序章 海の底から
それが引き揚げられたのは、夜明け前のことだった。
漁師の男は、網にかかった異様な重さに気づき、船を止めた。魚の群れが絡まったにしては重すぎる。海底に沈んだ何かを引っかけたのかと思い、仲間と二人で巻き上げ機を操作した。
やがて、黒い塊が海面に姿を現した。
最初は岩だと思った。
だが、波に揺られて反転したそれを見て、漁師の男は手を止めた。
毛のない、黒ずんだ皮膚。丸みを帯びた胴体。短く太い四肢。顔の先には、土を掘るためのものに似た硬い突起があった。
モグラに似ていた。
ただし、その大きさは人間の常識から外れていた。
全長は小型の漁船ほどもあり、腹部には幾筋もの溝が刻まれていた。自然にできた傷には見えなかった。古い文字のようにも、何かを嵌め込むための跡のようにも見えた。
死骸は港へ運ばれ、役場と警察に連絡が入った。
正体を確かめるため、関係者が集まった。
誰も、それが何なのか答えられなかった。
ただ、ひとつだけ奇妙なことがあった。
その日を境に、町の漁獲量が急増した。
普段なら数日かけて獲る量の魚が、一度の漁で網に入った。種類も豊富で、これまでほとんど見かけなかった深海魚まで混じっていた。
漁師たちは喜んだ。
海が機嫌を直したのだと、冗談交じりに話す者もいた。
しかし、その日の夕方。
漁師の男が帰宅すると、家の中から妻の姿が消えていた。
居間には衣服が残されていた。食卓には、まだ温かい味噌汁が置かれていた。
床には、砂が落ちていた。
人がいた場所に、細かな砂が積もっていた。
男は妻の名を呼んだ。
返事はなかった。
奥の部屋では、子供の寝ていた布団が崩れていた。そこにも砂があった。
男は膝をつき、両手で砂を掬った。
指の間から、さらさらと落ちていった。
窓の外では、海が静かに光っていた。
その夜、町の海岸には、いつもより多くの魚が打ち上げられた。
誰もが豊漁を喜んでいた。
誰も、海の底で何が起きたのか知らなかった。




