銀幕の境界線
二人が黒い靄の中に全身をくぐらせた次の瞬間、肌を刺すような冷気と共に、あのスクリーンで観た景色が視界に飛び込んできた。
視界に広がるのは、少し湿り気のある異様な静けさを纏う武家屋敷と、区画を分けて立ち並ぶ古びた長屋。空はどんよりと濁り、陽光さえも届かないモノクロームに近い世界。振り返ると、木板の囲いの真ん中に、この江戸情緒漂う景色にはおよそ似つかわしくない現代的な木製のドアが不自然に収まっている。
「……本当に、映画の中に迷い込んでしまったのね」
葉子は震える手で自身の腕を擦りながら呟いた。先ほどから、正面の武家屋敷の奥から、規則正しい不快な音が響いている。
ギィコォ……、ギィコォ……。
井戸の水を汲む滑車の音だ。映像を通じて何度も耳にした、あの忌まわしい音。夫婦はその音のする方向へと、抗いがたい力に引かれるように足を向けた。
「あの子は、ここにいるのかしら。でも、この屋敷にはあの不気味な『監視遺物』や、姿はスクリーンに映らなかったけれど、他にも遺物が潜んでいたはずよ……?」
葉子は、隣を歩く夫の達臣に縋るように尋ねた。達臣もまた、強張った表情のまま周囲を警戒している。
「私も同じことを考えている。だが、今の僕たちにとって手がかりはこの屋敷にしかない。どんなに恐ろしくても、一歩踏み出すしかないんだ。行こう、葉子」
不安は波のように押し寄せるが、結衣が自分たちの娘であるという確信が、彼らの足を前へと進ませた。二人は、古びてはいるが、誰かの手が加わっているかのように清掃の行き届いた屋敷の門をくぐった。
通常ならばここで「ごめんください」と声をかけるのが礼儀だろう。しかし、ここには「音を立ててはならない」という残酷なルールがあることを二人は知っている。静寂こそが生存の条件であるこの空間で、声を出すことは死を招く行為に等しい。
それでも、愛しい娘の名を呼ばずには、この物語は始まらない。二人は互いの目を見つめ、覚悟を決めると、達臣は枯れた声を張り上げた。
「ごめんください! 結衣さん、そこにいるのかい?」
達臣の声は、死に絶えたような静寂を切り裂き、屋敷の奥深くまで木霊していった。




