呼び鈴の誘い
翌日、私は自宅の書斎で、その呼び鈴を机の真ん中に置いていた。窓から差し込む午後の光を浴びても、その真鍮の塊は冷たく沈み、周囲の空気を吸い込んでいるかのようだった。
『鳴らしてよ』
『鳴らしなよ』
昨夜から、子供たちの細い、糸のような声が耳の奥で鳴り止まない。それは風の音のようでもあり、あるいは私の頭蓋の内側で響く反響のようでもあった。幻聴だ、と私は断定する。加齢による耳鳴り、あるいは映画の没入感による一過性の精神的不調。元教師らしく、論理的な解釈を自分に与えようと努めたが、胸のざわつきは収まらない。
私は気分転換に、長年手をつけていなかった書棚の奥から、一冊の古いアルバムを引き出した。
それは教員時代の記録だった。数々の赴任先の風景、運動会の喧騒、教え子たちの笑顔。ページをめくるたびに、記憶の澱が少しずつ浮き上がってくる。私の教師人生は、平穏で、誠実なものだったはずだ。そう信じながらページを繰る手が、ある箇所でぴたりと止まった。
『昭和五十八年度 卒業記念写真』
そこには、昨日の映画の舞台と酷似した、重厚な木造校舎が写っていた。セピア色に褪せかけた写真の中に、若かりし頃の私が立っている。しかし、その写真には決定的な違和感があった。
私のすぐ隣にいたはずの、一人の男子児童。その顔の部分だけが、まるで悪意を持って墨を零したかのように、真っ黒に塗りつぶされていた。
「……思い、出せない」
その子の名前も、声も、彼とどんな会話を交わしたのかも、今の私には全く記憶にない。彼の周囲にいる他の生徒たちの顔は鮮明に思い出せるというのに、その「黒い空白」だけが、私の記憶の地図から消し去られている。
チリッ。
不意に、机の上の呼び鈴が、触れてもいないのに短く鳴った。私は反射的に椅子を引いて立ち上がった。心臓が早鐘を打つ。
窓の外に目をやると、驚くべき光景が広がっていた。昨日まではなかったはずの、濃密な白い霧が、庭先を埋め尽くし、家の壁にまで押し寄せている。真昼だというのに視界は数メートル先すら定かではなく、世界が霧によって切り取られたかのようだ。
ミ、ギィ……。
霧の向こうから、あの映画で聞いたのと同じ、古い木材が軋む音が聞こえてきた。それはかつて私が歩いた廊下の音だ。記憶の底に沈めていたはずの、あの「黴とワックスの匂い」が、閉め切った書斎の中にまで漂い始めていた。私は吸い寄せられるように、その霧の中へと足を踏み出した。




