死線への畏怖
ほどなくして鳴瀬の体が燃えカスの煤のように空中に舞い上がり、跡形もなく崩れ去った。
七尾は穏やかな暮らしの待つ今の家には戻らず、来た道を引き返した。向かう先は、怪異館シネマシアター。支配人・黄泉野完結が待ち受けるその場所へ。
「なぜ俺に関わろうとしたのか……いや、それはどうでもいい。安寧を脅かすモノは放っておいちゃいけねぇ。理由は、これだけで充分だ」
怪異館の入口は閉ざされていた。クローズドと掛けられたプラカードに、『御用のある方は裏口までお越しください』とご丁寧に記されていた。
七尾は裏口に回るため建物に沿って歩き出した。この先に何が待ち受けていようとも、黄泉野だけは始末しないといけない。あいつは危険すぎる。
建物の裏手に回り込むと、錆びついた鉄扉が重苦しい音を立てて半開きになっていた。そこから漏れ出すのは、埃っぽいカビと、微かに焦げたフィルムの匂いだ。七尾傑は躊躇うことなく扉を押し広げ、暗闇の奥へと足を踏み入れた。
内部は映画館のバックヤードというよりも、狂気の実験場のような光景だった。壁には無数のモニターが埋め込まれ、そこには映画のワンシーンではなく、七尾のこれまでの行動記録や、見知らぬ場所の風景が高速で切り替わっている。
部屋の中央、古びた映写機を背にして、男が優雅に脚を組んで座っていた。支配人・黄泉野完結だ。男は七尾の姿を認めると、満足げに目を細めた。
「よく来たね、傑。ようやく主役に会えた気分だよ」
七尾はナイフの柄を強く握りしめ、銃口を向ける代わりに感情を排した視線を投げる。
「お喋りは要らない。あんたの目的は何だ」
黄泉野は肩をすくめ、背後のモニターの一つを指差した。画面には、七尾がかつて愛した、そして今も心に焼き付いている映画『飢餓残滓』の暗いワンシーンが流れている。
「君を抜擢したんだよ。私が今、魂を込めて制作しているアドベンチャーホラーゲーム。そのテスターとして、君以上の適任者はいないだろう? これは、ただの映像ではない。君の記憶と感覚を、現実の論理と混ぜ合わせる装置だ」
黄泉野がパチンと指を鳴らすと、床の質感が急激に変化した。コンクリートの冷たさが消え、湿り気を帯びた腐敗臭が漂う。周囲の景色がぐにゃりと歪み、七尾は自分が映画の中の廃墟に立っていることを悟った。
不意に、背筋を突き刺すような殺気を感じた。頭上から轟音と共に床が剥がれ落ちる。七尾は反射的に跳躍したが、重力に抗う暇もなく真っ逆さまに暗闇へと叩き落とされた。
闇の底で待ち受けていたのは、幾重にも重なる鋭い牙の塊だった。映画『飢餓残滓』の怪物『大口喰らい』。無数の人間の腕を縫い合わせ、中央に巨大な裂け目のような口を持つ忌まわしい造形物だ。
ガチガチと耳障りな咀嚼音が鼓膜を震わせる。怪物は何でも噛み砕こうと大口を開けた。その巨大な牙の並びには、ごくわずかな隙間が存在する。
七尾は落下しながら、あえてその死の隙間を狙った。恐怖に呑まれる暇はない。冷静に、ただ獲物を解体する手順を脳内で構築する。怪物の食道が収縮し、今まさに歯が閉じられようとするその瞬間、七尾は体を捻って滑り込んだ。
肉を擦る感触と、悪臭が鼻腔を突き抜ける。口内から喉奥へ入り込んだ七尾は、躊躇いなくナイフを突き立てた。
断末魔の叫びは、現実の音ではなく、歪んだフィルムの逆回転のような音に変換されていく。怪物の体組織が黒い霧となって霧散した。
強い衝撃が全身を襲い、七尾は硬質な床へと着地した。
再び視界が開けると、そこは怪異館の裏口から入ったばかりの事務所だった。先ほどまであった映写機も、黄泉野の姿も消え失せている。ただ、静まり返った部屋の中に、古いフィルムを巻く機械音だけが虚しく響いていた。
七尾は荒い息を整えながら、周囲を見渡した。壁にはメモ用紙が一枚、ピンで止められている。そこには、走り書きのような文字で、次の舞台となる場所が記されていた。
七尾はそれを見つめ、静かにポケットへ仕舞う。ゲームなどという言葉遊びに付き合う気はない。だが、この悪趣味な舞台をぶち壊すには、一度その懐に入るしかないことも理解していた。
この先には、もっと多くの幻覚が待ち受けているだろう。しかし、七尾の瞳に揺らぎはない。彼は事務所を後にし、怪異館の奥深くに続く廊下へと歩を進めた。支配人を見つけ出し、全ての元凶を断ち切るために。




