死線と視線の死合い
七尾が怪異館の奥へと歩を進めると、風景は現実の廊下から、いつの間にか極彩色の襖絵が並ぶ武家屋敷のそれへと変貌していた。
古びた木材が軋む音。湿り気を帯びた空気の中に、甘ったるい線香の匂いが混じる。
七尾の足が止まった。廊下の突き当たり、闇の奥から摺り足で近づいてくる人影があった。それは、顔がのっぺりと白く塗りつぶされた、艶やかな着物姿の女だった。
顔がない。だが、その頭部には、無数の「目」が貼り付けられている。あどけない子供の瞳、充血した男の瞳、あるいは獣のような眼光。それら全てが、七尾の挙動をあますところなく捉え、まばたき一つせずに監視していた。
【監視遺物こと、顔無し着物女】
脳内に敵対者を紹介するアナウンスのような言葉が響いた。
女の指先が不自然に長く伸び、爪の代わりに鋭利な剃刀のような黒い刃が覗く。
「……またゲームの演出か」
七尾はナイフを逆手に構え、低く呟いた。
女が音もなく加速する。摺り足の速度を逸脱した、瞬間移動に近い踏み込み。
天井を這い、あるいは壁を蹴り、女は蜘蛛のように多角的な角度から七尾を追い詰める。頭部の無数の目が、七尾の死角を瞬時に計算し、最短距離で殺しにかかるのだ。
女の腕が振るわれる。七尾は紙一重で首を逸らし、かすめた前髪がぱらりと床に落ちた。
直後、七尾のナイフが閃光のように女の肩口を切り裂いた。だが、傷口からは血ではなく、ドロリとしたインクのような黒い液体が溢れ出る。女は痛みを感じる様子もなく、むしろ貼り付けられた目の一つが、七尾のナイフの軌道を学習したかのように不気味に歪んだ。
「見られるたびに、動きが最適化されているのか」
七尾は廊下の壁を蹴り、大きく距離を取った。
女は首を傾げる。顔がないはずなのに、無数の視線が七尾の心臓を射抜こうと集中しているのが分かる。
次の瞬間、女は着物の裾を翻し、膨大な数の目から一斉に黒い霧を噴き出した。それは光を喰らい、廊下を完全な暗闇へと塗り替える。
音のない殺意。
七尾は視覚を奪われた状態で、あえて目を閉じた。
耳を澄ます。衣擦れの音、湿った皮膚が床を打つ音、そして無数の瞳が瞬く微かな気配。
女が死角から襲いかかる。
七尾は襲撃の直前、気配が膨張したその刹那に、あえてその場にしゃがみ込んだ。頭上を鋭利な爪が通過する。七尾はその爪の付け根にナイフを叩き込み、重力を利用して強引に女の体を引き倒した。
「監視しているんだろう? なら、俺が何をしようとしているかも、最後まで見えねぇといけねぇよな」
七尾は倒れ伏した女の頭部、その無数の目の中央にナイフを深々と突き立てた。
耳を覆いたくなるような、何百人もの泣き声が重なったような絶叫が廊下に響き渡る。女の体は、まるでインクをこぼしたように黒く溶け出し、壁の襖絵に吸収されていく。
静寂が戻った廊下に、七尾の荒い呼吸だけが響く。
先ほどまであったはずの殺気は消え、ただ古びた屋敷の冷え切った空気が残された。
七尾はナイフの血、……黒いインクを拭い去ると、何事もなかったかのように、さらなる暗闇の先へと歩みを進めた。黄泉野完結という支配人が待つ、終幕の場所へ向かって。




