呼吸鬼(二)
鼻腔を焼くような薬品の臭い。
だが、その奥底には、腐敗した海水のような、生臭い潮の香りが混じっている。
映画のスクリーンを湿らせるかのように、重く垂れ込める空気。
彰が息を吸い込むたび、肺の奥まで届かない密度の低い酸素のせいで、彼の喉が「ヒュッ」と小さく鳴る。
カメラは足元の床に切り替わる。
タイルのわずかな割れ目から、透明な液体が「コポコポ」と気泡を上げて湧き出す不穏な音が、サラウンドで観客の耳を刺激する。
『ようこそ、選ばれし逃亡者。君の肺の調子はどうだい?』
頭上のパイプ群から響く高圧の蒸気音に混じって、場違いなほど明るい、弾むような声が響き渡った。
「誰だ……! 」
彰は肩を震わせ、鋭い視線を左右に走らせるが、周囲には不気味な緑の壁が続くのみで人の姿はない。
カメラは彰の後方、遥か闇の奥へと引き、何者かが彼を盗撮しているかのような、じっと固定された不穏なアングルに切り替わる。
その闇の奥から、ヒュー……ヒュー……という、呼吸器官が空気を出し入れするような機械音が徐々に音量を増して近づいてくる。
現れたのは、巨大な白い人工呼吸器のような頭部を持ち、無数の注射器が刺さった車輪で移動する、異様な機械仕掛けの怪物だった。
怪物の全身が動くたび、金属の擦れる嫌な音が劇場のスピーカーを鋭く引っ掻く。
怪物は、彰の数メートル手前でピタリと止まると、頭部の排気口からブシューと煙を吐き出し、陽気な声を漏らした。
『そんなに警戒しないでくれよ。僕は君の敵じゃない。この素晴らしい『永劫回帰の無菌室』に住む、いわば監視者みたいな存在さ。君がここに選ばれたのは、他でもない。君が生からも死からも、あるいは自分自身の罪からも逃げ続けている……最高に資格のある欠陥品だからさ! 』
自称「監視者」の車輪が、楽しそうにタイルの上でカタカタと円を描く。
彰の額から一筋の冷や汗が流れ落ち、床の液体にトツ、と落ちる音が強調される。
『ここはね、君みたいな臆病者のための聖域なんだ。酸素は薄く、環境は過酷。でも安心しなよ。ここでは死ぬことさえも許されない。病に侵され、汚染され、それでも装置に繋がれて永遠に生かされる……最高に贅沢な地獄だと思わないかい? 』
彰は血の滲む拳を強く握りしめた。
瞳には激しい怒りと拒絶が宿っている。
「ふざけるな……。俺をここから出せ!」
『おっと、出口が欲しいのかい? なら、ゲームをしよう。この回廊のどこかに、君の病理を浄化するための三つのギミック――ヒントが隠されている。それを見つけ出し、正しく作動させることができれば、この僕を倒して次の場所へ進めるかもしれないよ』
監視者は、まるで子供に宝探しを教えるような口調で楽しげに車輪を揺らす。
『ゲームの名前は、そうだね、例えるなら、呼吸の鬼ごっこ、呼吸鬼っていうのはどうかな? 我ながら中の上くらいはあるネーミングセンスだと思うんだけど? ……でも気をつけて。間違えれば、君の肺は腐り、永遠の窒息の中で藻掻くことになる。さあ、ゲームスタートだ! 呼吸を忘れないようにね! 』
監視者は軽快な車輪の音を残し、闇の奥へと消えていった。




