#38 愛しています
国を挙げての盛大な結婚式。
それに続くきらびやかな披露宴。
夢のように幸せで、目が回るほど忙しかった一日がようやく終わりを告げようとしていた。
「んん〜……疲れたけど楽しかったぁ」
本城の高層階にあるプライベートルーム。
その外に広がる広いバルコニーへ出ると、ひんやりとした夜の空気が火照った頬を心地よく撫でた。
「ふう……っ」
私はバルコニーの手すりに寄りかかり、眼下に広がる景色を見下ろした。
フヴィート公国の首都。
その美しい夜景。
煌びやかな街灯が、星空を並べたように街全体を眩く照らし出している。
私が支配人を務めていた『銀の梟亭』がある大通りのあたりも、今日は公爵の成婚を祝うお祭りで夜遅くまで賑わっているのが遠目にも分かった。
「店も楽しかったなぁ……」
あの中でたくさんの人たちが私たちの幸せを祈って、ワイングラスを傾けてくれている。
その事実がたまらなく嬉しくて……私は自然と口元を綻ばせた。
「身体に障るよ。エリザベート」
甘い声が鼓膜を揺らした。
振り返るよりも早く、厚手の上着が私の肩に掛けられる。
そしてそのまま、大きくて温かい腕が私の腰を後ろからすっぽりと抱きしめた。
「ディアエル様……お疲れ様です。最後のご挨拶は終わりましたか?」
「ああ。王国の貴族たちも皆満足げに帰っていったよ。ようやく君を独り占めできるね」
背中に密着する広い胸板から、彼の大人の体温と微かなワインの香りが伝わってくる。
首筋にすりすりと顔を埋めてくるディアエル様は、普段からは想像もつかないほど甘えた様子だった。
少しだけくすぐったい。
「本当に美しい式だった。君の黒髪にあのヴェールが揺れる姿を見た時、私は世界で一番の幸せ者だと確信したよ」
「ふふっ、大げさですよ〜」
私は彼の腕にそっと自分の手を重ね、再び公国の夜景へと視線を向けた。
温かくて幸せで、すべてが満たされている時間。
だからこそ私の胸の奥にずっと沈んでいた、ちっぽけな不安の欠片がふと顔を出した。
「……ねえディアエル様。少しだけ変なことを聞いてもいいですか?」
「ん? なんだい」
「もしも……の話です」
私は重ねた彼の手を、ギュッと強く握りしめた。
「もしも私が、あなたが知っているスノーローズ家のエリザベートじゃなくて……どこか遠い世界から来た、全く別の誰かが乗り移っていただけだとしたら……ディアエル様は、どうしますか?」
言ってしまってから少しだけ後悔した。
せっかくの初夜に、なんて突拍子もない夢を壊すような質問をしてしまったのだろう。
私の心の中には、前世の記憶を持ったただのバー店員としての私がいる。
もし、彼が愛したのが貴族の令嬢としてのエリザベートだとしたら?
私の本質を知ったら、彼は失望するんじゃないか。
そんな馬鹿げた不安が、どうしても拭えなかった。
「ふむ……」
背後のディアエル様は、一瞬だけ動きを止めた。
怒られるか、呆れられるか。
私が身を固くしていると──彼は小さく笑い声をこぼし、私を抱きしめる腕の力をさらに強めた。
「君は君だよ。エリザベート」
「え……?」
「私は最初、冷酷無比な『氷の麗人』と噂される女がどんなものかと、ただの興味本位で君に会いに行った」
耳元で囁かれる声は、どこまでも優しく迷いがなかった。
「だが、私が実際に会って……心を奪われ、生涯を懸けて愛したいと願ったのは、噂の中の令嬢ではない。震えながらも私の瞳を映し、どんな逆境でも決して諦めず、優しさと自らの力で道を切り開いていく、目の前の『君』だ」
ディアエル様は私の肩を優しく引き寄せ、自分の方へと振り向かせた。
美しい蒼い瞳が、星明かりを反射して真っ直ぐに私を射抜いている。
「だから、君の魂がどこから来たものであろうと関係ない。例え姿形が違っていたとしても、私は間違いなく、今の君を愛しているよ」
甘い吐息とともに、彼の唇が私の唇を静かに塞いだ。
深く、溶け合うような──優しくて熱い口づけ。
「んっ……」
ディアエル様の体温と私を肯定してくれる絶対的な言葉。
体の奥底にまで染み渡っていく。
ああ、そっか。
私はもう、何も怯えなくていいんだ。
ゆっくりと唇が離れ、彼の腕の中で微かに息を弾ませながら、私はぼんやりと空を見上げた。
(私、本当に……この異世界の地で根を下ろすんだな)
都会の片隅にある小さなバーで、ただ毎日を生きるのに必死なだけの店員だった。
理不尽なクレームに頭を下げ、夜遅くまで働き、これといった劇的なこともないまま、ひっそりと人生を終えた。
(別にそれはそれでいいんだけどね)
でもある日目を覚ましたら、小説の中の処刑される悪役令嬢になっていて? 結婚を迫られて? 処刑におびえて? はあ……どんな人生よ。
最初は、ただ死にたくなくて必死だった。
完璧超人な公爵に怯え、なんとか生き延びる道を探してさ。
でも気づけば私の周りには、たくさんの大切な人たちがいた。
不器用だけど家族を愛してくれたお父様。
打算的だけど憎めない姉様たち。
いつも真っ直ぐに私を慕ってくれるアリスとジュリアン。
絶望から立ち直ってくれた銀の梟亭の店長。
そして公国の温かい領民たち。
すべてが、私がこの世界で必死に歩いて、もがいて築き上げてきた軌跡だった。
他人の代わりなんかじゃない。
前世の記憶も、この世界での経験も。
全部が混ざり合って出来上がったのが、今の私なんだ。
「ディアエル様」
私は彼を見上げ、両手でその美しい頬を包み込んだ。少しあったかい。
「私も、あなたを愛しています。あなたが私を見つけてくれて信じてくれたから……私は今、世界で一番幸せです!」
「エリザベート……」
「私、ここで生きていきます。あなたと一緒に、この公国で、絶対に誰よりも幸せになってみせますから!」
私の決意の言葉に、ディアエル様は目元を微かに細め、この世界で一番美しい笑顔を浮かべた。
「ああ。誓おう妻よ。君のその笑顔を、私が一生守り抜くと」
再び重なり合う唇。
眼下に広がる街の灯りは、私たちの未来を祝福するように、いつまでもキラキラと眩く輝き続けていた。




