#9 盤上の駒
「ディアエル公爵閣下……っ!」
大広間にいたすべての貴族たちが、弾かれたように頭を下げた。
「これは公爵様。本日は我が饗宴に参加いただき、誠に恐縮の至り──」
スノーローズ家の当主である父でさえ、冷や汗を流しながら深く平伏している。
が、ディアエル様は当主を無視して、真っ直ぐに私の前へとやってきた。
「やあ、エリザベート。私の美しい雪椿」
彼が極上の微笑みを浮かべて手を差し伸べる。
周囲の貴族たちは「あんな薄汚れた令嬢を、美しいと……?」と息を呑んだ。
「ディアエル様……でも私、こんな格好で……っ」
「心配しなくてもいい。君はどんな姿であろうと美しい……だが、今宵は少しばかり、夜の星を纏ってもらおうか」
ディアエル様は傍らに控えていた従者から、グラデーションがかった美しい紺色の布を受け取った。
そして、手慣れた……まるで魔法のような手付きで私の手を取り、ターンをさせるようにしてそのシルクの布を私の体に巻き付け始めた。
「あっ……」
彼の大きな手が私の腰を、肩を、撫でるように滑っていく。
それはまるで一つの優雅なダンスのようだった。
彼が布を翻し、要所を美しく結び上げていくたびに、私の薄汚れていたドレスは全く別の形へと変貌していく。
ヨレヨレだった裾は幾重にも重なるドレープとなり、くすんだ茶色は深い夜空を思わせる紺色のシルクによって絶妙な陰影へと生まれ変わった。
ほんの数十秒の出来事だった。
ディアエル様が「完成だ」と私の背に手を添え、正面を向かせた瞬間──大広間から感嘆のため息が漏れた。
「なんて美しい……まるで、夜空を映し出したようなドレスだ」
「星々が煌めくような仕上がりじゃないか……エリザベート様の漆黒の御髪と相まって、なんて幻想的な……」
先ほどまで私を嘲笑っていた貴族たちが、今度は魅入られたように称賛の言葉を口にする。
魔法なんて使っていない。
ただの布一枚のアレンジなのに、彼の圧倒的なセンスと所作が、私を完璧な芸術作品へと仕立て上げてしまったのだ。
嫌がらせを企てた姉たちは、信じられないものを見るように目を見開き、顔を真っ青にして震えていた。
「事前に用意していたんだ。上手く駒が動いてくれて助かったよ」
私の耳元で、ディアエル様がそっと不敵に微笑みながら囁いた。
「えっ……まさか、全部読んで……?」
「まあね」
ディアエル様は私の腰を抱き寄せたまま、周囲には聞こえない声で静かに種明かしを始めた。
「あえて、やりすぎとも言える下賜を施した。君の実家が嫉妬に狂って奪い出すのは分かっていた。けど、もし君個人に向けた贈与品だと明確にすれば、スノーローズの当主は臆してそのままにしたかもしれない」
「あ……」
そっか……だから宛名がエリザベートへじゃなくて、スノーローズ家と綴ってあったんだ。
そこまで読んでいたなんて。
「私にとっては端金だが、君の父親にとっては目も眩む大金だろう。では、その金で何をするか? 見ての通りさ。スノーローズ家は虚栄心の塊だからね。周りの貴族の羨望を集めるためならば、家財が半分になろうとも顕示的消費を敢行する」
それはまるで、絵本でも読み聞かせてくれるような……既存の物語を語るかの如く優しい声音。
底知れない知性によって生み出された策が、彼の口から淡々と紡がれる。
「そして、その饗宴に私は必ず招かれる。出資者である私を招待するのは、貴族としての最低限の筋だからな。すべては、私の盤上の上だ」
恐るべき思考回路に私は戦慄した。
「君が最も惨めな状況に落とされた瞬間に、私が君を救い上げる……そうすれば、この会場にいるすべての者に、君と私がどれほど強い絆で結ばれているか、これ以上ないほど強烈に刻み込めるだろう?」
ディアエル様はそう言って、皆に見せつけるように──私の頬に熱い口づけを落とした。
「ひゃいっ!?」
顔から火が出るほど真っ赤になり、変な声が漏れてしまう。
だが、その口づけを見た周囲の反応は劇的だった。
「あの冷酷無比なディアエル公爵閣下が、大勢の前で自ら口づけを……っ」
「あれは所有の証だ。これ以上ない寵愛を意味している……」
「閣下は未だ独り身。エリザベート嬢と蜜月を築き、スノーローズ家と婚姻を結ばれるおつもりか……?」
ざわざわとしたどよめきは、やがてパラパラとした拍手に変わり、大広間全体を包み込む万雷の拍手喝采へと変わっていった。
姉たちと父親は、自分たちが開いた宴で、最も忌み嫌う黒髪の娘が『公爵家公認のパートナー』として絶賛されるという屈辱に、ギリギリと歯を食いしばっている。
(あ、あはは……ナニコレ)
私は引きつる笑顔の裏で、恐怖のあまりガタガタと震えていた。
皆は「寵愛だ」「蜜月だ」と騒いでいるけれど、私にはディアエル様の真の狙いがはっきりと分かってしまった。
わざわざ実家が開いた宴のど真ん中で、私との関係をアピールして既成事実を作った。
もし今後、実家が公爵家に少しでも不義理を働いたら、婚約者候補の私まで大逆罪で処刑されるだろう。
ディアエル様はただ私を社会的に縛り付け、逃げ場をなくし、確実な処刑フラグを立てるためにこんな手の込んだことをしたのだ。
なんて恐ろしい男なの……まさに八方塞がり!
「エリザベート」
ディアエル様は怯える私をさらに強く抱き寄せ、私の耳元で、私にしか見えない微笑みを浮かべた。
「これで君は誰の手にも届かない……永遠に、私だけのものだ」
甘い死の宣告。
私はもう、この恐ろしいラスボスの鳥籠から一生逃げられないことを悟るしかなかった。




