第六章 黒い虫と虫籠
最初に異常が確認されたのは、町の診療施設だった。
海底調査に関わった作業員のひとりが、腕に奇妙な痒みを訴えた。皮膚には黒い点がいくつも浮かび、本人は虫に刺されたのだろうと話していた。
しかし、数時間後。
黒い点は皮膚の下で動き始めた。
医療関係者が確認したときには、すでに複数の小さな生物が傷口から這い出していた。
虫に似ていた。
極端に小さく、黒く、硬い外殻を持つ。顕微鏡で観察しても、既知の種とは一致しなかった。
生物の特定を待つ間にも、患者の容体は悪化した。
腕の一部が、砂のように崩れ始めた。
医療関係者は患者を隔離し、施設の一部を閉鎖した。だが、虫はどこから入り込んだのか、はっきりしなかった。
その日の夜、町の住宅地でも黒い虫が発見された。
玄関の隙間。
排水口。
庭の土。
人が見落としそうな場所から、黒い虫が次々と這い出してきた。
最初は、数匹だった。
やがて、壁の隅や床の継ぎ目に黒い筋が走り始めた。
虫が通った跡には、細かな砂が残った。
住民のひとりが、庭先で飼っていた犬の異変に気づいた。犬は吠えず、逃げようともせず、ただその場に座っていた。
近づいたときには、身体の一部が崩れ始めていた。
人間にも同じことが起きる。
それがわかるまで、時間はかからなかった。
町の一部で避難指示が出された。
住民たちは指定された施設へ移動し、警察と消防が道路を封鎖した。感染症なのか、生物災害なのか、怪異なのか。公式な分類は定まらないまま、対応だけが先行した。
政府の対策部門は、事態を広域災害として扱い始めた。
やがて、国の専門駆除部隊が現地へ派遣された。
黒い虫の捕獲と封じ込めを主目的とする部隊だった。詳細な編成や装備は公表されず、現地の対応は関係機関の管理下に置かれた。
サエキは、規制区域の外からその様子を見ていた。
作業員たちは防護服を着用し、虫が確認された建物をひとつずつ調べていた。回収された虫は密閉容器に収められ、施設へ運ばれていく。
それでも、完全に封じ込められているとは言い切れなかった。
虫は小さい。
隙間に入り込む。
そして、触れたものを砂に変える。
サエキは知人と合流した。
「これで収まると思うか」
知人が尋ねた。
「虫を駆除するだけなら、数の問題だろう。だが、発生源が海底にあるなら、地上でいくら駆除しても終わらない」
「海底の穴か」
「そこにいる虫が、どういう状態で閉じ込められていたのかが問題だ。死骸が引き揚げられたことで何かが変わった。それはほぼ間違いない」
「つまり、あの生物を戻せばいいと?」
「まだわからない。ただ、試す価値はある」
知人はしばらく考え込んだ。
「死骸を海へ戻すには、上の許可が必要だ。危険性がある以上、簡単には通らない」
「虫が広がるのを待つよりはましだと思うが」
「そうだな。こちらで調整する」
サエキは、封鎖された住宅地を見た。
家の窓は閉ざされ、道路には誰もいない。
少し前まで、普通の暮らしがあった場所だ。
そこに今、黒い虫がいる。
海の底から這い出したものが、陸へ上がってきている。
老人の言葉が、また頭をよぎった。
虫が出れば、砂になる。
サエキは知人へ向き直った。
「急いでくれ。あの穴を閉じない限り、駆除だけでは追いつかない」
死骸を海へ戻すという提案は、すぐには認められなかった。
死骸そのものが危険物である可能性があり、海底に戻すことで事態が悪化するおそれもある。調査資料だけでは、判断を下すには不十分だった。
サエキは知人を通じて、これまでの調査結果を整理した。
死骸の腹部に刻まれた溝。
海底の穴の縁にあった溝。
古い伝承に残る、海の土竜と虫籠の記述。
そして、死骸が引き揚げられた直後から始まった豊漁と、黒い虫の出現。
単独では証拠にならない。
しかし、複数の事象を時系列で並べると、ひとつの仮説が浮かび上がる。
あの生物は、海底の穴を封じる役割を持っていた。
腹部の溝は、穴の縁にある構造と対応している。
生物が穴を押さえ、あるいは塞ぐことで、内部にいる虫が外へ出るのを防いでいた。
漁師の男が生物を傷つけ、死骸が海から引き揚げられた。
その結果、封じ込めが失われた。
虫が動き始めた。
サエキは仮説を説明しながら、ひとつの点に触れた。
「魚が増えた理由も、同じ仕組みで説明できるかもしれない」
「どういう意味だ」
知人が尋ねた。
「穴の周辺に何かが溜まっていたのかもしれない。あるいは、あの生物が海底の生態系に何らかの影響を与えていた。守り手がいなくなったことで、その均衡が崩れた」
「それは推測だな」
「もちろん。魚が増えた理由までは、今の情報では断定できない」
サエキは資料を閉じた。
「ただ、あの生物が人間を襲うためにいたとは思えない」
「漁師の男は、襲われたと言っている」
「船に近づいてきたことと、襲う意図があったことは別だ。禁止区域に入り、穴の近くで漁をしていた。あの生物は、そこから遠ざけようとしていたのかもしれない」
「それを攻撃と誤認した?」
「可能性はある」
知人は黙った。
現場で起きたことを、すべて人間の尺度で解釈するのは危険だった。
見知らぬものが近づいてくる。
船が揺れる。
何かに襲われたと思い、銛を突き刺す。
漁師の男にとっては、身を守るための行動だったのだろう。
だが、相手が何をしていたのかは、別の問題だ。
サエキは古い記録をもう一度読み返した。
――黒き守り手を失えば、海は満ち、陸は砂となる。
伝承は、あまりにも簡潔だった。
警告だったのか。
戒めだったのか。
あるいは、過去に同じことが起きた記録なのか。
確かめる手段はない。
ただ、現在の状況は、記録にある言葉とよく似ていた。
「死骸を戻す許可が下りた」
知人が言った。
「ただし、海底調査の担当者と対策部門が立ち会う。作業中に異常があれば、すぐに中止する」
「わかった」
「本当に戻せると思うか」
サエキは少し考えた。
「戻してみなければわからない」
「ずいぶんと無責任な答えだな」
「確実な方法があるなら、最初からそうしている」
知人は苦笑した。
サエキは窓の外へ目を向けた。
沖合には、黒い雲が広がり始めていた。
海は、少しずつ色を変えていた。
作業は、翌日の早朝に行われた。
死骸は専用の固定具で船に積み込まれ、海底調査用の設備を使って、引き揚げ地点の近くまで運ばれることになった。
国の専門駆除部隊は、海上で確認された黒い虫の回収を続けていた。海底へ向かう作業班とは別に、港周辺の封じ込めも継続されている。
町の住民の多くは避難を続けていた。
道路は封鎖され、港には関係者以外の姿がない。
船が出港すると、サエキは固定具の状態を確認した。
死骸は黒い布に覆われ、腹部の溝だけが見えるようにしてあった。
海面は穏やかだった。
だが、海底の様子はわからない。
船が指定地点に到着すると、機材が降ろされた。
水中カメラの映像がモニターに映る。
穴は、前回と同じ場所にあった。
その縁には、黒い虫が集まっている。
前回よりも数が増えているように見えた。穴の内側から、絶え間なく何かが這い出してきている。
作業員が死骸をゆっくりと下降させた。
カメラの映像が揺れる。
黒い虫が、死骸に向かって動き始めた。
「停止しろ」
サエキが言った。
作業員が操作を止める。
虫は死骸の表面を這い、溝の内部へ入り込んでいった。
まるで、そこに戻る場所があると知っているようだった。
「続けてくれ。ゆっくりだ」
死骸が再び下降した。
腹部の溝が、穴の縁へ近づいていく。
わずかなずれがあった。
作業員が角度を調整する。
死骸が回転し、腹部の溝と穴の縁の溝が重なった。
その瞬間、映像に変化が起きた。
穴の周囲を覆っていた黒い虫が、一斉に動きを変えた。
それまで外へ向かって這い出していた虫たちが、穴の内側へ戻り始めた。縁に広がっていた黒い筋が、少しずつ細くなっていく。
誰も声を出さなかった。
死骸は、穴の上へ静かに収まっていた。
完全に密着しているのかはわからない。固定具を外せば、再びずれる可能性もある。
それでも、穴の周囲にあった異常な動きは、明らかに弱まっていた。
サエキはモニターから目を離さなかった。
「記録を続けてくれ。穴の周囲を確認したい」
カメラがゆっくりと移動する。
黒い虫は、穴の奥へ引き返していた。
穴の縁に残っていた虫も、ひとつ、またひとつと姿を消していく。
やがて、画面には海底の砂地が映るだけになった。
完全に消えたわけではない。
穴の内部は暗く、奥の様子は見えない。死骸が封じ込めを維持できるかどうかも、今の時点ではわからなかった。
しかし、異常な動きは確かに収まった。
船上で、誰かが小さく息を吐いた。
「成功したのか」
知人が尋ねた。
「今のところは」
サエキは答えた。
「これで終わったとは思わない方がいい」
知人はうなずいた。
船はしばらく現場に留まり、海底の映像を記録し続けた。
大きな変化はなかった。
海面へ戻ると、雲の隙間から日が差していた。
サエキは、港の方を見た。
あの町に、普通の生活が戻るかどうかはわからない。
海底の穴が再び開くこともあるかもしれない。
ただ、今は黒い虫の動きが止まっている。
それだけが、確かなことだった。
海底での作業を終えてから、黒い虫の出現数は徐々に減少した。
住宅地で確認されていた群れは小さくなり、封鎖区域の外へ広がる動きも弱まった。国の専門駆除部隊は回収と監視を継続し、残存する虫の処理にあたった。
すべてが解決したわけではなかった。
虫の生態はわからないままで、海底の穴が完全に閉じたかどうかも確認できない。専門家たちは、長期的な監視が必要だと判断した。
それでも、最悪の事態はひとまず遠のいたように見えた。
避難していた住民の一部には、帰宅が許可された。
砂になった人々が戻ることはなかった。
漁師の男は、港から離れた施設に収容されていた。黒い虫の影響を受けた身体は、時間とともに衰弱していた。
サエキが訪ねたとき、男はベッドに横たわっていた。
顔色は悪く、目を開けているのもつらそうだった。
「海底の穴は、ひとまず落ち着いた」
サエキは椅子に座って言った。
「黒い虫も減っている。町への拡大は止まりつつある」
男は、ゆっくりと顔を向けた。
「家族は」
サエキは答えなかった。
男も、返事を待っているわけではなかった。
「……そうか」
声はかすれていた。
「俺が、あれを殺さなければ」
男の目から、涙がこぼれた。
「俺が、あそこへ行かなければ」
「そうかもしれない」
サエキは言った。
慰めるために、嘘をつくつもりはなかった。
「だが、あの生物が何なのか、なぜ穴を守っていたのか。まだ、わからないことが多すぎる」
「俺が殺したんだ」
「そうだな」
男は目を閉じた。
サエキは、それ以上何も言わなかった。
数日後、漁師の男は死亡した。
公式には、原因不明の急激な衰弱によるものとされた。黒い虫との関連については、明確な結論が出なかった。
男の家族が残したものは、砂だけだった。
砂は保管され、調査されたが、通常の砂と明確に区別できる特徴は見つからなかった。人間の身体がどのような過程を経て砂状になったのか、再現することもできなかった。
町では、事件についての説明が始まった。
海底で発見された正体不明の生物。
その後に発生した異常現象。
未確認の微小生物による被害。
そして、封じ込め作業によって被害の拡大が抑えられたこと。
公式発表は、断定を避けた表現でまとめられた。
死骸と黒い虫の関係についても、確証は得られていない。
海底に何があったのか。
なぜ魚が増えたのか。
なぜ人間が砂になったのか。
明確な答えは出なかった。
サエキは、調査報告書をまとめた。
観測された事実と、確認できなかった事柄を分けて記載した。伝承については、参考資料として添付したものの、原因の説明には用いなかった。
怪異を怪異として報告することはできる。
だが、怪異という言葉は、理解できないものに名前をつけるだけの場合もある。
名前をつけたからといって、理解したことにはならない。
報告書の最後に、サエキは短い一文を加えた。
――海底の穴については、継続的な監視が必要である。現時点で、封じ込めが完全に維持されていると断定することはできない。
それ以上は書かなかった。




