死線への嗅覚
七尾傑。それが俺の偽名だ。死地をくぐるという言葉の韻を踏んでいる。
この街に来てから、数年が経った。……数年、正確な年数を覚えられないのが俺の性質だ。過去から今を数えたところで変わるものなどありはしない。数えたり、ましてやそれを覚えていようなどとは、露にも思わない。最近じゃ、元の名前すら忘れかけている。
ファミリーのアジトから抜け出て辿り着いたこの街には、以前、仕事の報酬でもらった一軒家がある。家具や調理道具、生活に必要な備品はすべてそろっており、管理をハウスキーパーに任せていた。
街に馴染むにはそう時間はかからなかった。と言っても、ご近所付き合いをするような人相でもないし、怖がられるのがオチだ。そんな俺にも、ひとつ趣味ができた。映画館に行って映画を観ることだ。この年になって初めて訪れた映画館に震えた。肌に伝わる音の迫力、声や息の生々しい感触を体感することは、神経過敏な生活を送ってきた俺には刺激が強かったのだ。要は、ドハマリした。
行きつけの映画館『怪異館』は、昔ながらの日本特有のおどろおどろしいものとは少し趣向の異なった、異界と現代の間を行き来するような作品を取り扱っている。週に一度は来館し、旧作を三本梯子して観るのが、俺のここでのルーティンだ。特にお気に入りなのは『飢餓残滓』。あれは何度観ても興味深い。興味深いと思ったのは、極限状態の人間の本質、生きたいと願う力を己に重ねて見たからなのだろう。
怪異館に入ると、来月の新作のポスターが目に入った。タイトルは『錆びついた死線』。ヒットマンの女性の物語とある。
「女スナイパーではなくヒットマンとは、俺好みだ」
内心で、新作への期待値を上げた。いつも通り観るものを見て、怪異館を後にする。ふと背後に異様な視線を感じて振り返ると、怪異館の支配人である黄泉野という男が、退館する客へ恭しく礼をして見送っている姿があった。
あの男、何者なのだろうか。俺のいた世界の住人と似た空気をまとっていやがる。最低でも二桁、いや、三桁はいっているか……。まぁいい。おかげで、俺は今を楽しめているのたから……。
映画館を出た後、街の喧騒はどこか現実味を欠いて感じられた。俺は重たい扉を閉め、怪異館を背にする。背筋をなぞるような黄泉野の視線が、まだ肌に張り付いているような気がした。
帰路につく途中、俺はふと足をとめた。いつもの路地裏にある、寂れたタバコ屋の前だ。店主の老婆は今日も今日とて、店番をしているのか寝ているのかわからない様子で、小さく背中を丸めている。
「……あいつ、俺が誰か気づいているのか?」
独り言が風にさらわれていく。俺はポケットのライターを弄びながら、冷めた思考を巡らせる。俺がこの街に身を隠しているのは、単なる隠遁のためだけではない。かつて属していた組織――ファミリーの残党が、俺を追っている可能性を完全に排除できたわけではないからだ。
数分間、店先に立ち尽くした。不意に、背後の影がわずかに揺らぐ。気配を殺すことに長けた連中特有の、あの不快な重圧。俺は肩をすくめ、わざと大げさに歩き出した。
「追跡者にしては、少々詰めが甘いな」
俺は角を曲がり、あえて人気のない路地へと足を踏み入れた。路地を抜けた先にある一軒家へと向かうフリをして、俺は獲物を誘い出す。もしあの支配人がただの人間でないのなら、俺がここで何をするのか、すべてお見通しなのかもしれない。
路地の突き当たりで振り返ると、そこには誰の姿もない。だが、地面に落ちた影が、持ち主のいない不自然な歪み方を見せていた。俺は苦笑し、懐から愛用のナイフを指先で回す。
平穏な日常に紛れ込んだ異物。俺がこの街で探していたのは、刺激なのか、それとも終わりなのか。
「さて、続きを見せてもらおうか」
俺は暗闇に向かって小さく呟き、逃げるのをやめて、踏み込んだ。




