071.旅行の風呂場で~後編~
「まじ……かよ……」
ボールが飛んでいった方向に行った俺は思わず声が出る。
ここらは家がいくつもある住宅街だ。だからボールの行き先も家々に囲まれていて探すのに苦心するかと思っていた。けれど付いた先はそんなこともなく、高い塀に囲まれた敷地がそこにはあった。
「これは確かにガラスも割れないわな」
これだけ広ければ窓ガラスに当たる可能性はグッと下がるだろう。あとはそこら辺に落ちているボールを見つけてもらって受け取ればいい。俺は意気揚々と門の横にポツンとあるインターホンを押下する。けどなんだろう……こころなしか塀の向こうは騒がしいような……
そのまま少しだけ待っていると、えらく低い男性の声が聞こえてきた。
『なんだね。今忙しいのだが』
『あっ、え~っと……タブンここの家に野球ボールが飛んできたと思うんすけど……』
ガチャン。
まるで受話器を叩きつけるかのような強い音とともに通話が途切れる。頼みの綱が途切れてしまった……ここにあるはずなんだがな。そう思いながら門の前をウロウロとしていると急に目の前の門が動き出す。
「君だね?ボールの主は」
「あっはい。ドモ…」
出てきたのは暑いにも関わらずスーツを着込んだおっさ…お兄さんだった。その人は俺を一睨みした後腕を掴んで敷地内に引き込んでいく。
「痛い……いてぇって!!」
「…ついてきなさい」
その掴む腕は異常に強かった。俺が喚くにも関わらず前だけを向いて庭の中を歩いて行く。
庭に池がある家なんて初めて見た……後から知ったが日本庭園という様式らしい。池を抜け、石畳を抜けて建物の角を曲がると何人もの大人が集まっていた。
「ここだ………これかい?君の探しものは」
そう言って男は俺に一つのボールを見せてくる。
「あぁ!これこれ!助かったっす!」
俺はボールを目にし能天気にそれを受け取る。しかしここで気付くべきだった。ボールなんかのせいで視野が狭くなっていないで。
「そんじゃっ!ありがとっした!俺はこれで帰るんで!!」
「……待ちなさい」
ボールを両手で抱えその場を後にしようとした時、男に呼び止められる。
「……なんすか?」
「君にはこの惨状が目に入らないのかね?」
そこで俺は初めてボールから目を離して辺りを見渡す。
その場は騒然としていた。何人もの大人が一箇所に集まっており、俺が顔を向けると集団が割れ中の様子が確認できる。そこには1人の女性ともうひとり……女性に抱えられた俺と同い年くらいの女の子の姿があった。
女の子は涙も出さず何かを抱えるように痛みに堪らえ、女性はその姿を励まし続けている。
「これ……は?」
「君のボールのせいで起こったこと……ボールが腕に当たったのだ」
そんな……
周りの大人達の視線が俺に突き刺さる。ガラスを割らなければいいだろうと思っていた過去の自分を呪いたい。まさかこんな大事になっていたとは……
痛みに堪らえている女の子の元へ歩こうとしたところで男に引き止められる。
「救急車を呼んだから君も乗りたまえ……あぁ、ご家族には私から連絡しておこう」
「はい……」
俺はその事実を目の当たりにし、ただ頷くことしか出来なかった。
「智也君…だったね。君のお母さんはこれから来るそうだ」
「そう……ですか……」
この辺りで一番大きな病院。
病室前に1人でいると男……宏満さんが目の前にやってくる。
「入りたまえ」
その言葉に誘導されるように入った先は綺麗な個室だった。そこには大人が何人も居ることはなく、さっき痛みに堪らえてた女の子と励ましていた女性の姿がある。
「君にも結果を報告しておこう。幸いにも症状は打撲、2週間は安静に。らしい」
「……」
「今日はとりあえず入院する事となったが明日からは帰れるそうだ」
「……」
「君のお母さんには後ほど改めて説明するつもりだが賠償などするつもりは全く無い」
「……」
俺は黙って頷くことしか出来ない。そんな俺に煮えを切らしたのか宏満さんは俺の両肩を強く握る。
「君のボールのせいで!この子は……亜子は!明日の琴の演奏会がオジャンになったんだ!!どうしてくれるんだ!!」
「あなた!」
俺の肩を揺らすのを必死に止めている隣の女性……
パニックが一周したのか自分でも驚くほど冷静だった。宏満さんの言葉を受け止めながら俺は今までのことを悔い、目から涙が溢れ出てくる。
「………すまない。子供相手に感情的になってしまった……少し出てくる」
宏満さんは扉を勢いよく閉じて病室を出ていく。側に居た女性もその後を追いかけ、病室には俺と女の子の2人きりになってしまった。
「…………」
「…………」
お互い、無言で向かい合う。少女はベッドを起こして無表情のままこちらを見ていた。その右手は包帯でぐるぐる巻きになっており自分がしたことの意味を再認識する。
「………あの、俺の打ったボールのせいで……その……ごめ―――」
「貴方のお名前は?」
「ん……へ?」
俺が謝ろうとした所でマイペースな音色がし、思わず俺は聞き返してしまう。
「貴方のお名前を聞いたのです。 ……あっ、そうでした。私は兼島 亜子といいます。小学校6年生です」
「えっと……大外 智也、です。 同じく小6……」
「まぁ!同い年……っ」
少女――兼島 亜子は俺の言葉に破顔し、両手を合わせようとする。おそらくそれが彼女の癖なのだろう。けれど怪我のせいでそれも叶わずその顔が苦痛に歪んでしまう。
「だ、大丈夫!?…ですか?」
その様相に驚いた俺はつい駆け寄るも、彼女の左手によって制される。
「平気、です。心配…いりません」
「でも……」
俺がベッドの脇でしゃがみ込み、その包帯に巻かれた腕に顔を落としていると、ふと俺の頭に彼女の手が置かれた。
「ご心配なさらず。私も、この夏はずっとお稽古で飽き飽きしていましたから。いい休暇になりますね」
「明日……演奏会あるって……」
「あぁ。 あれはそんな大層なものではなく父と母の前だけで演奏するものですよ。花火大会に合わせて毎年やっていましたが何時でもずらすことが出来ますので」
「そう………なのか?」
「はい。なので気に病むことはありません」
そう俺の頭を撫でながらにこやかに話をする少女。
「!! でも、さっきの……宏満、さんの怒りようは!」
「それも、いつものことです。………そろそろ戻ってくる頃ですよ?」
彼女が扉に顔をやると同時に扉が開き、件の宏満さんが入ってきた。彼はさっきとは違った様子で顔を青くし、俺の前までフラフラと歩いてくる。
「えー……智也君、さっきはすまなかった……亜子にもしものことがあったらと思って、気が動転していた…」
そのまま俺に向かって頭を下げてくる宏満さん。大の大人に頭を下げられたことのない俺は突然の出来事に面食らってしまう。
「えぇっと……その……俺が…ボクが打ったボールが原因ですので……すみませんでした!!」
俺も混乱しながらも宏満さんと同じように頭を下げる。その瞬間、2つの方向から女性の笑い声が俺の耳に届いた。
「ふふっ……智也君、でしたね?」
「は、はい!」
宏満さんの方向から女性に問いかけられ、頭を下げたまま返事をする。
「頭を上げてください……この度は、主人がとんだご迷惑をおかけしました。この件は事故ですし、貴方に一切の責はございません」
「そんなっ……!だって、俺のせい…でぇ!?」
俺がその言葉で頭を上げると女性は宏満さんの頭が上がらないよう押さえつけていた。
その異様な光景に数歩後ずさりしてしまう。
「あの……その手は………?」
「あら?……ふふっ。お気になさらず」
「えぇ……」
その光景にほおけていると隣から服を引っ張られる。見ると彼女が手招きをしているようだった。
俺が彼女に合わせるようにそのまま膝を折ると彼女は俺の直ぐ側まで顔を近づけてくる。
「普段は亭主関白な父ですが、母が一度怒るとこうなってしまうのです」
膝を折った先で隣の兼島 亜子さんが耳打ちしてきた。なんだろう……同年代の女の子に耳打ちされたのは初めてで耳がこそばゆい。
「と、いうことですのでこのダメ主人に言われたことは気にしないでいてくださると嬉しいのですが」
「そういわれても……」
一度自分のせいだと認めてしまったらそれを覆すのは難しい。俺もどうしたらいいかわからなくなっていると「そうだ!」と隣のベッドから声が上がった。
「でしたら、包帯が取れるまでの2週間、私と一緒に遊んでくれませんか!?」
「!? 亜子!それはどういう―――ムグッ」
「はい、あなたは黙っていましょうね」
彼女の言葉に真っ先に反応したのは宏満さんだった。しかし頭をホールドしている隣の女性に口を塞がれてしまう。
「それは……どういう……?」
「はい。本来ならば明日からもお稽古が入っていたのですが、この件でこの先の予定が真っ白なのです。ですので!まずは明日の花火から私と一緒に過ごしてもらえませんか?」
「もちろん、いいけれど…」
それで罪滅ぼしになるのなら喜んで…
「やったっ!」
「……決まりですね。智也君、明日からよろしくおねがいします。私はこの主人の妻で仁奈と申します」
「はぁ……よろしくおねがいします……」
仁奈さんは微笑みながら手を差し出し、俺もその手に合わせて固い握手をする。
と、ようやく開放された宏満さんが咳払いをしながら居住まいを正す。
「ま……まぁ、2人がいいのなら私は何も言うまい。改めて、すまなかったね」
「いや、俺こそ……」
その後宏満さんとも握手を交わす。
こうして俺と亜子の奇妙な2週間が始まった。
また、ようやくやって来た母さんが経緯の説明と共に名刺を見て卒倒したのはまた別のお話。
◇◇◇
「つーわけだ。そっから2週間と言わずずっと遊ぶようになって、お互い付き合うようになったってこと」
智也が説明に飽きたのか、その後はざっくりとした説明でこの場を締める。
「まさか……智也と兼島さんがドラマみたいな出会いをしてるとは……」
「それ、そっくりそのまま返すぞ。お前らの出会いよりかは遥かにチープだっての」
そう呆れたように言う智也。だがその口角はわずかに上がっていた。
「ちなみに、智也が宏満さんのことをおっさんって呼ぶのは…」
「あぁ。あんな姿を見た後は威厳もへったくれも無くってな……それにおっさん自身がそう呼ばれるの気に入ってるみたいだし」
こんなに楽しそうな顔をする智也はなかなか見ない。
きっと2人だからこその友情というやつなのだろう。その事は俺の胸にしまっておくことにする。
「………あれ?そういえば宏満さんは?」
「そういや途中から話に入って来なくなってたな………ん?あれは…?」
「あっ………宏満さん!!」
「おっさん!」
2人で見た宏満さんの姿は露天風呂の岩場に身体を預け、目を回している………
長い昔話に耐えられず、のぼせてしまった宏満さんを脱衣所まで一緒に運び込むのであった――――。




