謝肉祭(二)
先ほどの男性客が顔色を変え、肘掛けに手をかけて立ち上がろうとした。しかし、体重をかけた瞬間、肘掛けがヌチャリと生暖かい音を立てて波打った。座席全体が生き物のように収縮し、彼の太ももや腰を締め上げていく。
「な、なんだこれは!」
悲鳴が上がる。壁際に座る人たちは壁に手を伸ばすが、指先の触れた壁面は、布地ではなく温かい粘膜の感触へと変質していた。天井の非常灯の緑色さえ、何者かの手で黒い油彩を塗りたくられたかのように消え去る。
映画館の照明が完全に落ち、暗闇がホールを支配した。
直後、真っ黒だった巨大スクリーンがジュッと肉を焼くような不快な音とともに青白く発光した。
そこに映し出されたのは、他でもない、いまこの客席で狂乱する観客たちの姿だった。
レンズやカメラの位置などどこにも存在しないはずなのに、スクリーンには頭上から見下ろす全景と、逃げ惑う一人一人の顔が異常なほどの鮮明さで超高精細に映し出されている。
自分の顔が画面いっぱいにアップで映し出された女性客が、恐怖のあまり喉を鳴らした。画面の中の彼女は、恐怖に歪んだ顔で汗をかき、必死に座席から足を抜こうともがいている。その表情の微細な痙攣までもが、現実と寸分の狂いもなくリアルタイムでスクリーンへ投影されていた。
観客たちが目撃しているのは映画ではない。いま、この場所で起きている惨劇そのものが、何らかの異常な力によってリアルタイムで撮影され、リアルタイムで上映されているという悪夢だった。
スクリーンの映像は、まるで悪意ある監督がカメラを回しているかのように、拘束された客の青ざめた表情や、波打つ壁面の肉質、床から這い上がる粘液の質感を舐めるようにクロースアップしていく。自分が恐怖に怯える惨めな姿を、自分自身で鑑賞させられるという逃げ場のない狂気。
巨大なスクリーンの幕の向こう側から、粘つきのある足音が響き始める。逃げ道を探して出入り口へ殺到した客たちもいたが、扉は壁面と一体化し、まるで最初から存在しなかったかのように硬く閉ざされていた。
足元からは、ドス黒い粘液が溢れ出し、床一面を浸たしていく。その粘液は靴底を溶かし、観客たちの足首を捉えて離さない。闇のなかで、終わりの始まりを告げるベルが、悲痛な悲鳴にかき消されながら鳴り響いた。




