄光なんてクソ喰らえだッ! 俺達が見せるべきは十年後の札幌の空じゃないのか!」
「見せる……? 誰に見せるというんだ、お前の宗主さまにか」
「……ッ!?」
誰に見せるって、一人でも多くの札幌の人々に見せるに決まってるじゃないか。
ダメだ、似た者同士にも関わらずなぜこうも考え方が合わないんだ。
この調子じゃ肥料備蓄の拠出なんてもってのほか——。
だがもはや、俺の方から話の終わりを切り出す必要すらなかった。
三千人はスーツのポケットに手を突っ込むと、凝り固まった首を鳴らしながら俺の横を通り過ぎる。
「待て三千人、どこへ行く! まだ話は終わってないぞ!」
「話は終わりだよ、藤原英治。君とボク、互いに殺せない。話も進まない。もうボクがここにいる意味はないんだよ」
…………まことに悔しいが、それに関しては同意せざるをえない。
ただお互いが憎しみ合うだけの平行線、それにもしどちらかが感情的になりヒートアップし、次に拳銃を引き抜いた果てには——。
だから、ここで引くことが札幌のためなのかもしれないと、自分の中で納得してしまった。
「……分かった。帰っていい」
「助かるよ、藤原英治。外交の窓は開けておく、気が変わったらいつでも声を掛けてくれ」
……さしずめ手を貸す気になったら、ってところだろうな。
生憎その使い道で使うことはないとここで断言できるところだが、この状況では火に油。
発言を自粛するには今更手遅れだということも自覚しつつ、口をぐっと噤んだ。
そしてそのまま、展示室の前を曲がり一階へと降りようとする三千人。
こちらからその背だけが見える位置で、小さな声で言葉を響かせた。
「ボクと君となら、素晴らしい札幌を作っていけると思ってたんだがな」
「……」
三千人はそう言い残すと、肩の力を抜き俺の見える場所から去っていった。
「……俺も、最初はそう思ってたよ」
彼のいなくなった展示室には、展示ケースのガラスについた三千人の手形と、両手を握り込みながら震える俺だけが残されていた。
展示室の反対側から、俺のことを蝦夷共和国の首脳陣の肖像が見つめている。
——だが、ここで震えている場合ではない。
このままでは、また札幌が燃えてしまう。
「……止めなければ、三千人を」
あいつを止めてみせる。いや、止めなければならない。
十年後の空を、一人でも多くに見せるために。
ちょっとしたお知らせ。
次のお話は構成の都合上ちょっと短くなります。




