未払生窮(五)
気がつくと、スクリーンには見覚えのない真っ白な病室が映し出されていた。
窓の外からは遠い町のざわめきが聞こえるが、それはかつての金属的なノイズの残響のように歪んで響く。
男は自身の肉体を確かめるように、静かに言葉を漏らした。
「私は……助かったのか?」
男の呟きと共に、彼の記憶がフラッシュバックのように画面をよぎる。
佐伯航太、二十九歳。ソーシャルゲームのカスタマーサポート、チームリーダー。
画面を流れる膨大なユーザーの要望、怒り、愉悦。あの日、深夜二時のオフィスで彼がモニターに見出したのは、ある狂気的なメッセージだった。
『お前たちのシステムは、人の心を食べて動いている。対価未払いの報いを受けろ』
ハッと目覚めた航太が右腕の皮膚の下をなぞると、そこには不完全な鍵の形が歪に浮かび上がっていた。手元に残された紙切れには「清算は未完了です」の文字。
世界から一方的に不条理を突きつけられ、航太は感情を爆発させる。
「ふ、ふざけるな……。私はただ、仕事をしていただけだぞ……!」
彼がテーブルの上の水差しに触れた瞬間、高彩度だったガラスがどろりと色を失い、無機質な灰色の石ころへと変質していく。カメラはその価値を失った物体のディテールを克明に捉える。
電源の入っていない壁掛けテレビから、あの甘ったるいアナウンスが響く。
「あらあら、佐伯様ぁ。まだお仕事中ですよぉ? 休憩時間は終了ですぅ。次のお客様のぉ『絶望』がぁ、もう玄関先まで届いておりますよぉ」
黒い画面の奥で、無数の赤い目がじっとこちらを見つめている。
カメラが航太の絶望に満ちた表情をクローズアップする中、彼の腕の皮膚を突き破り、真鍮色の金属光沢が覗き始める。鍵は彼の肉体を食らい、今や肩までその輪郭を広げていた。
窓の外のざわめきが、再び「ガシャガシャ」という重い金属音に飲み込まれていく。
狂気的な侵食に対して、航太は半狂乱になって叫び声を上げた。
「やめろ、来るな! 私は、私はもう……!」
航太が自分の右腕を強く掴み、咽び泣く声を中央のスピーカーが拾い上げる。
これから起こることは救済ではない。彼が拒絶したはずの価値の市場世界は、今度は彼の肉体を土台にして、この現実を侵食し始める。彼の痛みが、この世界の新たな通貨として流通し始めるその日まで、この清算が終わることはない。
画面はゆっくりとフェードアウトし、表題の『未払生窮 ―完―』の文字が赤文字で浮かび上がると同時に、暗闇の奥から通貨の擦れ合う不気味な心音だけが、劇場の席に取り残されたように鳴り響き続けた。




