呼吸鬼(三)
(クソ、あいつ……俺を笑ってやがった)
彰の胸が大きく上下する。
劇場のフロントスピーカーからは、彼の酸素が急激に薄くなっていく息苦しい呼吸音が鳴り響く。
カメラは壁際を走るように移動し、錆びついた金属製のバルブを映し出す。
そこには、乱雑な白い塗料で文字が書き殴られていた。
【マミズハ、ウミヘ】
「真水は、海へ……? 」
彰の掠れた声。
その瞬間、彼の脳裏をよぎるように、母が入院していた頃の断片的な映像がフラッシュバックする。
ベッドの上で「水をちょうだい」と微かに動く母の唇。
仕事の忙しさを理由にそれを無視して立ち去る過去の自分の背中。
彰は、赤錆に覆われた重厚なバルブを両手で掴んだ。
カメラはその指先が白くなるほどの力をクローズアップする。
岩のように固着して動かない。
「動け……動けよ……! 」
自分の罪からもう逃げない。
剥き出しの決意が彼の表情を歪ませる。
渾身の力を込めてバルブを回した瞬間、ギリギリ、キィィィッ! という金属の悲鳴が後方スピーカーまで轟いた。
ゴボッ!
直後、頭上のパイプから濃密な黄色いガスが噴出する。
「ガハッ、ごほっ……! 」
薬品の刺激臭が襲いかかり、彰は喉を掻きむしる。
『あはは! 残念、ハズレだ! 』
遥か遠くから、監視者の嘲笑がサラウンドで響き渡る。
黄色い霧は瞬時に通路を埋め尽くし、彰の視界を遮っていく。
彰の視線が、床のタイルの割れ目から湧き出していた海水の水たまりへと落ちる。
逃げ場はない。
彰は意を決し、その汚染された海水の中へと顔を深く沈めた。
ゴボゴボという水中のこもった音響に切り替わる。
冷たく、強烈な塩分が彰の顔を刺す。
だが、この濁った水の中だけはガスから逃れられた。
(俺は……あの日、母が望んだ水すら与えなかったそんな俺が、今、汚れた水の中で生き延びようとしている)
水中に気泡が漏れ、彰の歪んだ表情が水の揺らぎ越しに映し出される。
ヒュー……ヒュー……。
水流の音の向こうから、あの不気味な機械音が近づいてくる。
ガスに誘引されたのだ。
水の中から透けて見える通路に、巨大な白い影が佇む。
『おや、そこに隠れているのかい? 賢いね。もっとも、いつまで息が続くかな? 』
監視者は上からしばらく彰を見下ろしていたが、やがて興味を失ったように去っていった。
黄色いガスが薄く広がり霧散したのを見計らい、彰は水面から顔を上げ、激しく咳き込みながら掌を開く。
そこには、新宿のホームで砕いた母の香水瓶の欠片が握られていた。
「……真水を海へ。汚れたものを、元に戻せってことか」
彰は、海水の湧き出る割れ目に、その清らかな青いガラス片を、血のついた手で深く突き刺した。
ジジジジ……!
ガラス片が鮮烈な青い光を放ち、濁っていた海水が一瞬にして透明な真水へと変質していく。




