開かれた標本箱
気づけば、私は車を走らせていた。視界を遮る濃霧の中、ハンドルを握る手は自分の意志とは無関係に、確かな目的意識を持って動いている。カーナビはとうの昔に機能を停止し、周囲の景色はただの白い壁へと変わっていたが、私は迷わなかった。記憶の断片を、血を流しながら繋ぎ合わせるようにしてたどり着いたのは、地図からも、人々の記憶からも消し去られたはずの山奥の廃校舎だった。
それは映画のセットなどではなかった。かつて私が教壇に立ち、そして無意識のうちに、あるいは故意に「何か」を葬り去った、忌まわしき現場そのものだった。
校舎に一歩足を踏み入れると、ひんやりとした空気が肌を刺した。懐かしいはずの場所は、今や絶対的な孤独を伴う物理的な質量となって私を圧迫した。一歩進むたびに、床板が「ギィ」と悲鳴を上げる。
「誰か、いるのか?」
私の問いかけに対し、返事はない。ただ、廊下の奥から「トントン、トントン」と、一定のリズムを刻む叩音が近づいてくる。それは子供がふざけて壁を叩いているようでもあり、あるいは誰かが自らの存在を誇示するために、必死に音を立てているようでもあった。
ふと、廊下の壁に目をやると、埃を被った掲示板の横に、白いチョークで書かれた文字を見つけた。
『隠れたインクは、血で浮き出る』
震える指先でその文字をなぞった瞬間、私の脳内で数十年もの間、堅牢に閉ざされていた扉が吹き飛んだ。
あの日、私は保身のために沈黙したのだ。
一人の少年が、教室の隅で震えていた。彼は執拗ないじめに遭い、孤立し、世界から見捨てられようとしていた。彼は最後の希望を抱いて、教壇を降りようとした私の裾を必死に掴んだ。その小さな手の重み、震え。
『先生、助けて』
そう言ったはずの少年に、私は何と答えたか。
私は、自身の「平穏なキャリア」を、保護者との「円満な関係」を守ることを優先した。
「……さっきのことは忘れて、みんなと仲良くしなさい。君がもう少し歩み寄れば、みんな分かってくれるから」
私は慈愛に満ちた教師を演じ、微笑んでその手を振り払った。彼が標本のように心に毒針を刺され続けているのを、一番近くに居ながら、私は見て見ぬふりをしたのだ。
私の右ポケットが、焼けるような異様な熱を帯び始めた。




