呼吸鬼(五)
崩落した床の先、煙の向こうに現れたのは、頑強な鉄扉に守られた一つの部屋だった。その鉄扉に殴り書きのように刻まれた文字が視界に入る。
【ココニハ、シンゾウガ、ナイ】
彰が鉄扉を押し開けると、カメラはゆっくりとその内部を映し出す。
そこは、無数の点滴スタンドと空のベッドが整然と並ぶ、完全に死に絶えた病室だった。
無機質な薬品の匂いと、耳が痛くなるほどの冷たい静寂。
部屋の中央にある排水溝へ、通路から流れ込んだ灰色の水がゴボゴボと吸い込まれていく。
ベッドの一つに近づいた彰の視線が、古びたネームプレートに留まる。
カメラがその名前をクローズアップする。
「……母さん」
彰の唇が微かに震え、その声が静かな病室に小さく落ちた。
それは、彼が最後に見捨てた母親の名前だった。
自分がこの無機質な回廊に迷い込んだ理由を、彼は突きつけられていた。
看病の義務からの逃避、あるいは死への恐怖。
「……監視者、お前は、俺にこれを認めさせたかったのか」
彰の視線の先、部屋の隅に銀色の重厚なハッチが姿を現す。
「過去」「現在」「未来」のアイコンが刻まれたダイヤル錠。
彰は、足元に落ちていた、水に濡れて半ば溶けかかった記録用紙を拾い上げた。
そこには、母の命が機械によって無理やり引き延ばされていった、淡々とした日付の羅列があった。
「俺は、救いたかったんじゃない。死ぬのを見たくなかっただけなんだ……自分のために」
彰は自らの罪悪感を正面から見つめ、ダイヤルに手をかけた。
カチリ、カチリ、カチリ。
三つの絶望の日付が設定された瞬間、部屋の壁全体に、赤い落書きが猛烈な勢いで浮かび上がり、画面を埋め尽くしていく。
「オワラセテ」「ワタシニ、イシキハナイ」
生存を強要された者の叫びが壁を覆う。
ドクン、ドクン。
劇場のサラウンドスピーカーから、それまで規則的だった点滴の音が、重苦しい心臓の鼓動へと変化して鳴り響く。
次の部屋へと続く施錠が解除され、重厚な扉がゆっくりと開いた。
その先には、深海の底のような、不気味な青緑色の渦が激しく巻いている。
そこから噴き出すのは、強烈な水圧の音と、生温かく澱んだ空気の風。
彰は扉の淵に張り付いていた、一本の古びた注射針を掴み取った。
先端が曲がったそれは、紛れもない医療の、そして侵襲の象徴。
【タダシイ、バショハ、ドコニモ、ナイ】
最後のメッセージが脳裏に響く。
「生存とは、汚染を受け入れ、それでも歩き続けることだ。そうだろ? 」
彰は注射針を強く握りしめ、青緑色の渦の中へと迷わず身を投げた。
背後で、崩壊したはずの監視者の声が、最後に一度だけ、心底楽しそうな弾んだ声を伴って響いた。
『おめでとう! ステージクリアだ。……次は、君自身が記録になる番だよ』
身体を圧縮するような凄まじい重圧の音が響き、視界が激しく反転していく。
光と音が混濁し、最後に残ったのは、無数の電子音が奏でる平坦な心拍停止音――ピーという単一の電子長音だった。
瀬戸口 彰の意識は、その濁った空気の中に溶け込み、二度と浮上することはなかった。
彼が最後に吸い込んだのは、母と同じ、冷たい医療用酸素だった。
映像がゆっくりとフェードアウトし、完全な闇が訪れる。
スクリーンの中央には、おなじみの血の滴るような筆致でタイトルが浮かび上がる。
『呼吸鬼』――完。
観客に残されたのは、自分たちが今吸っている空気の重みだけであった。




