第一章 休暇の終わり
サエキがその町を訪れたのは、仕事を忘れるためだった。
海沿いの小さな町。観光地として大きく売り出されているわけでもなく、かといって人の往来が途絶えているわけでもない。古い商店と住宅が並び、港には漁船が浮かんでいる。
特別なものはない。
少なくとも、数日前まではそう思っていた。
サエキはフリーランスで怪異に関する調査を請け負う者だった。依頼を受け、契約条件を確認し、必要な情報を集め、現地へ赴く。仕事の性質上、依頼人の身元も案件の詳細も公にできないことが多い。
政府機関に所属しているわけではない。
指揮命令系統もなければ、定められた勤務時間もない。仕事を受けるかどうかは、条件と内容を見て自分で決める。
その自由さを気に入っていた。
もちろん、自由には責任が伴う。
厄介な案件に関われば、助けを呼べる相手は限られる。報酬が高いからといって、何も考えずに引き受けるわけにもいかなかった。
今回の滞在は、数日間の休暇として予定していた。
宿を取り、町を歩き、海を眺める。予定と呼べるほどの予定もない。仕事用の端末は必要最低限しか確認せず、連絡が来ても急ぎでなければ後回しにするつもりだった。
そのつもりだったのだが、二日目の午後、端末に一件の連絡が入った。
相手は、政府の怪異対策部門で調査官を務める知人だった。
簡潔なメッセージには、町で発生した異常事案についての概要が記されていた。
海から引き揚げられた正体不明の大型生物。
その直後に起きた異常な豊漁。
そして、漁師の家族が砂状の物質を残して消失した事件。
サエキは最後まで目を通し、端末を伏せた。
休暇は終わったらしい。
通話をかけると、知人はすぐに出た。
「読んだか」
「読んだ。ずいぶんと説明しにくい案件だな」
「こちらでも調べているが、現地の情報が錯綜している。通常の生物調査だけでは片づきそうにない」
「それで、俺に何をさせたい」
「現場の確認と、怪異の可能性についての調査だ。正式な業務委託として依頼したい。報酬は規定に沿って支払う。交通費と滞在費などの経費は別途精算する」
サエキはすぐには答えなかった。
相手が知人であっても、仕事の条件は仕事の条件だ。
「契約書と、現時点で開示できる資料を送ってくれ。内容を確認してから返事をする」
「わかった。急ぎではあるが、判断は任せる」
通話が切れた。
しばらくして、端末に資料が届いた。
写真、聞き取り記録、現場の簡易図面、そして関係者の証言。
サエキは宿の机に資料を広げ、順番に目を通した。
死骸の写真を拡大する。
黒い皮膚。短い四肢。顔の先にある硬い突起。
腹部の溝。
サエキは写真を何度か切り替えた。
生物として見るなら、説明できない部分が多すぎる。
怪異として見るなら、まだ判断材料が足りない。
そして、最も気になるのは死骸そのものではなかった。
死骸が引き揚げられた後に、異常な豊漁が始まったこと。
その一方で、人間が砂になったこと。
ふたつの現象が同じ時期に起きている。
偶然と片づけるには、間隔が短すぎた。
サエキは契約書に目を通し、報酬と経費の扱い、調査範囲、情報の取り扱いについて確認した。
問題はなかった。
電子署名を送り、知人へ短く返事をした。
依頼を受ける。
その夜、サエキは宿の窓から海を見た。
波は穏やかだった。
沖合には、漁船の灯りが点々と浮かんでいる。
明日の朝には、あの海へ行くことになる。
何も起きなければ、それでいい。
サエキはそう考え、カーテンを閉めた。
死骸が保管されているのは、港から少し離れた作業施設だった。
周囲には規制線が張られ、関係者以外の立ち入りが制限されている。近くには簡易の検査設備が設けられ、数人の調査員が交代で記録を取っていた。
サエキを出迎えた知人は、ひどく疲れた顔をしていた。
「実物を見れば、写真よりは何かわかると思う」
「写真でわからなかったものが、実物を見てわかるとは限らないがな」
「それでも、見ないよりはいい」
知人は施設の扉を開けた。
室内の中央に、大型の防水シートが敷かれていた。その上に、黒い死骸が横たえられている。
写真で見たときよりも大きく感じた。
サエキは手袋をつけ、死骸の周囲をゆっくりと歩いた。
皮膚は硬く、ところどころに白い付着物がある。表面には細かな傷が無数に刻まれていたが、腐敗の進行は不自然なほど遅い。
目に当たる部分は陥没していた。
口らしき裂け目は小さい。捕食のための器官と考えるには、あまりに頼りない形だった。
「歯は?」
「確認できていない。口の内部も、通常の生物とは構造が違うようだ」
「胃の内容物は」
「まだ判別できていない。採取した組織も、既知の生物のものとは一致していない」
サエキは腹部へ目を向けた。
そこには、何本もの溝が刻まれていた。
溝は一定の間隔で並び、胴体の左右を回り込むように続いている。表面が裂けてできた傷ではない。皮膚の奥まで、意図的に形作られたように見えた。
サエキはライトを当て、溝の端を確認した。
「引き揚げる前からあったものか」
「映像で確認できる範囲では、そうだ」
「傷は?」
「銛のようなもので刺された跡がある。少なくとも一か所は、死因に関わった可能性がある」
サエキはその傷を見た。
周囲の皮膚は内側へ押し込まれ、裂け目は深い。何かが強い力で突き刺さったようだった。
「誰かが意図的に殺した可能性があるわけか」
「現時点では断定できない。ただ、漁師の男が何かを知っているかもしれない」
「その男は?」
「港にいる。事情聴取を受けているが、話が曖昧でね」
サエキは死骸をもう一度見た。
海から引き揚げられたものが、偶然そこにいた生物なのか。それとも、何かの役割を持っていたのか。
後者だとすれば、腹部の溝は気になった。
装飾には見えない。
傷でもない。
何かを閉じるための構造。
そんな考えが頭をよぎったが、根拠はなかった。
「海底の採取地点はわかっているか」
「おおよその位置は。詳しい調査はこれからだ」
「先に海底を調べたい。死骸の状態だけ見ていても、話は進まない」
知人はうなずいた。
「船の手配を進めている。現場の海域には立ち入り制限がかかっているが、調査の許可は取れるはずだ」
「許可が下りるまでは待つ。勝手に潜る趣味はない」
サエキは手袋を外した。
仕事を始めたばかりだというのに、すでに休暇が懐かしくなっていた。
施設を出ると、港の向こうに海が見えた。
その日は、網を積んだ漁船が何隻も戻ってきていた。
どの船も、普段より重そうに見えた。




