#18 実家からの手紙
夜の宮殿の廊下。
私は足がもつれそうになるのを必死に堪えながら駆け抜けた。
エントランスホールに戻ると、ちょうどジュリアンが馬車を回し終え、アリスもどこからかひょっこりと戻ってきていた。
「エリザ様? どうされたんですか、そんなに青い顔をして……」
「っ、アリス! ジュリアン! 今すぐ馬車を出して!」
「えっ、今からですか!? しかし、夜も遅いですし今日はこの街の宿に……」
「急に! 猛烈に! ホームシックになったの! お願い、一秒でも早くここを出て!」
私の異常なまでの剣幕に押され、二人は「は、はい!」と慌てて馬車に乗り込んだ。
ディアエル様はまだ執務室でレイドラーと密談中のはずだ。
見つかる前に、なんとしてもこの国を抜け出さなければ。
馬車が石畳を蹴り、公国の門を抜けた時、私は座席に深く沈み込んでほうっと息を吐き出した。
どうやら、気づかれずに逃げ切ることはできたらしい。
「エリザ様……本当に大丈夫ですか? やっぱり、お風邪でも引かれたのでは……」
「ううん、なんでもないの。ちょっと……人酔いしちゃったみたいで」
私が弱々しく笑うと、向かいの席に座るジュリアンが申し訳なさそうに頭を下げた。
「申し訳ありません。私がもっと早く人混みから義姉上を遠ざけるべきでした……ですが、今日の義姉上のあのテイスティングの雄姿、本当に見事でした!」
「ええ! エリザ様が誰よりも輝いて見えましたよ! 公国の民もみんな絶賛してましたし!」
心配もそこそこに、二人は今日の昼間の出来事を思い出してパッと顔を輝かせた。
辺境の我が家に帰還してからも、周囲の熱狂は冷めることがなかった。
「お嬢様! 公国での素晴らしいご活躍、風の噂で届いておりますよ!」
「さすがは我らがエリザベートお嬢様です!」
屋敷のメイドたちまでがお祭り騒ぎで私を出迎えた。
どうやら、私が公国でディアエル様のワインを完璧に言い当てたという武勇伝は、すでにこの辺境にまで広まっているらしい。
たかがゲームではあるんだけどね。
ジュリアンやアリスがそれに尾ひれをつけて語るものだから、屋敷中はちょっとした祝賀ムードに包まれていた。
「ディアエル公爵閣下も、義姉上の知識には心底感服しておられた。あの方ほどの偉人から称賛されるとは、スノーローズ家の誇りです!」
ジュリアンが熱っぽく語る。
みんな嬉しそうだ。
私が活躍したことを、自分のことのように喜んでくれている。
そんな明るい喧騒の中で、私だけがどうしても作り笑いを浮かべることしかできなかった。
「はぁ……」
夜。ようやく一人きりになれた自室で、私はベッドの上にドサリと倒れ込んだ。
ふかふかのシーツに顔を埋め、誰にも聞こえないような小さな声で呟く。
「……バカみたい」
目を閉じると、バルコニーでの出来事が鮮明にフラッシュバックする。
『一目惚れした女性に、見返りも求めず全力で尽くそうとするのは、男として当然のことだよ』
至近距離で見つめてきたあの熱を帯びた蒼い瞳。
耳元で囁かれた甘くて低い声。
私の全てを愛し、守り抜くと告げられたあの瞬間──私は間違いなく胸が高鳴っていた。
(あんな完璧な人に好きだなんて言われたら、誰だってドキドキするよ……)
この世界に来てからずっと、自分が生き残ることだけで精一杯だった。
悪役令嬢としての断罪を回避して、ひっそりと生きていくつもりだった。
それなのに、あんな規格外の美貌を持ったラスボス公爵様に「一目惚れした」なんて言われて、心のどこかでちょっとだけ期待してしまったのだ。
もしかしたら、本当に愛してくれているのかもしれない。
もしかしたら処刑されるなんて私の勘違いで、このままあのお城で、彼の隣で幸せになれるのかもしれないなんて。
そんなお姫様みたいな夢を。
『エリザベートという貴族は、殺しておかなくてはいけない』
けれど現実は甘くなかった。
密談で交わされていた氷のように冷たい彼の声。
その言葉を聞いた瞬間一瞬でも浮かれてしまった自分がひどく滑稽に思えた。
「そうだよね……私なんかがあんな人に、本気で愛されるわけないか」
私はただの物語を引っ掻き回す嫌われ者の悪役令嬢。
公国の権力者である彼からすれば、ちょっと物珍しい都合の良い手駒に過ぎないんだ。
殺す前に少しだけ甘い夢を見せて、私が有頂天になったところをどん底に突き落とす。
きっとそういう残酷なゲーム。
「……っ」
視界が滲んで、シーツにポツリと温かい染みができた。
死ぬのが怖い。
でも、それと同じくらい──あの甘い言葉が全部嘘だったという事実が、私の胸を酷く締め付けていた。
恋なんてする前に終わったんだから泣くことないじゃないか。
そう自分に言い聞かせても涙はしばらく止まってくれなかった。
「ふう、切り替えないと」
翌朝──落ち込んでばかりもいられない。
今後の計画を真剣に練らなければ。
「お嬢様、おはようございます……あの、お顔色が優れないようですが」
心配そうに声をかけてきたメイド長に、私は寝不足なだけと首を振った。
「それよりも、変わったことはない? 例えば、怪しい人物が屋敷の周りをうろついているとか……」
「怪しい人物はおりませんが、先ほど、王都の本邸から急使が参りました」
「え?」
メイド長が、銀のトレイに乗せられた一通の封筒を差し出した。
重厚な羊皮紙に、スノーローズ家の紋章である雪薔薇の蝋封が押されている。
宛名は私。
差出人は──第一令嬢カトリーヌ=スノーローズ。
長姉からの手紙だった。
「本邸から……お姉様が、私に?」
嫌な予感しかしない。
私は震える指で蝋封を割り、中の便箋を取り出した。
『愛しの妹エリザベートへ。公国での見事な振る舞い、王都にいる私たちの耳にも届いております。スノーローズ家の名に恥じぬ働きをしているようで何より。つきましては、近々本邸にて一族の親睦を深めるための茶会を催すことになりました。お父様も、遠く離れて暮らす貴女のその顔を見たがっております。必ず本邸へ帰参しなさい』
「…………」
これは何? 称賛風の嫌味?
便箋から立ち上る、隠しきれないねっとりとした悪意の香り。
これは間違いなく、私を本邸に呼び寄せて何かを仕掛けるための罠だ。
「……次は、実家からの呼び出しかぁ」
ディアエル様に殺されるかもしれない恐怖に怯えている状況で、今度は本来の敵陣である本邸からの呼び出し。
私は便箋を持ったまま、天井を仰いで乾いた笑いを漏らした。
どうやら私の悪役令嬢ライフは、まだまだ平穏には程遠いらしい。




