#5 危険な香り
「……そろそろ、私とも舞ってくれないか。エリザベート」
突如として、背後からスッと冷気のようなものが滑り込んできた。
怒っているわけではない。極上の甘い声。
けれど、その声が響いた瞬間、周囲の貴族たちがモーセの十戒みたいにサァーッと道を空けたのだ。
(あっ、そうだ……私ったらディアエル様との踊りの最中だった!)
振り返ると、ディアエル様が完璧な微笑みを浮かべて立っていた。
その背後に渦巻く絶対的なオーラに、さっきまで私の腰を抱かれて赤面していたジュリアンが、ヒッと小さく息を呑んで硬直する。
アリスだけは「えー、いいとこだったのに」と不満げに頬を膨らませていたけど、私は慌ててディアエル様に歩み寄った。
「も、もちろんでございますディアエル様! 喜んでお相手させていただきマス!」
全力の愛想笑いとともに、恭しく差し出された彼の手をとる。
そのままフロアの中央へとリードされると、管弦楽団の奏でる曲が、先ほどよりも少し重厚で情熱的なワルツへと変わった。
ディアエル様の大きな手が、私の腰をそっと……けれど逃げられない強さで抱き寄せる。
「ふわっ」
近い。近い近い。
香水の微かな香りと、男の人特有の熱が伝わってくる。
「君は意図せず注目を浴びるのが得意のようだね。俯瞰で観察して、それがよく分かったよ」
「あはは……お恥ずかしい限りです……」
「ははは、構わないさ。そう肩肘を張らないでくれ。こうした舞踏は、互いの呼吸を合わせる余白が肝要だからね」
顔から火が出そうになりながら、私はディアエル様の完璧なステップに合わせて足を動かした。
見つめ合う形になり、周囲の景色がクルクルと回っていく。
その最中、私はふとおばあちゃんの古い小説の解説ページを思い出していた。
(そういえば……こういう中世風の舞踏会って、ただお酒飲んで踊るだけのパーティーじゃないんだよね。確か、もっとドロドロした目的があったような……)
私の拙い記憶を読み取ったかのように、ディアエル様が形の良い唇を弧に吊り上げた。
「ダンスというのは、実に面白いものだと思わないかい?」
「えっ?」
「こうして大勢の目が光る華やかなフロアにいながら……音楽とステップに紛れれば、誰にも会話を聞かれず、向かい合う男女だけの完全な密室を作り出すことができる」
密室。
その言葉に、私はハッとした。
そうだ。舞踏会のダンスって、要するに誰にも邪魔されない個室なんだ。
ディアエル様はワルツのステップを踏みながら、その鋭い蒼い瞳で、会場の壁際に立つ貴族たちを睥睨した。
「右奥の柱の陰にいる伯爵を見たまえ。彼は今宵、娘を王家派閥の重鎮に売り渡すための密約を交わそうと必死だ。左のテラスの男爵は、貿易の利権を横取りしようと他国の商人と耳打ちしている……そして、彼らは皆、私が『誰と何曲踊るか』を血眼になって観察している」
この人は、この会場にいる何百人という貴族たち『裏の顔』すべて把握した上で、この舞踏会を主催しているのだ。
ただのイケメン公爵じゃない。
盤上の駒をすべて見透かし、自分の思い通りに支配する……まさに圧倒的ラスボス。
「……本来なら、君は今日、ここへは来ないと思っていた」
私の耳元で、彼がぽつりと囁いた。
「え?」
「君は誰にも靡かない『氷の麗人』だった。私の誘いなど、冷たくあしらわれる覚悟はしていたのさ」
うっ。痛いところを突かれた。
原作ならその通りだった。私が「あなたのような方と踊る気はありませんわ」と高慢に断り、彼に大恥をかかせてヘイトを稼ぐのが正史なのだから。
「けれど、少し予定は狂ったが……これもまた、悪くない」
「よ、予定、ですか……?」
ディアエル様は、私の腰を抱く手にさらに力を込め、グッと体を密着させてきた。
息がかかるほど近い距離で、透き通るような瞳が私を射抜く。
「想定外の喜びだよ。こうして美しい君を誰よりも早くエスコートし……この会場にいるすべての者たちに、この娘は私のものだと知らしめることができたのだから」
ヒェ〜〜〜。
私は心の中で悲鳴を上げた。
そういうことですか。
ディアエル様が私と最初に踊ったのは、ただのファンサービスじゃない。
周囲の貴族たちに対する『この氷の麗人は、俺の庇護下にある。手を出せばどうなるか分かっているな?』という、強烈な威圧とマーキングなのだ。
事実、私と踊ろうとチャンスを窺っていたであろう他の男たちは、ディアエル様の圧倒的な威圧感の前に、誰一人として近づこうとしない。
(ヤバい……本格的にこの人のものになっちゃいそう)
私が戦慄していると、ディアエル様は私の震えをどう勘違いしたのか、ふっと表情を和らげた。
「そう怯えなくていい……君のその隠しきれない脆さを、誰かに見られるのは私としても不愉快だからね」
違う、違うんです!
隠された脆さとかじゃなくて、純粋にあなたのラスボス感が恐ろしすぎて震えてるだけなんです!
でも、ここでそんなことを言えるはずもなく。
私は前世で培った究極の『クレーム対応スマイル』を顔に張り付け、ひたすらコクリコクリと頷くしかなかった。
「……あ、あはは。光栄ですわ、ディアエル様」
「ああ。君のその可憐な微笑みは、一生私だけのものにしておこう」
音楽が最高潮に達し、ディアエル様が私を華麗にターンさせる。
完璧なステップだ。身を預けるだけで、まるで自分がプロのダンサーになったかのような錯覚になる。
私は、自分が想像以上にヤバい男の『鳥籠』のど真ん中にいることを実感し、引きつる笑顔のまま、ワルツが終わるのをひたすら耐え忍ぶのだった。




