呼吸鬼(一)
深夜の新宿駅。
誰もいないホームのスピーカーから、低く唸るような空調のノイズがサラウンドで鳴り響いている。
画面はひどく手ブレした主観映像のように揺れ、仕事帰りの瀬戸口 彰の視界を映し出す。
足元の黄色い点字ブロックが、まるで泥の中で蛇のようにのたうち回る歪んだクローズアップ。
彰の荒い呼吸音が正面のスピーカーから大きく響く。
数年前に母を亡くしてから続く、胸の奥にこびりついたような得体の知れない虚無感。
それが今、急速な目眩となって彼の身体を蝕んでいた。
ふらつく身体を支えようと手を伸ばした先、設置されたばかりのホームドアの頑強なアルミ板が映し出される。
しかし、カメラが焦点を合わせると、その金属面は陽炎のように激しく揺らぎ、彰の指をすり抜けた。
防護壁のわずかな隙間が、獲物を待つ巨大な口のように不気味に開く。
(……クソ、またか)
彰の頭の中にだけ響く、エコーの効いた低音のモノローグ。
その瞬間、コートのポケットの中で指先が硬い感触を捉えた。
母の形見である、青い切子細工の小さな香水瓶。
中身はとうに空だったが、彰の指先がそれを御守り代わりに強く握りしめる。
パリン。
掌の中でガラスが砕ける硬く鋭い音が、後方スピーカーへ向けて鋭利に響き渡る。
肉に破片が食い込む痛みに彰の眉が跳ね、瞳が恐怖に大きく見開かれた。
衝撃の瞬間、カメラはホームの端から真っ逆さまに落ちていく彰の姿をスローモーションで捉える。
だが、墜落の衝撃音は来ない。
代わりに、ドブンという重苦しい水音が劇場を包む。
身体を受け止めたのは、水よりも粘度が高く、氷のように冷たい漆黒の液体だった。
「……っ、がはっ、はぁ、はぁ……! 」
フロントスピーカーから、泥のような液体を吐き出す彰の激しい、湿った咳込みが響く。
カメラはタイルの床に這い上がる彼の掌をクローズアップする。
無意識に握りしめたままの、青いガラスの破片が深く肉に食い込み、そこから鮮血が滴り落ちて床を汚していく。
起き上がった彰の視点に合わせて、カメラがゆっくりと周囲をパノラマで捉える。
見渡す限り続く白いタイルの床。
そして、不気味なほどに鮮やかな緑色の壁。
頭上には、まるで巨大な生物の血管のようにのたうち回る、無数の錆びたパイプ群がどこまでも続いている。
「ここは……地下鉄じゃないのか」
彰の声は、無機質な回廊の奥へと吸い込まれ、反響さえ残さない。
同時に、背後のスピーカーから微かに、あの忌まわしい病棟の薬品臭を連想させる、かすかな液体の滴り音が響き始める。




