アカズノエキ(一)
映画館を包み込んでいた静寂が破られる。
不意に、場内の空気が変わり、観客たちの耳元で誰かの吐息が直接聞こえてくるような錯覚を覚える。それは映画の音響システムが作り出した演出であるのに、魂の奥底から響いてくるような、男性のモノローグだった。
(……ああ、そうか。私はいつだって、こういう場所を夢見ていたんだ)
彼の語りには、不思議と恐怖の色は混じっていない。むしろ、長年探し求めていた場所にようやく辿り着いたかのような、どこか安堵に近い響きが乗っている。
(どこか遠い異世界。退屈な日常の果てで、ただの冴えない中年だった私が、この迷宮でだけは誰よりも価値のある存在でいられる。職業は分析官。私の名はヴェイン。この錆びついた閉塞感こそが、待ち望んでいた『特別』へのチケットだったんだ)
静寂の余韻が消え去る。スクリーンの中、光を吸い込むような暗い地下鉄のトンネルがその姿を現した。観客の耳元を、湿った砂利を踏みしめる不快な音が掠める。分析官のヴェインが這い出すと、スピーカーからカビと鉄錆が混ざったような、むせ返る悪臭すら漂ってきそうな、不快なノイズが響き渡る。
「……っ、はぁ、はぁ……! ここが深層か? いや、マップの座標とは完全に食い違っている」
ヴェインが荒い息を吐きながら、暗闇に身を潜める。腰のポーチから取り出したのは、魔導式のスキャナーだ。だが、数値は意味を成さない記号の羅列を表示し、画面が明滅を繰り返す。
カメラは地面すれすれの低いアングルから、彼の震える瞳をアップで捉える。その視線の先で、遠くから地鳴りが近づいてくる。言葉にならない駅のアナウンスが、映画館の後方スピーカーから全方位的に響き渡り、観客を閉所への恐怖へと引きずり込む。
「くそ……身体が動かない。深層特有の重圧か。これが魔力による拘束なら、私の解析スキルですら解けないのか」
彼は荷台の陰へ転がり込む。その瞬間、画面中央に顔のない子供の輪郭が浮かび上がる。子供が錆びた壁に触れると、世界から音色が消え、観客は息を呑むような静寂に包まれる。鉄道警察の警棒がレールを叩く金属音が、左側のスピーカーから鋭く突き刺さる。
「ねえ、お兄さん。そこで何を震えているの? 迷子かな?」
子供の無邪気な問いかけが、ヴェインの神経を逆撫でする。害はなさそうだが相手をする気にもなれず、彼は懐の短剣を握りしめ、冷や汗を拭う。
「……助かったのか? いや、あいつは巡回員だ。警棒の音、あの金属音の周波数が……私の分析通りなら、あれは物理的な打撃ではなく、存在そのものを切断する魔術だ」
カメラは、まるでプラットホームの端に放置された錆びついたゴミ箱の後ろや、改札口の死角から覗き見るようなアングルに切り替わる。ヴェインが息を殺して去りゆく姿を、カメラはまるで獲物を狙う監視カメラのようにじっと見つめ続ける。
ヴェインが呟いたその言葉に、観客は安堵など覚えられない。彼の手の中にあるスキャナーが、真っ赤な警告灯を灯し始めたからだ。




