第二章 漁師の言い分と長生きの町
漁師の男は、港の端にある小さな詰所にいた。
年齢は五十代ほどに見えた。日焼けした顔に深い皺が刻まれ、手の甲には古い傷がいくつも残っている。
サエキが名乗ると、男は警戒するように目を細めた。
「役所の人間か」
「違う。調査を請け負っているだけだ」
「同じようなものだろう」
「そう思うなら、それでもいい」
サエキは椅子に腰を下ろした。
男の前には、冷めた茶が置かれていた。湯飲みには手をつけた形跡がない。
「引き揚げられた生物について聞きたい」
「俺は知らん」
「まだ何も聞いていない」
「見つけたのは俺だ。だが、あんなものが海にいるなんて知らなかった」
「どこで見つけた?」
男は視線を逸らした。
「沖だ」
「沖のどのあたりだ」
「普段から漁をする場所だ」
サエキは持参した海図を机に広げた。
「ここか」
男の肩がわずかに動いた。
地図上には、漁業関係者の立ち入りが制限されている海域が記されていた。表向きの理由は海底地形の不安定さと、過去に発生した事故だった。
男は答えなかった。
「ここで漁をしていたのか」
「……たまたまだ」
「たまたま立ち入り禁止区域に入り、たまたま正体不明の生物を引っかけた?」
「何が言いたい」
「まだ何も。事実を確認しているだけだ」
男は苛立ったように机を叩いた。
「海は誰のものでもない。魚がいるところで網を入れる。それだけだ」
「禁止されている理由は知っていたんだな」
「魚が獲れないから、あそこを閉じているんだろう」
サエキはそれ以上追及しなかった。
男の言葉には、説明できないものがあった。
恐怖なのか、罪悪感なのか。
あるいは、どちらでもないのか。
「家族のことは気の毒に思う」
そう言うと、男は顔を上げた。
「気の毒?」
「そうだ」
「お前に何がわかる」
「わからない。だから調べている」
男はしばらくサエキを見つめていた。
やがて、視線を落とした。
「……俺が帰ったときには、もう砂になっていた」
声が小さくなった。
「最初は、何かの悪戯かと思った。床に砂が落ちていて、妻の姿がなかった。子供もいなかった。呼んでも返事がない。家の中に、砂だけが残っていた」
男の指が震えていた。
「どうして俺の家族なんだ。どうして、あいつらが」
サエキは答えなかった。
慰めの言葉を並べても、意味はない。
「死骸を引き揚げる前に、何か変わったことはなかったか」
「何もない」
「海の中で、何かを見たとか」
「何もないと言っている」
男は立ち上がった。
これ以上話すつもりはないらしい。
サエキも席を立った。
「また聞きに来るかもしれない」
「好きにしろ」
詰所を出ると、潮の匂いが強くなった。
港には、魚を積んだ箱がいくつも並んでいた。作業員たちは忙しそうに動き、普段よりも大きな声で話している。
豊漁は続いている。
その一方で、漁師の男の家族は戻ってこない。
サエキは、死骸の腹部に刻まれていた溝を思い出した。
もし、あの生物が何かを守っていたのだとしたら。
引き揚げられたことで、守るものを失ったのだとしたら。
その考えは、まだ仮説にもなっていなかった。
だが、頭から離れなかった。
町の図書室には、古い統計資料が保管されていた。
サエキは役場の担当者に閲覧を申請し、人口の推移や住民の年齢構成を調べた。
町の人口は、長い目で見れば減少傾向にある。
若い世代は町を離れ、高齢者の割合が増えている。地方の小さな町では珍しい話ではなかった。
しかし、百歳以上の住民に関する数字は、少し違っていた。
人口比で見ても、実数で見ても、この町の百歳以上の住民は異様に多かった。
全国的に見ても、かなり高い水準にある。
サエキは過去の資料をいくつも開いた。
その傾向は、十年や二十年で始まったものではなかった。記録が残る範囲では、かなり以前から続いている。
それなのに、この町から国内最高齢者が出た記録はなかった。
百歳を超える住民は多い。
しかし、全国で最も長く生きた人物として記録された者はいない。
偶然の範囲かもしれない。
統計上の偏りという可能性もある。
ただ、数字を並べると、妙な印象が残った。
長生きする人間は多いのに、誰も一番にはならない。
サエキはその点をメモに残した。
関連する資料を探していると、町の古い記録に行き当たった。
漁業の規則、海難事故の記録、港の改修工事。
その中に、海沿いの一部区域への立ち入りを禁じる記述が何度も登場していた。
理由は一定していない。
海底の崩落。
危険な潮流。
原因不明の漁船事故。
古い記録になるほど、説明は曖昧になっていた。
ある記録には、短い文が添えられていた。
――海の底を荒らすな。
その下には、別の筆跡でこう書かれていた。
――黒い守り手を動かすな。
サエキは筆跡を見比べた。
記録の年代は古く、書いた人物を特定するのは難しい。文脈もわからない。
黒い守り手。
引き揚げられた死骸の色を思い出した。
偶然かもしれない。
そう考えて、資料を閉じた。
図書室を出ると、夕方の町は静かだった。
商店の前では、年配の住民が椅子に座って世間話をしている。道を歩く人の多くも、白髪の目立つ高齢者だった。
サエキは、すれ違った老人の顔を見た。
どこにでもいる町の住民。
そのはずだった。
それでも、さきほど見た数字が頭に残っていた。
百歳を超える者が多い。
だが、一番にはならない。
それは怪異と呼ぶには弱すぎる。
しかし、調べるのをやめるには、少しばかり都合がよすぎた。
サエキは宿へ戻る途中で、知り合いの情報屋に連絡を入れた。
町の古い伝承や、記録に残らない事件を扱っている人物だった。公的な資料には載らない話を集めることに長けている。
情報屋は電話口で、ひどく面倒そうな声を出した。
「休暇中じゃなかったのか」
「そのつもりだった」
「つもり、というのは便利な言葉だな」
「調べてほしいことがある」
「内容による」
「この町に伝わる、海に関係した古い話だ。特に、モグラに似た生き物。虫籠。千年。この三つに心当たりがないか」
電話の向こうが静かになった。
「……どこでその言葉を拾った」
「仕事で必要になった」
「そういう答え方をする奴は、大抵ろくでもないものを見つけている」
「否定はしない」
情報屋は小さく息を吐いた。
「資料を当たる。だが、すぐには出ないかもしれない」
「構わない。見つかったものだけでいい」
「報酬は?」
「相場で払う」
「最初からそう言えばいい」
通話が切れた。
サエキは宿へ戻り、調査記録を整理した。
翌朝、情報屋から連絡があった。
古い民間伝承の断片が見つかったという。
まとまった物語ではない。書き写された文句や、寺社の記録に紛れた短い記述、出所のわからない聞き書き。
情報屋は、それらの写しを持って宿まで来た。
「期待するほどのものじゃないぞ」
そう言いながら、机に紙束を置いた。
サエキは一枚ずつ目を通した。
最初の資料には、こうあった。
――海の土竜は、底の穴を守る。
次の紙には、
――虫籠を開けば、千年の砂が這い出る。
別の記録には、
――黒き守り手を失えば、海は満ち、陸は砂となる。
文章は短く、書かれた年代もまちまちだった。
同じ伝承を指しているのかもわからない。
「虫籠というのは、何だ」
サエキが尋ねると、情報屋は肩をすくめた。
「文字どおり虫を入れる籠という意味かもしれない。比喩かもしれない。昔の人間が、何かを閉じ込めておく場所をそう呼んだ可能性もある」
「海の底の穴を守る生き物。その穴に虫がいる」
「そう読めなくはないな」
「千年というのは」
「古い話によくある誇張だろう。千年続く災い。千年眠る怪物。そういう言い回しは珍しくない」
情報屋は一枚の紙を指先で叩いた。
「ただ、気になるのはこれだ」
そこには、短くこう記されていた。
――土竜が死ねば、魚は増える。
サエキは紙を見つめた。
豊漁。
黒い死骸。
虫籠。
それぞれの言葉が、少しずつ繋がり始めていた。
「これを書いた人物は?」
「わからない。古い帳面の余白に書かれていたらしい。元の帳面は失われている」
「この町のものか」
「その可能性は高い。だが、断定はできない」
サエキは紙束を揃えた。
「十分だ。助かった」
「まだ帰る気はないんだろう」
「調査が終われば帰る」
「それまでに何かあったら、今度は高くつくぞ」
「覚えておく」
情報屋が帰ったあと、サエキは伝承の写しをもう一度読み直した。
海の土竜は、底の穴を守る。
虫籠を開けば、千年の砂が這い出る。
黒き守り手を失えば、海は満ち、陸は砂となる。
そして、土竜が死ねば魚は増える。
伝承が正しいのなら、今回の事件は単なる怪異の出現ではない。
何かが壊れた結果なのかもしれなかった。




