聖地巡礼の悪夢と這い寄る声
その日の夜、瞳は夢を見た。
視界は妙にざらついており、まるで古いビデオテープの映像を眺めているかのようだった。気がつくと、彼女は昼間に訪れたあの不気味なトンネルの前に立っていた。立ち入り禁止の金網は跡形もなく消え去り、ぽっかりと開いた暗黒の口が彼女を誘っている。
「どうして、私、ここにいるの……?」
身体が勝手に動き、吸い込まれるようにトンネルへと足を踏み入れていた。一歩進むごとに、鼓膜を激しく引っ掻くような不快なノイズが響き渡る。昼間にスマートフォンで撮影した動画に混じっていた、あの奇妙なノイズと同じ音だった。
ジジジ……ザザッ……。
音は次第に形を成し、低く濁った声へと変わっていく。暗闇の奥から、無数の黒い影が壁を這いながら迫ってきた。それは人の形を歪めたようなおぞましい蠢きだった。
『からだを……ちょうだい……』
「いや!いやよ! 何言ってるの、こっちに来ないで! 」
冷気を含んだ声が耳元で直接囁かれ、瞳は総毛立った。これは夢だ。直感的にそう理解した彼女は、必死に引き返そうと足を動かした。しかし、泥の中にいるかのように足が重く、思うように進まない。
背後から迫る影のプレッシャーに息が詰まる。心臓が早鐘を打ち、冷や汗が全身から噴き出していた。夢だと分かっているのに、生々しい恐怖と焦燥感だけが彼女の精神を確実に削り取っていく。
一刻も早く目を覚ましたいのに、意識は現実の肉体へとしがみつくことすら許されず、深い闇の底へとさらに引きずり込まれていった。
トンネルの闇から逃れようと必死に駆け抜けた先、視界が唐突に開けた。しかし、そこは現実の寝室ではなかった。見上げるほどの高さにある、あの医師会病院の屋上だった。
頭上には、昼間に見たような美しい蒼空など存在しない。どす黒い雲が渦巻く、不気味な夜空が広がっている。見上げている一瞬のすきを狙って影が瞳の足首をつかむ。
「いや……離して! 」
瞳が叫んだ瞬間、錆びついたフェンスの隙間から、するりと「何か」が這い出てきた。それは昼間、屋上から彼女をじっと見下ろしていた視線の主だった。輪郭の定まらない引き裂かれたような影が、ゆらりと瞳の目の前に立ち塞がる。
『たましいを……ちょうだい……』
狂おしいほどの執念を孕んだ声が、頭蓋骨に直接響き渡る。トンネルの影と、屋上の怪異。ふたつの不穏な影が完全に彼女を包み込み、退路を断った。
「嫌、目を覚まして! お願いだから!」
瞳は必死に祈り、叫び、もがいた。中々目が覚めてくれないもどかしさと焦りで、彼女の精神は狂乱の瀬戸際まで追い詰められていく。現実のベッドの上では、傍から見れば尋常ではないほど激しくうなされ、呼吸を荒くして震えていたことだろう。だが、どんなに抗っても、意識の覚醒を告げる光は差し込まない。
怪異の冷たい指先のような影が、瞳の胸元へと深く突き刺さった。文字通り魂を鷲掴みにされたような激痛が走り、彼女の視界は急速に暗転していく。
翌朝、静まり返った部屋に目覚まし時計の音が虚しく響き渡る。ベッドの上には、人形のように虚ろな目で天井を見つめたまま、二度と動かなくなった瞳の姿だけが残されていた。お気に入りの映画の舞台を巡った彼女の聖地巡礼は、最悪の結末を伴って、永遠に幕を閉じたのだった。




