深淵からの呼び声
呼びかけに応じるように、暗い廊下の先から異質な音が聞こえ始めた。
カサ……、シュルリ……。
小刻みに布を床に擦り合わせながら、何かがこちらへ伝い寄ってくる。二人は呼吸を止め、心臓の鼓動さえも漏らさぬよう、暗闇の奥から現れる「主」を待った。
やがて、影の中から滑り出してきたその姿を目にした瞬間、二人は絶句した。
そこには、真っ黒な墨をぶちまけたかのように顔が塗りつぶされた、着物姿の女性が立っていた。人ならざる者の気配を色濃く漂わせるその姿に、身体は本能的な拒絶反応で激しく震える。しかし、葉子は溢れ出しそうな涙を堪え、その怪物へと問いかけた。
「貴女は……私たちの娘、結衣なの? もしそうなら、私たちのことがわかる? 私は葉子。こちらが貴女のお父さんの達臣よ。私たちに見覚えは、ない?」
続いて達臣も、失われた記憶を取り戻そうとするかのように必死に言葉を繋ぐ。
「どういうわけか、僕たちの生活からは娘がいたという痕跡も、記憶も全て消え去っていた。だが、あの映画を観てからというもの、胸に穴が開いたような喪失感が消えないんだ。居ても立ってもいられなくて、ここまで来た。……君は、私たちの娘なんだね?」
二人は、顔のない「監視遺物」を真っ直ぐに見つめ続けた。沈黙が永遠のように感じられたその時、怪物の空洞のような内側から、くぐもった声が漏れ出した。
『……お、お父、さん……お母、さん……会い、たかっ、た……』
その懐かしくも悲しい響きに、二人の顔には歓喜と安堵が広がった。しかし、再会の喜びが言葉になるよりも早く、異変が起きた。真っ黒な墨で塗りつぶされていた怪物の顔が、音もなく巨大な渦となって膨れ上がったのだ。
「結衣……!」
叫ぶ暇も、逃げる暇もなかった。二人は抗う術もなく、頭上から覆い被さる暗黒の深淵へと一気に飲み込まれていく。
『……これ、で……これから、は……ずっと、いっしょ、……に、……いら、れる……ね……お父、さん、……お母、さん……ふふ、……ふふふ』
真っ暗な闇の底で、少女とも怪物ともつかぬ声が、愉悦に震えながらいつまでも響き渡っていた。それは救いなのか、あるいは永遠の囚われなのか。支配人が描いた筋書き通り、彼らは自分たちの「真実」の一部となり、新たな物語の素材として静かに消えていったのである。




