#2 テーブルマナー
銀の匙が陶器に触れる微かな音だけが、広々としたダイニングルームに響いていた。
天井からは豪華なシャンデリアが下がり、磨き上げられたマホガニーのテーブルには、見たこともないような美しい料理が並んでいる。
ここはスノーローズ伯爵家の自慢の食堂。
本来なら、家族で優雅に食事を楽しむ場所のはずなんだけど。
「君の食事の所作は美しいね。まるで名画の一場面のようだ。このまま額縁に閉じ込めてしまいたいとすら思うよ」
向かいの席で優雅にワイングラスを傾けながら、ディアエル様がふわりと微笑んだ。
銀糸のような髪が揺れ、蒼い瞳が私を射抜く。
穏やかな口調なのに、有無を言わせない絶対的な圧と色気がダダ漏れだ。
小説の印象よりは柔らかいけど、やはりラスボスはラスボス。
冷たいナイフのようなオーラは健在だ。
「あ、ありがとうございマス……」
私は引きつりそうになる頬を必死にキープして、スープを口に運んだ。
実を言うと、私の前世はそこそこ裕福な家だった。でも、母親の躾がとんでもなくスパルタだったのだ。
テーブルマナーを少しでも間違えれば、容赦なく手が飛んでくる。
返事は『はい』か『イエス』しか許されなかった。
あまりにもイエスイエス言い過ぎて美容外科クリニックを建ててしまいそうだった。
こんなマナー、社会に出てもどうせ使わないのに。
ずっとそう思って生きてきたのに。
(今、めっちゃくちゃ役立っています。ありがとうママ……!)
心の中で、前世の母に向かって全力で手を合わせた。
まさか異世界の公爵様とのディナーで、このスパルタ教育が私の命綱になるなんて。
それにしても、どうしてこんなことになっちゃったんだろう。
応接間でのご挨拶のあと、私はこの恐ろしい公爵様に「せっかくだから、食事でもしながら話そうか」と、とんでもなくナチュラルな笑顔で誘われた。
いやいや、ちょっと待ってほしい。
私は一介の伯爵令嬢で、ディアエル様は『隣国の公爵様』だ。国賓級の超VIPである。
そんな人が、挨拶もそこそこに他国の伯爵家に居座ってディナーを要求するなんて、貴族の常識からしたらあり得ない暴挙のはず。
でも、ディアエル様が「構わないだろう?」と微笑むと、うちの家令もメイド長も平伏してしまった。
逆らえない。
この人には、理屈じゃない『絶対的な力』があるんだ。
「それにしても、嬉しい誤算だったよ」
メインディッシュの子羊のローストを切り分けながら、ディアエル様が心地よい低音で紡ぐ。
「隣国にまで轟く『氷の麗人』の噂。誰も寄せ付けない冷血な女だと聞いていたからね。私が直々にこの屋敷を訪ねても、門前払いされるかもしれないと思っていた」
「そ、そんな! 滅相もございません」
即座に否定する。
原作小説だとまさにその通りになるんだけど。
本来の私はここでディアエル様を冷たくあしらい、彼のプライドをへし折って、最悪のヘイトを買うはずだった。それが処刑フラグの第一歩だ。
でも、ビビりな私が全力でヘコヘコおもてなししてしまったせいで、完全に原作のルートから外れてしまっている。
「本当に君は、噂とは違う……怯えたように揺れる瞳も、私の言葉に一喜一憂するその姿も、とても愛らしい」
ディアエル様は顎に手を当て、楽しそうに私を見つめた。
その底知れない眼差しに、心臓がトクンと跳ねる。怖いのに、不思議と引き込まれてしまいそうな強烈なカリスマ性。
(だ、騙されちゃダメ! この人は、原作で私を処刑台に送るラスボスなんだから!)
必死に自分に言い聞かせていると、ディアエル様がふと真面目なトーンに声色を落とした。
「エリザベート嬢。三日後、私が滞在している別邸で、ささやかな舞踏会を主催するんだ。私のパートナーとして、君を招待したい」
「えっ」
三日後!? 舞踏会!?
思わずナイフを取り落としそうになる。
舞踏会なんて、そんなの絶対他の貴族たちもたくさん集まる大イベントじゃないの。
「あ、あの……わたくしのような未熟者が、ディアエル様のエスコートを受けるなんて恐れ多くて……」
「遠慮は要らないと言ったはずだよ。それとも、私と腕を組むのは不満かな?」
にっこりと、完璧な笑顔。
でもその奥にある瞳はノーとは言わせないと静かに告げていた。
無理だ。絶対に断れない。
「……っ、光栄にお受けいたしますわ」
「いい返事だ。とても楽しみだね」
満足そうに目を細めるディアエル様に、私はふと、ずっと気になっていた疑問を口にしてしまった。
「あの……少し、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「なんだい?」
「もし、わたくしが本当に……噂通りの、血も涙もない冷血な女だったとしたら。ディアエル様はどうなさったんですか?」
恐る恐る尋ねる。
もし原作通り、私が彼を冷たく門前払いしていたら?
きっと彼は激怒して私を嫌悪したはずだ。だって、そうじゃないと私が処刑される理由がなくなっちゃう──けれど。
「冷血な女、か」
ディアエル様は、クスリと喉の奥で笑った。
「だとしても、君はひどく魅力的に映っただろうね」
「……え?」
「分厚い氷で心を閉ざしているのなら、それを少しずつ溶かし、暴き、私の色に染め上げていくのも……また一興だ。そうは思わないかい?」
そう言って微笑んだ彼の顔は、背筋が凍るほど美しく、そして底知れなかった。
(あれえ!?)
私は心の中で盛大に叫んだ。
ちょっと待って。氷を溶かすのも面白い?
態度が嫌だったから私を処刑したんじゃないの?
じゃあ、どうして原作のエリザは――ディアエル様に殺されなきゃいけなかったの?
完全に迷子になってしまった物語の行方に、私はただ、乾いた愛想笑いを浮かべることしかできなかった。




