終章 海は語らない
町を離れる朝、サエキは港へ立ち寄った。
規制線の一部は残っていたが、魚を運ぶ作業は再開されていた。以前ほどの豊漁ではないという。漁獲量は、少しずつ元の水準へ戻りつつあった。
海は静かだった。
あの黒い死骸が引き揚げられたことも、海底に穴があったことも、黒い虫が陸へ上がってきたことも、波は何ひとつ語らない。
サエキは、宿へ戻る途中で老人の家に寄った。
玄関の戸は閉じられていた。
呼びかけても返事はない。
近所の住民に尋ねると、老人は数日前から姿を見せていないという。
「どこかへ出かけたんでしょうか」
サエキが聞くと、住民は首を傾げた。
「さあねえ。あの人は、たまにふらっと出ていくことがあるから」
それ以上のことはわからなかった。
サエキは家の前を離れた。
老人がどこへ行ったのか、確かめる手段はない。
海へ向かったのかもしれない。
町を出たのかもしれない。
あるいは、誰にも知られず、どこかで倒れているのかもしれない。
どれも、可能性としては残っていた。
ただ、最後に聞いた言葉だけが、妙にはっきりと記憶に残っていた。
――帰りは、海の方へ行かん方がいい。潮が満ちるからね。
サエキは足を止め、遠くの海を見た。
潮は、満ちているようにも引いているようにも見えた。
その日のうちに、サエキは町を離れた。
帰路についた車の中で、知人から連絡が入った。
『例の老人だが、まだ見つかっていない』
サエキは短く返信した。
『捜索は続けるのか』
すぐに返事があった。
『一応な。ただ、事件との関係は確認できていない。自分で出ていった可能性もある』
サエキは端末を伏せた。
事件との関係は、確認できていない。
その言葉は正しい。
老人が海の土竜について知っていた理由も、百歳を超える住民が多い理由も、誰も一番にならない理由も、結局わからないままだった。
調べれば調べるほど、説明できることより、説明できないことの方が増えていく。
サエキは窓の外へ目を向けた。
町の姿は、もう見えなかった。
あの海の底には、まだ穴がある。
黒い死骸が、その穴を塞いでいる。
今もそうなのか。
明日もそうなのか。
確かめる方法は、限られていた。
海底の虫は、再び動き始めるかもしれない。
あるいは、二度と姿を現さないかもしれない。
どちらにしても、今回の件が終わったと断言できる者はいなかった。
サエキは調査記録を閉じた。
窓の向こうには、灰色の空が広がっていた。
海は、何も語らない。
ただ、底にあるものを隠し続けている。
それが災いなのか、守り手なのか。
人間には、まだわからない。
そして、わからないままにしておくべきものも、この世にはあるのかもしれなかった。
異聞始末録
海底より引き揚げられた異形の死骸と、その後に起きた一連の異常事象。
死骸の腹部に刻まれた溝は、海底の穴に残された構造と酷似していた。
黒い虫の出現は収束したが、封じ込めが完全に維持されている保証はない。
百歳を超える住民の多さと、誰ひとり国内最高齢者にならないという奇妙な記録。
老人の失踪も含め、今回の件には未解明の事柄が多すぎる。
記録者 サエキ
作者不明の記録書
海の土竜には決してふれるな。
魚が増えたなら、海を疑え。
潮が引いたなら、岸を離れよ。
潮が満ちたなら、戸を閉めよ。
齢百を超える者が消えても探してはならぬ。
そして、誰かが土竜の行方を尋ねたなら、知らぬと答えよ。
知っている者は、もうここにはいない。




