第3話:ぬかるみの奥へ
――二〇二六年三月八日。
決心を固めてからの藤原英治の行動は迅速であった。
彼にとっての目下の目標は、政敵鐘巻祐清の粛清。
危機的な札幌情勢における、正常な政治的判断を鈍らせるかの理想主義者を除かねばならない。
そこでまず彼が採ったのは、即日中の議会招集であった。
東豊における統治システムは、旧文明時代の委員会制度を継承している。
委員長の下に、名称の混乱を避けるために「委員会」から「部門」に変更された下部組織――国家で言うところの省庁にあたる組織が立ち並ぶ
議会に招集されるのは委員長、部門長。
そのさらに一つ下に置かれた、農業部門で言えば農区長、外交部門で言えば外交支部長にあたる者たちのうち、部門長が選定したメンバーが議員として招集される仕組みである
もちろん、旧文明時代的な定義ではこれは議会ではない。
議会とは名ばかりの、行政各部門の代表者会議だ。
本来であれば三日前には招集が言い渡されるのだが、その日は例外中の例外である即日招集。
ゆえにその日、議会――旧東豊学園三の一へ集った議員は合計二十四名。
そのうち部門長クラスは、以下の四名であった。
外交部門長・橘貴弘。
事務部門長・黒川青磁。
輸送部門長・鐘巻祐清。
農業部門長の代理として送られた農区長。
厳密にはここに部門長と同等の権限を持つ自警団長が加わり二十五名になるはずだったが、自警団長は代理すら立てられない状態であるためその議席だけは空席となった。
そしてその議会で、藤原英治は初めて豊平講和条約の全文を明かした。
至極真っ当な話だが、あの内容がゆえに場は騒然となった。
その反応は様々だ。
「結局帝国へは屈するのか」
「私たちが札幌諸政府の統治を代行するですって? 本当にやれるのでしょうか?」
「食料ノルマの指定が二か月前!? ノルマを満たすために飢餓が起こったらどうするんだ」
全てが的を射た疑問であり、また先行きに不安を感じるのも当然のことであった。
だが、議員たちが一様に複雑な反応を示した条項が一つあった。
「東豊直轄領からの奴隷徴発は、これを一切禁ずる」
その条項の前に、皆が口を噤んだ。
議員たちの脳裏に、ありとあらゆる推測が駆け巡る。
「どういう意図だ」
「その代償に何か大きなものを押し付けられるのではないか」
「条項の上では禁止しつつも、本当は遵守するつもりなど無いのではないか」
中には奴隷徴発の禁止という条項の代わりに東豊が過大な役割を押し付けられていることに気が付いた議員も居た。
だが、そこに気づいた議員ほど、今度はその過酷な道のりを口に出して確かめることを恐れ、沈黙せざるをえなかった。
その中で、一人の男が声を上げる。
「皆さん、聞いていましたか!? これがこの条約の恐ろしいところです!」
鐘巻祐清が立ち上がり、誇張された手振り身振りを用いつつ喧伝する。
「札幌を帝国が支配することを許すばかりか、帝国の奴隷制維持に東豊が協力することとなる! これはあっちゃならないことだ!」
その一声と共に、再びふつふつと沸き立つ議会。
その光景を前に、鐘巻と英治の脳裏には奇しくも同じ日の記憶が蘇っていた。
この議会のちょうど一週間前の三月一日。
神谷圭介が投降し、藤原英治が就任最初の演説を行った日。
前任の神谷圭介の処刑が明白であったこともあり、その日の議会は過去に例を見ないほど沈み込んでいた。
だが、そんな中でも藤原英治の発した「我々は敗けた。帝国の奴隷制も、受け入れざるをえないだろう」という一言に、議会は怒り狂った。
「そんなものを許すな」
「それを受け入れないようにするのがお前の役割だろ」
「お前が贔屓にしているあの女が奴隷になっても良いのか」
――それが、三月一日の様子であった。
だが今はどうだろうか。
奴隷制への怒りを煽った鐘巻の言葉は、確かに無音と化していた議会に僅かながらに活性を取り戻した。
しかし、足りない。先日に比べれば、その熱量は圧倒的に不足していた。
手で口元を覆い、その下で小さく笑う藤原英治。
この時点で彼は勝ちを確信していたが、念には念を。
決め手となる布石を打つべく、この日最後の報せを行う。
「三日後――この条約の批准に関する議会投票を、同じメンバーで行います」
議会投票――東豊の議会は「議会」とは言うものの、今まで通りであれば委員長の諮問行為や意思決定を布告するための催しに過ぎなかった。
この条約も、やろうと思えば委員長と外交部門長の意思で批准できたにも関わらず、委員長自ら投票という行為へと出たのだ。
「……おっと、忘れていました。この条約内容についてですが」
そして最後に、それをも超える衝撃的な一言を英治は告げる。
「自由に、広めてもらって構いません」
藤原派と神谷派の争いは、こうして世論戦へと移った。
******
翌日三月九日。
運輸部門長・鐘巻祐清は、朝五時の起床後に早速行動を起こそうとしていた。
どういうわけか、委員長藤原英治は投票までに数日の期間を設けた。
その期間を使い、正しい意見を一般の間で醸成すればあるいは――。
ベージュの制服に着替え、その上からコートを羽織る。
ひとまず今日の朝礼を済まそうと、委員会倉庫として使われていた第一体育館へ向かう鐘巻だったが――その鼻っ柱は、早々に挫かれることとなる。
「えー第五条前項、東豊学園辺境統政府の常備兵力は五百名を上限と――」
「……!? 支部長殿、何をやっている!?」
鐘巻が一足遅れて朝礼へ向かった時に目にしたのは、百名弱の輸送員の前で豊平講和条約の内容を読み上げる輸送支部長。
彼によって肩を掴まれ、激しく揺さぶられた支部長は咄嗟に言い分を口にする。
「直接命令……! 講和条約の内容を直接朝礼で公表しろという藤原委員長からの直接のお達しで……!」
「なに?」
支部長から奪った書類を目にした鐘巻は、確かに「東豊学園自治委員会・委員長 藤原英治」の語を目にした。
いったいなぜ、こんなことを。
藤原英治の意図が読めず眉に力を込める鐘巻だったが、鐘巻にとってはむしろ都合が良かった。
「第五条ということは、みな第三条や第四条の条文については聞いたな!? これは一体なんだ!?」
「ええと……講和条約」
「違う! これが一体僕らの何の利益になるのかという質問だ! いいか、僕らは札幌だ! 東豊だ! 空港以外に取り柄のなかった千歳なんかに、僕らが支配されていいはずがない!」
この期に及んでも鐘巻の頭の中には、昨日の議会における議員たちの薄い反応が、一抹の不安として思い浮かんでいた。
もしかすれば誰もこの事に興味が無いのではないだろうか。
しかし、その不安は良い意味で裏返される。
「確かに……」
「そうだ、俺達は札幌だぞ」
「千歳の暴走族に屈するのは何かの間違いだ」
――彼らの中に消失以前から薄っすらとあった、札幌中心主義と道内随一の進学校としての東豊のエリート主義。
更には「消失後であろうとも進歩する文明圏」という意識もが釜の中で混ざり、そこへ「帝国への敗北」という火が焚べられた。
ただ理想を語るだけではついては来まい。乗っかりやすい形へ変えて訴えなければ。
彼の最後の賭けは、そういった優越意識へ訴えかけ「帝国への不服従的抵抗」を論じること以外に存在し得なかった。
実際、この時でも東豊の各地で「講和条約」の内容が朝礼にて布告されていたが、その反応は大抵が難色を示すものだった。
ある農民は家族を失った果ての結末に枕を濡らし、ある自警団員は脳内にクーデタという単語が思い浮かび、ある官僚は同僚と協力して条約批准取り止めの嘆願書を提出しようとした。
ではなぜこれほどまでに鐘巻の扇動は成功しえたのだろうか。
それを示すには、この「消失社会」の特異性について論じなければならない。
消失による社会機能の完全停止により、世界は化石燃料の使用が停止した前近代社会に退化したことは明らか。
それは東豊も例に漏れず、社会のほぼ全てのリソースを食料生産とその配給に充てざるをえない。
だがこの消失社会において、前近代とは致命的に違なる点を一つ挙げるとするならば。
十三歳以上の中核人口のほとんど全てが文字を読め、複雑な算術を用いることができ、更に共同体という見えない繋がりを意識できたうえで、奴隷制の非倫理がなんたるかを理解できたことだろう。
そして、鐘巻はそこを突いた。
実際にその後鐘巻が訪れ演説を行った地は大きく動揺し、煽られ、そして怒りや不満を根拠とし条約への反意を示した。
鐘巻は反撃の成功に頬を赤くし、その日の内に自転車と煮沸した水の入ったボトルを片手に各地へと赴き、千人弱に自らの演説へと耳を傾かせた。
その中には、十一日に控える議会での議決へ投票権を持つ者や、その部下たちも少なくなかった。
いける。あんなものが成立することを妨げられる。
もはや確信にすら近い手応えを感じた鐘巻は、彼の眼の前で次々と引き起こされる成功という二文字に酔いしれた。
そう、成功していたのだ。
彼の眼の前では。
異変は、投票を翌日にした二日目の朝に始まっていた。
******
翌日の朝の六時少し前。
この日も鐘巻は、第一体育館での運輸部門朝礼に赴き、自らの演説を行おうと息巻く。
昨日は官僚や工務に就く人間、更に南の豊平川沿いで仕事に励む農民に演説を行った。
今日は北部や東部の農地で、はたまた放浪民――この消失社会でも東豊の配給労働体制への参画を拒否する人々のコミュニティで演説を行おうかと画策していた。
だが、昨日と同様に怒りを煽る演説を朝礼にて半分ほど終えたところで、鐘巻はようやく異変に気がつく。
彼が眉を寄せたのは聴衆の反応。それは奇しくも、あの会議の場で見た気の沈み込みそのままで。
呼び起こされるデジャヴに、鐘巻は言葉を紡ぐのを止めてしまった。
そしてその隙に、一人の女が声を上げる。
「部門長さん、一つ質問良いでしょうか」
鐘巻から見て最前列の中央、実際の運輸任務で指揮を執り行う現場指揮者――企業で言うところの係長に当たる女だった。
鐘巻は一瞬言葉を選ぶも、相手は直属でないとはいえ部下は部下。
解放的な環境を目指していたこともあり、鐘巻は「大丈夫だ、なんでも聞いてくれ」と、自らが混乱で言葉を口に出来ないことを覆い隠すようにしながら問いの許可を出した。
「昨日、あの話を聞いてから冷静になって考えてみたんです。あれは、そんなに悪いものじゃないんじゃないかって」
女の言うあれとは、条約のことに他ならない。
消沈していた朝礼の場は、鐘巻の扇動よりもむしろその女の問いによって沸き立ち始めた。
「悪いものじゃないって……奴隷や支配を許せると言う――」
「私には弟が居ます」
女の一言に、またもや喉を締める鐘巻。
その喉元には「だからと言って俺達だけ助かろうとするのか」という言葉が出掛かっているも、相手は藤原英治ではなく部下。
そこから生じた一瞬の迷いの間に、女は次の言葉を紡ぐ。
「私の部下には一人っ子も多いですが……中には二人の幼い弟を養う長女がいます。パートナーを持つ者もいます」
示しを付けたように首を縦に振る女の部下たち。
それ以外の輸送部門の職員も、「確かに」「俺もだ」と同意の言葉を漏らす。
「それに私たちだって仲間です、奴隷が良くないものなのは分かっていますが……大事な人たちが助かるってのが、まずは一番大事なんじゃないでしょうか」
一歩前に進み、意見を口にする女。
その言葉に、職員全員が口を噤む。それは女本人や鐘巻ですら例外ではない。
女が申した意見は藤原英治の「帝国の奴隷制も、受け入れざるをえないだろう」という言葉と、本質的には全く同様であった。
にも関わらず、誰もその女に反対意見を述べない――少なくとも、わざわざ意見を述べる領域にいないのは明らかであった。
――これは、何かの間違いだ。
鐘巻は左腕の時計を確認すると、「朝礼の時間が終わるな」と、脈略のない言葉を漏らす。
そのまま業務開始と朝礼解散の指示を出した鐘巻は、自らの背へと注がれる支部長や女の視線から逃げるように。
鐘巻の自認を借りるならば、次の演説先へ縋るようにしながら体育館を去った。
しかしその次に訪れた、昨日も演説を行った事務室前の給仕所などでも鐘巻は冷たく迎えられた。
そればかりか、その冷え込みは体育館での演説を凌駕した。
鐘巻へ最初に意見を申し出た女は、鐘巻が自らの上司であったであったばかりに言葉を選んでいた。
だが他所で迎えられた先ではついに「では非暴力の抵抗をするとして、一体誰が俺達を守るのか」という究極の問いを投げかけられる。
その給仕所からも、鐘巻は逃げるようにして部屋を後にした。
――演説に効果が無いなら、投票権を持つ支部長や農区長の説得を。
午前十一時が回るころ、鐘巻は各地の農区長を説得して回るために駐輪場にて自らの銀輪へと股を掛けていた。
だが、その後ろから声を掛ける人間が一人。
「鐘巻輸送部門長、お待ちください」
その男は、鐘巻の直属の部下。
第一体育館の朝礼で、逃げる鐘巻の背へ冷ややかな目線を浴びせた支部長であった。
「なんだ、僕は忙しい」
「忙しいからこそお待ちくださいと言っているのです、あなたにしか出来ない仕事が山積みで――」
「だから昨日から言ってるだろ。時間がない、事を済ませたら仕事に――」
「藤原英治委員長からの業務復帰命令です」
「……なんだって?」
鐘巻が積んでいたのは、日常業務に許可命令を出すような程度の低い仕事ではない。
そもそも東豊ではそのような仕事は部門長ではなくそれ未満の階級の仕事である。
彼が積んでしまっていたのは、他札幌政府間での物資のやり取りや、漁業や林業などの一次産業のサプライチェーンの接続、更には都市解体の計画など、輸送部門長の裁可により方針が決まる仕事ばかり。
しかも、そのどれもが委員会運営や委員会の民の生死に直結する事ばかり。
輸送部門にこれだけ多くの仕事が集中するのは、何を隠そう輸送部門長の前任者はあの藤原英治。
神谷圭介へのもはや依存にすら近い忠誠心、溢れんばかりの消失世界への意気込み、そして香り付け程度の権力欲が、英治の管轄した輸送部門に仕事を集中させた。
その藤原英治から「業務復帰命令」が下ったとあらば、本来なら応じざるをえない。
「…………」
しかし、そうであろうとも鐘巻は自転車のペダルに足を掛ける。
部下へ声の一つも掛けることなく。
「お待ちください部門長殿、もう少し自らの地位のことを考えて――」
「うるさいッ! この地位を差し出してでも僕にはやらなきゃいけないことが――」
「それだけじゃありません! あなたの職務放棄で飢える人間が、それこそ死者が出るかもしれないんです! どうか、そこをお考えを!」
その言葉を耳にして、鐘巻はため息と共に両足を地面へ付けた。
ヘルメットが自転車の籠に転がり込み、鋭い金属音を上げる。
冷える両手をコートのポケットへ突っ込んだまま、鐘巻は雪の積もる駐輪場で支部長へ問う。
「……お前は、明日の投票。批准か、否決か。どっちに入れるつもりだ」
支部長はかつての藤原英治の部下でありながら「神谷派」の肩書を持つ人間であった。
しかし問いへ答えを出すことが出来ず、ただ俯くのみ。
彼が鐘巻へその真意を明かすのは、翌日の投票の時にまで先送りされることとなる。
******
この期に及んでも、鐘巻祐清は諦めてはいなかった。
日付は変わらず三月十日。
時計は午後五時を回ろうとしており、委員会全体が日没とともに休眠の体制へと移ろうとする時間。
奇しくもこの時間に、同じ給仕所で朝食と夕食を同時に取る部署があった。
その部署へ働きかけを行うため、鐘巻はその足取りを早める。
給仕の時間は業務時間外。
この時間であれば、業務放棄で藤原英治に僕の活動を止められる理由はない。
これからでも彼らの支持を取り付ければ、明日の僕の演説に箔を付けられるかもしれない。
その一心で彼が目もくれず通り過ぎた、雪かきのされた路の脇に立つ一本の看板。
そこには、木製の看板へ直にこう記されていた。
「この先、旧・第二体育館及び第一寮棟」そして「現・東豊自警団本部」と。
「おやおや、珍しいお客さんですね」
第二体育館の裏口から足を踏み入れようとした鐘巻を、揶揄うような高い声が止める。
この時間の第二体育館には、自警団員が食事を取るための椅子や机が展開されており、演説をするならば格好の時間。
その鐘巻を、誰かが呼び止める。
「……誰ですか」
その特徴的な声に聞き覚えがあったものの、それが実像と結びつかず、周りを見渡す鐘巻。
周囲に人影は見当たらない。何せここは雪かきすら行き届いていない裏口。
しかし、確かに人の声がした。その視線を上に上げると――。
彼のすぐ横に停まっていたミニバンの上に腰掛け、日本刀を抱きかかえるように持ちながら紺色の学ランに身を包む、一人の男が目に入る。
「……白鳥萬か」
――白鳥萬。東豊学園自警団のナンバー二。
現在職務遂行不可能な状態に陥っている団長に代わり、全団員の指揮を代行している。
その彼が、どういうわけか裏口という人気の無い場所で油を売っていた。
「ええ、そうですとも。お久しゅうございますね、鐘巻殿。初等学校に私が預けた弟は元気にしていますか?」
「……最近は忙しくて見に行けていない」
「おっと、今は部署が違ったんでしたね。失敬失敬」
その色の抜けた長い髪を隠すように、紺色の学帽を深く被りなおす白鳥。
自らが「狐のような顔」と称す顔面は、よもや嘲る気を隠してすらいない。
「君の雑談に付き合っているほど僕は暇じゃないんです、なのでこのへんで」
「待ちなさい、鐘巻祐清。何をしようとしているんです」
体育館へ入っていこうとする鐘巻を呼び止める白鳥。その言葉からは、さきは確かに付け加えられていた敬称が省かれている。
鐘巻は「全く、どれだけ呼び止めたら気が済むんだ」と呆れ混じりに振り返り――目にした光景に、思わず絶句する。
さきほどまでは確かに嘲笑うような表情を浮かべていた白鳥が、その鋭く研がれたような三白眼を向け、溢れんばかりの目力をもってして鐘巻へ圧を掛けていた。
僅かに足が竦む鐘巻。それを前にしてもなお、白鳥は「何をしようとしているのか、聞いているのです」と問い詰める。
己の考えに正義を確かにしていたはずの鐘巻も、さすがにこの異様な状況を前に言葉を選ばざるを得なかった。
ミニバンの上から飛び降り、鐘巻と同じ目線に立つ白鳥。
見下ろされているわけではない。地の利は消えた。
にもかかわらず、等身大の圧だけで鐘巻の喉は詰まった。
それを前にして、嘘をつく意味もないと結論を出したうえで言葉を口にする
「……別に、ただ明日の条約批准に関する演説へ向かうだけです。彼らにもこれについて議論する権利が」
彼が言葉を終える前に、場に「カチッ」という何度かの機械音が響く。
その音は白鳥が鐘巻へ向けた黒い筒――拳銃の安全装置が解除された音であった。
「……少々、話をしましょう。なに、安心してください。ここで何を言おうと、この引き金が引かれることはありません。ただ、その足を一歩でも団員たちの居る方へ向けた暁には――」
目を丸くし、息を荒げる鐘巻に構うこと無く、語りを続ける。
「少々、体育館の外壁に赤い彩りが加わることにはなりますがね」
白鳥の嘲るような顔は、いったいどこへ行ったのか。
冗談めかした言葉とは裏腹に、口角を上げることすらなく、刺すような目線を鐘巻へと向ける。
「昨日の昼頃、部下がこんなことを口にしていました。この情勢下で帝国への即時抵抗を訴えている馬鹿が居る、と」
この時白鳥が受け取ったのは、事務棟の給仕所での演説の話だった。
先日の戦争での定員割れによる再募集の兼ね合いで事務棟へ用のあった団員が、鐘巻の声を耳に挟み、それを白鳥へ報告したのだった。
「その時点で愚かだとは思いましたが、主張は個人の自由。藤原閣下は職務放棄に腹を立てておられましたが……念には念をと、一人の団員にあなたのことを尾行させてもらいました」
尾行という単語に眉を動かす鐘巻。
二人の間に横殴りの風が吹き、鐘巻のコートが大きくはためく。
「それがどうでしょう、まさかその懸念が現実となろうとは。『鐘巻祐清が自警団本部へ向かった』と報告を受け取った時は、さすがの私も耳を疑いましたね」
「なぜ僕を止める。団員にも条約に意見を示す自由ぐらいあるはずだ」
「甘いッ! 向こう数年は我々にそんな自由はいらんッ! 仮に藤原閣下からそのような自由を認められたとしてもッ! 私の方から全団員の権利を唾棄させていただくッ!」
「…………」
白鳥の覇気に圧されつつも、鐘巻は問いを絞り出す。
「旧文明の時代、自衛隊には政治参加の権利があった。彼らも同じじゃないのか」
「……そもそも今の我らは同胞を失い、不治の傷を負い、敗北という辛酸を舐めています。あまり刺激を与えないでやっていただきたいという話ではあるのですが、もっと根本的な話をしましょう」
白鳥が力強く銃を握り込むと、ポリマー製のグリップが音を立てながら軋む。
その力の入りようが鐘巻に「これから核心を問う質問が飛んでくる」ということを確信させた。
「鐘巻殿は、シビリアン・コントロールという単語を知ってらっしゃいますか」
「軍の最高指揮権は文官……政府が持つという原則だったか」
「そうですね。そして我ら東豊の最高指揮権も、名目上は全権を、実質上も九割九部を藤原英治閣下が掌握しておられる」
――逆に、残りの一部は誰が持っているのか?
そんな真っ当な疑問が、鐘巻の脳内に浮かぶ。
「しかし、残りの一部だけは制度の力ではどうしようもない。なにせ、団員たちの気が触れて自警団による蜂起が起これば、この国は簡単に吹き飛ぶ。我々は、そんな瀬戸際にいるのです」
――鐘巻祐清の扇動的な演説が、団員たちのクーデタを煽りかねない。
市民や農民の心を煽ろうとも、彼らは行動する術を持たない。
彼らの武器はコミュニティとその声の数であり、それが歴史を動かすことも少なくなかった。
鐘巻は兵士たちにもそうした「一人の人間」としての役割を期待した……のだが、生憎なことに兵士の手元には人を殺せる武器があり、帝国への復讐と不服従という大義がある。
そこへ鐘巻という「現体制への反発」と「帝国への不服従」を掲げる有力者が現れれば、鐘巻の意思に反し現体制を暴力的に転覆させかねない。
「だから! 私はこうして銃を向けているのです!」
声を荒げ、再び鐘巻を強く睨みつける白鳥は、確かな決意のもとに意思を顕にする。
「ただでさえ敗戦と指導者の交代という混乱の最中にあるにも関わらず! 条約の内容以前に東豊という組織が倒れてしまえば、札幌に未来はない!」
「で、でも……」
「クーデタが起こり体制がひっくり返ったあとであろうとも『でも』と言い訳するのですか! 私を舐めてくれるな! ただでさえ、今こうしてあなたへ銃を向けているという事実が私の首に縄を掛けかねないのです!」
死を仄めかす単語を口にしたにも関わらず、白鳥の瞳の奥にある魂は揺らいでいない。
その瞳に、鐘巻は自らの職務や信念……いや、それ以上に大きな何かに対する狂信を感じ取った。
「東豊軍人は反逆しないッ! これでもなおあなたが反逆の一石を投じにいくのであれば、私はあなたを殺し! 藤原英治閣下の裁下のもと、私も首を括って死ぬ覚悟なのです!」
齢十九が発するとは思えない言葉の羅列。
鐘巻はこの瞬間まで、自警団を「どこまで行っても僕らと同じ高校生だ」と考えていたが――それが間違いだということを、心の底から分からされた。
「……ッ!」
白鳥に気圧され、身体全身を強張らせていた鐘巻だったが、ここに来てついにその足が動く。
しかし足先が向かうのは体育館ではなく校舎の本棟。
その姿は決して怯えたような走り方ではなかったが、直面した理不尽と狂気に気を侵され、逃げると言うよりはそれを遠ざけるようにして走り去った。
その光景を白鳥はただ、セーフティを一つずつ掛け直しながら黙って眺める。
そして白く曇った札幌の空を見上げ、肩の力を抜きながら息を一つ漏らした。
「…………さ、信念では勝ちましたが。藤原閣下や猪木団長は私のことを赦してくれますかね」




