第三章 老人と海底の空白
町の古い伝承について聞き込みを続けるうち、サエキはひとりの老人の存在を知った。
海沿いの古い家に住んでいるという。町の歴史に詳しいらしいが、最近は物忘れがひどく、まともに話ができないことも多いと聞いた。
サエキが訪ねると、老人は縁側に座っていた。
庭には手入れの行き届かない草が伸びている。軒先には古い網が干され、隅には用途のわからない木箱が積まれていた。
「どちらさんだったかな」
老人はサエキを見て、首を傾げた。
「少し話を聞きたいだけです」
「話? 何の話だったかね」
「昔、この町で海にまつわる言い伝えがあったと聞きました」
「海なら、毎日見ているよ」
老人は笑った。
「昔も今も、海は海だ。変わりゃせん」
会話はなかなか進まなかった。
老人は同じ質問を何度も繰り返した。サエキが名前を名乗ると、すぐに忘れた。茶を出そうとして、湯を沸かしていないことに気づき、今度は火をつける場所がわからなくなった。
話題は天気から畑へ、畑から近所の家へと移った。
サエキは急かさず、老人の言葉を聞いていた。
やがて、海の話に戻った。
「海の土竜というものをご存じですか」
老人の手が止まった。
それまで落ち着きなく動いていた指が、膝の上で静かになった。
「海の土竜か」
老人は顔を上げた。
目はサエキの方を向いていたが、焦点は合っていなかった。視線はサエキの肩を通り抜け、その向こうの何かを見ているようだった。
「おったよ」
声から、先ほどまでの曖昧さが消えていた。
抑揚は少ない。言葉を探す様子もない。
「海の底におった。穴を守るためにね」
「何の穴ですか」
「下へ続く穴だよ」
「何があるんです」
「虫がおる」
老人は淡々と答えた。
「小さな虫だ。ひとつひとつは、どうということもない。だが、あれは数が多い。生きたものに取りついて、食べてしまう。最後には、砂しか残らん」
サエキは黙って聞いた。
老人の視線は、依然として定まっていない。
「土竜は、それを出さないようにしていたんですか」
「そうだよ。あれは守り手だ。人を襲うためにおったんじゃない。穴が開かんように、ずっと押さえていた」
「千年も?」
「千年か、もっとか。人間の数え方じゃ、よくわからん」
老人は縁側の向こうを見た。
「虫籠は、閉じておかなきゃならん。開けば、虫が出る。虫が出れば、砂になる」
「土竜がいなくなったら?」
「蓋が外れる」
老人は、それだけ言った。
サエキは老人の顔を観察した。
先ほどまで、日常のことさえ曖昧だった人物とは思えない。話の内容は簡潔で、余計な飾りもない。思い出話をする老人というより、決まった事実を読み上げているようだった。
「今回、海から大きな生き物が引き揚げられました。モグラに似た姿をしています」
老人はうなずかなかった。
否定もしなかった。
「その生き物が、海の土竜だった可能性はありますか」
「さあね」
老人は、元の曖昧な声で答えた。
「魚の話かい。魚は獲れたのかね」
話は途切れた。
サエキがもう一度、虫籠について尋ねても、老人は答えなかった。今度は近所の誰それが昔どんな仕事をしていたかという話を始め、同じ話を二度繰り返した。
サエキは質問を切り上げた。
帰り際、老人は玄関まで出てきた。
「また来るかもしれません」
「そうかね。次は茶を出そう」
「お願いします」
サエキが頭を下げると、老人は庭の方を向いた。
それから、何でもないことのように言った。
「帰りは、海の方へ行かん方がいい。潮が満ちるからね」
サエキは足を止めた。
「今日は、まだ潮が引いていますが」
「そうかね」
老人はそれ以上、何も言わなかった。
サエキは道へ出た。
海は、家々の向こうに見えていた。
波の音は静かだった。
潮が満ちる。
老人の言葉が、妙に耳に残った。
海底調査が許可されたのは、翌日の午前だった。
調査船には、海洋調査の専門家と記録担当者、それにサエキが乗り込んだ。知人も同行する予定だったが、別の対応に追われ、港で見送ることになった。
船が指定海域へ向かう間、サエキは資料を確認していた。
引き揚げ地点は、立ち入り制限区域の内側にある。
海図上では、比較的なだらかな海底のはずだった。しかし、古い記録には、地形の変化や機器の異常を示す記述が散見されていた。
船が現場へ到着すると、調査員たちは機材を海へ降ろした。
水中カメラの映像が、船内のモニターに映し出される。
最初は、何もなかった。
砂地と岩礁。魚の群れ。ところどころに沈んだ網や、古い漁具の残骸が見える。
やがて、海底に不自然な窪みが現れた。
窪みは円形に近く、周囲の地形だけがわずかに盛り上がっている。自然の陥没穴にも見えたが、縁の形状が妙に整っていた。
カメラが近づく。
その瞬間、映像が乱れた。
「機器の不調か?」
調査員が確認する。
通信は途切れていない。水深計も正常だった。
映像が戻る。
窪みの中央には、黒い空間があった。
穴だった。
底が見えない。
ライトを向けても、光は内部へ届かなかった。穴の縁には、細い筋のようなものが幾重にも走っている。まるで、何かを固定するために刻まれた溝のようだった。
サエキは死骸の腹部を思い出した。
「溝の間隔を計測してくれ」
調査員が応じ、映像から寸法を取る。
数値は完全には一致しなかった。
しかし、形状には似たところがあった。
穴の縁と、死骸の腹部。
ふたつは無関係とは思えなかった。
カメラがさらに近づいた。
穴の内側で、何かが動いた。
最初は砂が崩れたのかと思った。
だが、黒いものは砂とは違う動きをした。
細かく、無数に、うごめいている。
「拡大できるか」
映像が拡大される。
穴の内壁を覆っていたのは、小さな黒い虫のようなものだった。
虫は互いに重なり、集まり、ほどけてはまた集まる。個々の形を識別するのは難しい。映像の解像度を上げても、全体がひとつの生き物のように動いて見えた。
誰かが小さく息を呑んだ。
そのとき、船体が大きく揺れた。
金属が軋む音が響いた。
調査員たちが手すりにつかまる。モニターの映像が激しく回転し、カメラが海底の岩にぶつかった。
「何が起きた!」
「船底に衝撃! 原因は不明!」
水中カメラの映像が途切れた。
数秒後、通信が戻ったが、映像の一部は失われていた。
海面に引き上げられた機材には、深い擦過痕が残っていた。衝撃の原因はわからない。大型生物が接触した可能性はあるが、映像には何も映っていなかった。
調査船は予定を切り上げ、港へ戻った。
帰港後、サエキは知人に連絡した。
「穴があった。中には、黒い虫のようなものが大量にいる」
「虫?」
「生物なのか、別の何かなのかはわからない。船体に衝撃があった。機材の一部も失われた」
「危険性は」
「現時点では判断できない。ただ、あの穴には近づかない方がいい」
サエキは一度、言葉を切った。
「死骸を海へ戻す必要があるかもしれない」
「まだ何も確定していない」
「わかっている。だから、まずは追加の情報が必要だ」
通話を終え、サエキは海を見た。
遠くの海面は、何事もなかったかのように揺れていた。
海底には穴がある。
その穴には、黒い虫がいる。
そして、穴の縁には、あの死骸の腹部と似た溝が刻まれていた。
偶然という言葉で片づけるには、材料が揃いすぎていた。
漁師の男は、再び詰所にいた。
サエキが訪ねると、男は窓の外を見ていた。港では、豊漁の魚を運ぶ作業が続いている。
「海底で穴が見つかった」
サエキは椅子に座るなり言った。
「穴の中には、黒い虫のようなものがいた。数はわからない。機材が壊れるほどの衝撃もあった」
男は答えなかった。
「引き揚げられた生物は、あの穴の近くにいた可能性が高い。腹部の溝も、穴の縁にある溝と似ていた」
男の指が、膝の上で動いた。
「何か知っているな」
「知らない」
「では、なぜ震えている」
男は両手を握りしめた。
しばらく、沈黙が続いた。
やがて男は、絞り出すように言った。
「……あれは、俺が殺した」
サエキは黙っていた。
「禁止区域に入ったのは、魚が獲れると聞いたからだ。最近、あの辺りだけ妙に魚が集まるという話があった。立ち入りが禁止されているのは知っていたが、少しくらいなら問題ないと思った」
男は顔を伏せた。
「最初は、船の下に何かがいるような気がした。魚の群れとは違う。船の影に、でかいものがついてきていた」
「それが、あの生物だったのか」
「わからん。だが、海面近くまで上がってきた。船にぶつかってきた。俺は襲われていると思った」
「それで銛を使った?」
男はうなずいた。
「何度か突き刺した。あれが離れれば、それでよかった。だが、動かなくなった。船の横に浮かんできた。……俺は、あれを引き揚げた」
「死骸を見て、何か思わなかったか」
「何をだ」
「自分が殺したものが、何だったのか」
男は顔を上げた。
目は赤く、ひどく疲れていた。
「俺にはわからなかった。あんなものが何なのか、知るわけがない。海にいる怪物だと思った。俺を襲ってきたから、殺した。それだけだ」
「そのあと、魚が増えた」
「そうだ」
「家族が砂になった」
男の顔が歪んだ。
「やめろ」
「このふたつが関係している可能性がある」
「やめろと言っている!」
男が立ち上がった。
椅子が床を擦って、大きな音を立てた。
「俺が殺したから、家族がああなったとでも言うのか」
「まだ断定はできない」
「だったら、言うな!」
サエキは男を見た。
怒りの下に、恐怖があった。
自分が何をしたのか、男自身も理解し始めているのだろう。
「俺は家族を助けたいだけだ」
男は椅子に崩れるように座った。
「何でもいい。あいつらが戻るなら、何でもする」
サエキはすぐには答えなかった。
砂になった人間が戻るという話は、聞いたことがない。
この町の怪異が、どのような仕組みで人間を砂に変えているのかもわからない。
だが、海底の穴と黒い虫が関係しているなら、事態はさらに悪化する可能性があった。
「ひとつ確認したい」
サエキは言った。
「お前が銛を突き刺した場所は、腹部か」
男は、ゆっくりとうなずいた。
「溝のある場所だったか」
「……そうだ」
サエキは目を閉じた。
海の土竜は、底の穴を守る。
虫籠を開けば、千年の砂が這い出る。
黒き守り手を失えば、海は満ち、陸は砂となる。
伝承は、今回の事件を指していたのかもしれない。
だが、まだ決定的な証拠はない。
「調査を続ける。お前にも、もう一度話を聞くことがある」
サエキは立ち上がった。
「逃げるなよ」
男は答えなかった。
窓の向こうで、魚を積んだ箱が次々と運ばれていた。
男の家族が消えたあとも、海は豊かなままだった。




