第2話:こどもたちのくに
第2話:こどもたちのくに
会談から三時間ほど後。
百名弱で構成される代表団の縦列、その中に二頭だけ混じる馬匹。
その片割れ、愛馬こひばりの背に揺られながら俺達代表団百名弱の縦列は母校東豊へと帰還した。
除雪された校門の正面に聳えるは、ガラス張りの職員棟。
棟の側面からは仮設の煙突が伸び、泥炭暖炉の噴煙が空高くへと登っていく。
その噴煙の中に混じる白い湯煙。
湯煙の元を辿ると、夕食として配給される芋と雑穀のごった煮汁の釜が備え付けられたテントが目に入った。
普段より早いにも関わらず、それを求めて数十名の農民や労働者たちが配給券を片手に列を成していた。
……いや、待て。
どこからか僅かに血の匂いがする。
時刻から考えるに、朝の猟師が獲物を担いで帰ってきてから相当な時間が経っている。
もしや、今日の配給にはジビエが入っているのやもしれん。
だからこれだけ早い時間に行列が出来ているのかと納得すると共に、唾液腺から止めなく唾が溢れてくる。
「……鹿か、猪か」
コートの内ポケットから配給券を三枚取り出し、傍に居た世話係の男へとそれを差し出す。
「すまないが、あれに並んでくれないか? この後すぐ会議が控えている、空いた時間で腹ごしらえがしたい」
「分かりました。ですがなぜ三枚も?」
「一食目は俺へ。二食目は俺の名義で事務室へ持って行ってくれ。そして三食目は駄賃、つまりはお前のだ。ほら、早く行かないと無くなっちまうぞ! 行って来い!」
馬上から見下ろす形でそう伝えると、世話係の男は目を輝かせながら口角を上げ、足早に縦列から抜けて列へ並びに行った。
だが俺の横を並んで進む馬の上。
そこで手綱を握る一人の痩せた男が、ニヤつきながら話し掛けてくる。
「おいおい英治、俺の分はねえのか? 事務室へ持って行く分って俺の分だろ?」
「ねーよ、自分で貰いに行け。あと事務室の分は朱音の分だ、勘違いするな」
「チッ、ケチな委員長だぜ。今からでもあの鍋の中が犬肉になる呪いを掛けるか」
「止めてくれ、橘。犬肉は臭くて好みじゃない」
「当たり前だろ、知っててやってるからな」
形だけは悪態を突くものの、男の出っ歯を晒しながら笑う口元が、それが冗談だということを物語っている。
「……まあ、冗談はこんなもんにしておこう」
馬を調教師に預けるため縦列を離れた直後だった。
雑談もほどほどに、橘の表情が硬く締まる。
「一応確認しておくが、会談は成功ということで良いんだな」
「ああ。思った以上に提案が通った」
軍備と食料面で譲歩はしたが、正直ここまで交渉が東豊有利に進むとは思ってもいなかった。
会談直後、隣の部屋で待機していた橘に成功を報せた時の驚嘆の表情が今でも網膜に焼き付いている。
「となると外の敵は一旦宥められたわけだが……次の問題は内の敵だ」
「……そうだな」
馬の手綱を軽く引いて脚を止めさせ、鐙に足を掛けて馬上から降りる。
「果たして神谷派が条約を呑むのかだが」
「普通のやり方では無理だ、そう断言できる」
手綱を調教師へ引き渡し、牧場へと帰っていく愛馬を尻目に、条約発効までの壁の高さを改めて認識する。
「……神谷圭介が遺した最悪の置土産だな」
「あまりそう言うな。あいつもこんなもの遺したくて遺したわけじゃない」
だが、橘の言い方も間違ってはいない。
何としてでもあの条約を発効させねば東豊に未来は無いにも関わらず。
あいつらは草案作成へ権限超過しつつ大々的に介入してきた、いつまでも学生気取りの愚図どもなのだから。
橘の方へ振り返り、一つ問いかけをする。
「案はある。時間は掛かるだろうが……手伝ってくれるか?」
「あたぼうよ、俺を誰だと思ってる。 東豊外交部長の橘貴弘だぞ?」
「……ありがたい」
辛いことに、東豊指導部における俺の完全な味方は少なくない。
だがこちらへ向けるその熱い視線が、俺が決して一人じゃないことを改めて伝えてくれる。
「まずは、鐘巻と話してみよう」
******
「ですから! あなたは神谷さんから! 神谷圭介から何も学ばなかったんですか!?」
会議は沸き立つ、されど進まず。
案の定と言うべきか、目の前にいる男が俺へ向けて怒号を飛ばす。
旧東豊学園校長室、現在は委員長室として運用されている小洒落た一室で。
泥炭暖炉の灯りを頼りにしながら、亡き圭介が去り際に東豊学園輸送部門長へ任命した、鐘巻祐清と向き合っていた。
「鐘巻……気持ちは分かるが、これが現実だ。受け入れろ」
「……」
鐘巻は腿へ拳を打ち付けると、そのまま両手で口周りを覆った。
錆色の前髪の間から覗かせるこちらを見上げるような目線は、溢れ出る恨み辛みを隠そうともしない。
「……家気取りですか」
覆われた鐘巻の口から、籠るような声が響く。
泥炭の燃える弾けるような音に、最初のいくつかの音が掻き消される。
「何と言った?」
「政治家気取りですかって聞いてるんです」
「質問に質問で返して悪いが……逆に俺達が政治家でないならいったい何だ」
俺達は現実主義、鐘巻は理想主義。
元よりそういう触れ込みではあるが、その理想主義をせめて政治という土俵に乗せてほしいと願うが……よくよく考えれば、それも今に始まった話ではなかったな、と自分で無理くり呑み込んだ。
「せっかく、子どもだけの世界になったんです。本当に平和な世界にできるやり方がどこかにあったはずなのに……それを自分たちだけ助かろうだとか、奴隷を認めようだとか言って……政治家ごっこばかりに興じて……」
鐘巻は、包み隠すことすらなくはっきりとそう述べた。
俯き、肘を突くようにして両手を覆う鐘巻の鼻腔から、息を啜るような音が響く。
「一つ……いや、二つだ。訂正して欲しい文言がある。」
暖炉の燃料が爆ぜる音と共に、鐘巻がこちらを見上げる。
生気の籠もっていない眼、そしてその下に広がる隈。
こいつも戦後の混乱の中で疲労を溜めた人間なのだろうが……今は互いがそうだ、関係ない。
「一つ。俺は何も、東豊の民だけを救おうというつもりはない。東豊は札幌中に農耕のネットワークを張り、数千の人口を養う大きな政府だ。帝国へ従属するとは言え東豊が札幌全土を治めることは、いずれは札幌全ての飢える人々を救えることを意味する」
長々とした話を、鐘巻は珍しく黙って聴いている。
理解はされているにしても、納得は半分もされたら良い方だろう――そんなある種の諦念を浮かべながら、続きを口にする。
「そして二つ。確かにお前の言う通り、俺は帝国の軍門に下り、帝国兵に撃ち殺された自警団員や、これから奴隷として役使され死にゆく者たちを愚弄しのかもしれない。だが……お前は『せっかく子どもだけの世界になった』と口にした、それは確かだな」
「確かに言いましたが……それが何だって言うんですか」
「……それこそが死者への真なる愚弄だと、俺は考える」
鐘巻へその事実を突きつけても、眉に力を込めるばかりで何も口にしない。
この様子だと何も理解していないようだ。
身内にこういうことをするのはあまり好みではないが、少し芝居がかったことをしよう。
「……消失から、一年が経つ。ちょうど一ヶ月後だ」
椅子から立ち上がり、旧文明時代にはトロフィーや写真の飾られていた漆が均等に塗られた戸棚、その下段の最右列に鎮座している一つの地球儀を手にする。
「鐘巻、お前は消失によっていくらの人々が死んだと思う」
「分からない。二〇〇万……いや、もしかすれば三〇〇万人は亡くなってしまったかもしれない」
「……甘いな。視野が狭い」
橘の前に、地球儀を置く。
ガラスのテーブルの上に、石製の高級感のある支えが心地よい音を立てながらその足をつける。
軽く地球儀を回し、日本の位置する東経一三五度のあたりを鐘巻の方へ向ける。
「日本の人口は、消失前いくら居たか知っているか」
「……一億、二〇〇〇万です」
意図に気がついたのか、僅かに目を見開く鐘巻。
「そうだな。しかし、第一図書室の概算によると、消失により少なくとも一億の命が失われた」
少しずつ地球儀を東へ、つまり鐘巻から見て日本の西が見えるように回していく。
「そして中華人民共和国十四億、インド連邦共和国同じく十四億、アメリカ合衆国三億と四〇〇〇万……地球上には数え切れないほどの人類が居たが、どれだけ少なく見積もろうとも五十億の人々の命が失われた。それも消失だけじゃない、その後の二次災害……飢餓、寒波、疫病、治安の悪化、育児の放棄も含めれば、死者の数は下手をすれば六十億を数えるだろう。日本の死者も、二次災害で膨れ上がる」
「……確かに、浅はかだったかもしれません。それに、消失によって多くの人が亡くなったことは悲劇です。だからこそ僕らがその死を無駄にしないためにより良い世の中を――」
「……今のもまた、愚弄だな」
小声で溢した俺の言葉を拾い上げ、舌打ちをしながら俺を睨み上げる鐘巻。
だが、それに意を介す価値は無い。構わず語りを続ける。
「良いか鐘巻、心して聞け。俺達が今生きているのはたまたま十九歳未満だったから、そして消失後に上手く生き残る軌道に乗れたからに過ぎない。だが外を見ろ」
握りこぶしを作りながら、机を回り彼の傍へと立つ。
既に真っ暗になった外をもう片方の手で指し示し、彼へ凄むような目線を送る。
「帝国、飢餓、寒波! 存在が確実な脅威が、偶然では回避できない厄災がそこに居座っている! だがその脅威は消失後になって初めて姿を現した脅威じゃない! ……そう、居たんだよ、俺達が生まれてから今に至るまで、ずっと」
「……ずっと、居た」
「ああ、居たさ。厳密には、居ないように見えた」
その言葉に、更に頭の上に疑問符を浮かべる鐘巻。
瞳孔は大きく開き、反論しようにも脳の方が追いついていないのか、口だけが開閉を繰り返している。
「食料を生産する農家が、燃油を生産する精製工場の技術者が、外国の脅威から国を守る軍人が、物を運ぶための道を作る労働者が、そして全ての地盤を作る政治家が居たから。俺達は、その脅威を見ないふりが出来たんだ」
固く握った拳を、鐘巻が据わっていた二人掛けのソファへ振り下ろす。
その衝撃はソファの木製の骨組みにまで伝わり、委員長室全体に鈍い音が響く。
「その現実を前にして、何が世界を変えるだと? 平和な世界にするだと? 甘えたことを言うな、俺達がやらなければならないのは世界を元に戻すことだ!」
「だ、だけど世界を元に戻すだけなら」
「歴史の話だ。消失前の日本があったのは、太古の昔から現代に至るまでの人々の努力があったからだ! だが考えてみろ、昔の労働者は死と隣り合わせの環境で働かされ、人権運動家は国に殺される覚悟でその権利を訴えた! 今、この消失後の世界はその時代と同じ水準……いや、もっと昔の水準にあるのかもしれん」
……自分が怒りと苛つきに囚われていることに気が付き、僅かに熱が冷める。
大きなため息とともに、ソファへ打ち付けた拳をそっと離し、彼へ背を向けながら独り言を言うように呟く。
「過程を甘く見るな。進歩を軽んじるな。それを反故にすることこそが、死者への愚弄だ」
そうだ。
それだけが、俺が死者へ出来る弔いだ。
犠牲を出してでも、旧文明の時代に大人がしてくれたように社会を創っていかねばならない。
……その理由ぐらい、東豊の教育や託児所整備を主導した鐘巻なら分かってくれると思っていたんだがな。
「ッ……!」
舌打ちのような、それとも声にならない声と共に、ソファがガタンと揺れる音が鼓膜へと伝わる。
その直後、委員長室のドアが開き誰かが廊下へと駆け出る。
……無論、その音の主が去り際に俺を睨みつけていたのは言わずもがなだろう。
「ど、どうかされましたか?」
委員長室の前の廊下で警備していた自警団員の一人が、急な物音に顔を出す。
「大丈夫だ、心配するな。それよりも橘外交部門長を呼んできてくれ、話がしたい」
「わかりました」と口にした団員が後ろ髪を引かれながら橘を呼びに行く傍らで、俺は委員長の事務机へと腰掛ける。
この椅子は、あいつが委員会を去ってから一週間が経った今でもその身体の形を覚え続けており、どこか座り心地が悪い。
椅子の背もたれを限界まで引き倒し、鼻筋を手で摘みながら天井を向く。
部品の軋む音ばかりが反響していた。その中に、全く別の音が混じっているように聞こえたのは、きっと気のせいではないだろう。
「殺すしか、ないのか」
******
橘との会合のを終えたのち、久々に見る夢を見た。
俺が中学のときの夢だ。
ラグビーがやりたかった。ぶつかる肉体、熱、そして歓声。
十一の時に見たテレビの熱狂を、今でも覚えている。
だが、親父は俺を何がなんでも裁判官にしたかったらしい。
だから小さい頃から勉強三昧、母さんの嘆願で小学受験は避けられたが中学受験は受けさせられ――そして、落ちた。
父からの圧力は更に強くなり、中学一年生の時から「中学に落ちたなら東豊に入れ。絶対だ」と約束させられた。
父にはラグビーチームに入ることも、学校で他の部活動に入ることさえも許されなかった。
けれど。出張弁護士だった父親の目を掻い潜って、母さんが俺をクラブに入れてくれることになった。
コソコソやるなんて正しくない。バレれば一巻の終わり。全く現実的な方法じゃない。
でも、母さんがそうしてくれたから。だから頑張ったさ。
チームの仲間と親交を深め、実力を磨き、遠征ではなかなかな成績を残し続けた。
このまま中学から高校へと続けて、大学は体育大学に入って俺はプロになるんだ。
そう、疑わなかった。
「英治……お前こんなとこで何やってんだ」
この夢は、そんな中学三年の春の時のものだった。
出張から電撃的に帰ってきた父に、よりにもよってクラブの帰り道に当時の仲間たちの前で見つかった。
辞めさせられた。取り上げられた。軟禁された。
中学三年の俺に残っている記憶はそれだけだった。
絶望したさ。
最後のトレーニングから久しく、萎んでいく二の腕に弾力を取り戻していく腹。
夢を叶えることが無理だってことを、それを直視した時に理解してしまった。
だからか、高校に入る頃の俺はひどく冷笑的になっていた。
苦しまないためならなんだってやる。
模試のための勉強だって、より良いクラスへ行くために他人を蹴落とすことだって。
現実以外に、価値は無い。そうやって、理想を冷笑視していた。
「…………」
アイマスク代わりにしていた厚手の本を、顔の上から除け、机の上に置く。
時間は既に朝で、暖炉の炎が消えかかっているのか、服の中で立つ産毛がシャツに擦れている。
――最悪な目覚めだ。
三年前の俺ならそう愚痴を漏らしていただろうと、机に置かれた厚手の本を指の腹で撫でながら思う。
本の題名は『伝記・神谷圭介』。
どうやらこの本の存在を抹消したい奴らが札幌の南に居るらしく、そいつが恐ろしいせいでまだ内容どころか題名すら本に刻むことが出来ていない、本とは名ばかりの一冊の厚手のノートなのだが。
それでも、俺を変えてくれた男の歴史が将来的に刻まれるこのノートに、哀愁に近い物を感じ取る。
そう――――あの夢には続きがあるのだ。
高校一年の秋、生徒会選挙が終わった少しあとのこと。
便所に寄っていて一人で人文室へ向かう俺に、ある男が声を掛けてきた。
「君が藤原英治くん……だね。俺の生徒会で書記をやってくれないか」
先日、俺が白票で投票した生徒会選挙の当選者、神谷圭介が俺へ声を掛けてきた。
当時は何の意味も無いと思っていたために、その頃には何を公約としていたかすら忘れていた相手。
こいつは何を言っているんだ、と思った。
別に俺も昼飯を一緒に食う相手に困らない程度には友人も居た。
だが、その時の俺と圭介は本当の初対面。
少なくとも俺はその顔を見たことが無かった。
薄いフレームの眼鏡に細身の長身、目はキリッと釣り上がっているいかにもな真面目クンが第一印象だった。
そんな彼は、俺が高校生にして司法試験の勉強をし始めているのを耳にして声を掛けたらしい。
「俺には生徒会でやりたいことがある。だから君の力が必要だ、手を貸してくれ!」
「嫌だ、俺は忙しい。帰ってくれ」
そうきっぱり断ったあとも、一週間以内に三回……いや、五回は俺のもとを訪れた。
三回目ほどまでは「このまま書記が決まらずに神谷内閣の流産を眺めるのも面白そうだな」となかなかに屑なことを考えていたが、そんな俺の意思も「副書記、かつ毎週木曜のみの委員会参加」という条件付きで折れてしまった。
そこまでして法曹の道を歩まされていた俺を勧誘した理由を聞き、俺は圭介の正気を疑った。
「俺は、男でもスカートが履けるようにしたい。逆も然り。匿名のトランスジェンダー生徒若干数名からの嘆願、俺が生徒会をやろうと思ったのもそれが理由だ」
当人曰く「おっと、俺はその若干数名ではないぞ」と、謎の修正を付け加えた。
最初それを聞いた時は耳を疑ったさ。
まあ、男がスカートを履くことは良い。俺は履きたいと思わないが、そういう時代だからな。
だが、それを生徒会が?
正気の沙汰ではない。
こいつはアニメや漫画に脳でも焼かれているのかと正気を疑った。
実際の生徒会には絶大な権力も、予算の決定権も、学校指導部との大きすぎるコネもない。
しかも相手はあの「東豊」だ。小等部から大学院までを擁する北海道の土着学園グループで、北海道保守政治の牙城の一角。
だからそんなことは甚だ無茶だ、不可能だと心の中で冷笑した。
――圭介は、その予想を裏切った。
現行の校則の問題点を俺に調べさせ、北海道の活動家の支持を取り付け、道内の教育委員会とも意見を交わした。
話は俺の冷笑を置き去りにする速度で進んでいき、東豊の経営指導部と直接対談するにまで至った。
ここまで来ても、俺は協力的な態度はとりつつ内心では冷笑していた。
いや、冷笑しなければ耐えられなかったんだろう。眼の前で理想が叶おうとしていることに。
そのやり方がまるで現実的なものだったことに目もくれず、最終目標が理想的であったというだけで俺は嗤っていた。
そうして訪れた、東豊学園指導部との対談の日に。
圭介は、あろうことか遅刻をかました。
少し前までには共に居たはずだったのに、定刻の五分前になってから姿を消した。
焦る委員会一同。腕時計をしきりに確認する東豊指導部。
そして――定刻三分後になって、トイレから姿を現した圭介の姿に、一同が目を丸くした。
あの神谷圭介が、スカートを身に着け、このクソ真面目な雰囲気の漂う会議室に姿を現したのだ。
なんとか取り付けた対談。叶うかも分からない請願。
それを少しでも確実にするために、わざわざ姿を消し、わざわざ遅刻し、最も注目の集まる瞬間で「今日の主役は指導部じゃねえ、俺だ」と言わんばかりに登場した。
だとしてもそこまでやるか、普通。
そんな混乱の中で初めて圭介への敬意を自覚するとともに、口の端が僅かに緩む。
「……ふふっ……ふふっ……」
俺は、耐えきれなかった。
「ハーッハッハ……! ハハ……ハッハ……フフ……ハハッ!」
横に座っていた橘に「おい、笑うな」と諭されたが、笑いを堪えるなんて出来っこなかった。
その笑いは、圭介のスカート姿を嗤っていたわけじゃない。
圭介の熱い心が。現実的な算段が。
そして、彼のなんとしても理想を叶えようとするその姿勢が。
俺に「なんでこんなことに今まで気が付かなかったんだ」という気付きを与え、そして融かしてくれたがゆえの笑いであった。
そして、生徒会は見事一切の妥協を経ずに校則の改訂に成功した。
――現実的な手段を踏めば、理想は叶うという、当たり前のことを圭介は教えてくれた。
そうだ。
俺が嫌いなのは理想なんかじゃない。
第一、俺の「世界を元に戻す」なんて目標は理想もいいとこだ。
あれほど一つに繋がっていた世界は散り散りになって、今この瞬間も消失の二次災害で多くの人が死んでいる。
俺が嫌いなのは、現実を経ずに理想だけを垂れるやつらだ。
そして、俺の手元にはまだ無数の「現実」の択がある。
「だが、同胞を殺さなくて良い……何かもっと良い策があるはずだ」
未だに半分眠っている脳みそを叩き起こし、白紙のノートを机の引き出しへとしまう。
探さなければ。東豊が二つに割れる事態を避ける、最善の策を――。
「……二つに割れる?」
待てよ。
消失以来、神谷派は長い間圭介が率いていて、その間にも俺の派閥と協力して様々な施策を成功させてきた。
それは何も理想に基づくものだけじゃない。自警団の設置や札幌諸政府との外交のような泥臭いものもあったはずだ。
つまり、かつての神谷派は俺と協調が出来た。
そして圭介亡きあとに神谷派の旗振り役に躍り出たのが、過激な理想主義者の鐘巻祐清。
……そうだ、違っていたんだ。
俺がやるべきことは、神谷派を弾圧して東豊の分裂を解決することなんかじゃなく。
派閥を私物化した鐘巻祐清から、神谷派を救い出すことだった。




