単章 地下の仕事人
その依頼は、正式な命令書もなければ、担当部署の名もなかった。
話を持ち込んできたのは、サエキが以前から付き合いのある有力政治家だった。
「少々、厄介なことが起きてね」
政治家はそう切り出した。
ある省庁の庁舎地下で、見慣れぬ怪異が出現したという。発見した職員の報告によれば、怪異は人間に敵意を示さず、むしろ仕事を手伝っているらしい。
問題は、その手伝い方だった。
滞留していた書類が次々と処理される一方、関係者の記録そのものが消失する事例が発生していた。処理済みの案件を確認しようにも、元の記録が見つからない。帳簿と実態が食い違い、誰が何を決裁したのかさえ分からなくなりつつあった。
「上の人間が、かなり困っている」
「怪異そのものより、発覚した後の説明にですか」
「話が早くて助かるよ」
政治家は否定しなかった。
異常事態が公になれば、管理責任が問われる。省庁の内部で起きた怪異となれば、なおさらだ。事態の収拾よりも先に、責任の押し付け合いが始まることは容易に想像できた。
政治家にとっても、この件を穏便に片付ければ、借りを作れる相手が増える。
サエキは事情を理解したうえで、依頼を引き受けた。
「記録が消えているなら、まずは現物を確認します。怪異に接触するのは、その後です」
「頼んだよ。できれば、何もなかったことにしてほしい」
「それは、記録を見てから判断します」
政治家は苦笑した。
サエキは、こういう依頼が嫌いだった。
しかし、誰も表立って動けない案件ほど、自分のような人間が必要になることも知っていた。
省庁の地下フロアは、夜になっても明かりがついていた。
地下フロアの一室には、職員が数人、疲れ切った顔で立っていた。机の上には未処理の書類が山積みになっている。だが、その中央だけが不自然なほど片付いていた。
そこにいたのは、巨大な猿の顔だった。
五メートルはあろうかという顔面に、四本の腕が直接生えている。胴体も脚もない。四本の腕はそれぞれ別の書類を扱い、紙をめくり、印を押し、端末を操作していた。
サエキが入室すると、巨大な顔がこちらを向いた。
「おや。お客さまですか?」
穏やかな声だった。
「私はシロウと申します。あなたは?」
「今回の件を調べに来た者だ」
サエキは名乗らなかった。
「そうですか。お仕事、ご苦労さまです」
シロウは気にした様子もなく、四本の腕のうち一本を軽く振った。残る三本は、変わらず書類を処理している。
「君が、ここで仕事をしている怪異か」
「はい。皆さま、お忙しそうでしたので」
「誰かに頼まれたのか」
「直接頼まれたわけではありません。職員の方が、書類の山を前にして『誰か、これを全部片付けてくれないものか』とおっしゃっていました」
「それを聞いて、手伝うことにした?」
「ええ。困っているようでしたから」
サエキは、シロウの表情を観察した。
猿に似た巨大な顔には、穏やかな笑みが浮かんでいる。人間に対する敵意は感じられない。だが、それをもって安全だと判断するつもりはなかった。
「どこから来た」
「さて。どこから、と言われると難しいですね」
「ここに来る前は何をしていた」
「特に何も」
「特に何も?」
「はい。何かをする必要がなかったので」
シロウは、当たり前のことを説明するように答えた。
サエキは追及を続けようとしたが、相手の返答から得られるものがあるかどうか、いったん考え直した。
質問に答えられないのか。答える必要を感じていないのか。それとも、人間の質問そのものが、シロウにとって意味を持たないのか。
今のところ、判断材料が足りなかった。
「……それで、何をしている」
「書類の処理です」
「見れば分かる。具体的に何をした」
「滞っていた案件を処理し、終わったものを整理しました。不要な記録も片付けています」
「不要な記録というのは?」
「処理が済んだ案件の記録です。もう必要ないと判断しましたので」
サエキの目が細くなった。
「記録を消したのか」
「はい」
シロウは悪びれなかった。
「処理が終わったのですから、残しておく理由がありません」
「君が必要ないと判断したのか」
「そうです」
「その判断は、誰かに確認したのか」
「いいえ。私のほうが早いですから」
シロウは、何か誇らしい成果を報告するように答えた。
サエキは、背後にいる職員へ視線を向けた。職員は顔色を失い、小さく頷いた。
やはり、記録の消失はこの怪異によるものらしい。
「記録が消えれば、処理が終わったかどうかも、誰が何を決めたかも確認できなくなる。記録に関わる問題が残っていれば、消したことで余計に厄介なことになる」
シロウは首を傾けた。
「ですが、記録が残っていても、問題が解決するわけではありませんよね?」
「そうだ」
「では、問題そのものを解決すればよいのでは?」
サエキはすぐには答えなかった。
この怪異は、単に命令を誤解しただけではない。人間が何をもって問題の解決とするのか、その前提が違っている可能性がある。
「書類を片付けることと、書類に書かれた問題を解決することは別だ。記録を消しても、記録に関わる人間や事情まで消えるわけじゃない」
「なるほど」
シロウはしばらく考えた。
四本の腕が、ほぼ同時に動きを止めた。
「では問題も私が解決しましょう!」
明るい声だった。
そのとき、四本の手のうち一本が、何気なく拳を握った。
それだけだった。
サエキは、言葉を失った。
何かが発動したわけではない。室内の空気が変わったわけでも、物が動いたわけでもなかった。
それでもサエキは、目の前の存在について、自分が何も知らなかったことを悟った。
この怪異は、書類を処理するために呼び出された便利な存在などではない。
自分が扱ってきた怪異の尺度で、測っていい相手ではなかった。
「待て」
サエキは、シロウが次の言葉を発するより先に口を挟んだ。
「君が解決する必要はない。これ以上、勝手な判断で何かをするな」
「そうですか?」
シロウは、握っていた手を開いた。
「私がやれば、もっと早く済むと思いますが」
「速さの問題じゃない」
サエキはシロウから目を離さずに答えた。
「君が善意でやったことでも、結果が正しいとは限らない。人間には人間の事情がある。そこまで君が決めるな」
「分かりました」
シロウは、あっさりと頷いた。
「では、どこまでならよろしいですか?」
その問いに、サエキは慎重に答えた。
相手の力は分からない。こちらの要求がどこまで通じるのかも分からない。だが、今は会話が成立している。ならば、その範囲を明確にするしかない。
「消した記録を戻せ。誤って処理した案件を一つずつ確認しろ。今後、記録を勝手に変更するな。職員にも、許可なく接触するな」
「承知しました」
シロウは笑顔で答えた。
「ほかにはありますか?」
「今はない」
「分かりました。では、始めます」
四本の腕が、再び動き出した。
サエキは警戒を解かなかった。
シロウが約束を守ることと、シロウが危険ではないことは、別の話だった。
一方のシロウは、サエキの警戒を特に気に留めていなかった。
それは彼にとって、わざわざ意識するほどのものではなかった。
サエキがどれほど慎重に言葉を選び、どれほど身構えていようと、シロウの態度は変わらない。警戒されていることを不快に思うことも、信頼を得ようと無理に振る舞うこともなかった。
ただ、頼まれたことを理解し、間違いを直そうとしていた。
その自然さこそが、サエキにはかえって不気味だった
数日後、サエキは依頼を持ち込んだ政治家と顔を合わせた。
「助かったよ」
それだけだった。
政治家は詳しい経緯を尋ねず、サエキも説明しなかった。
省庁の一件は、内部の事務処理上の不備として片付けられた。怪異の存在が公になることもなく、関係者の責任問題も表面化しなかった。
政治家にとっては、望んだとおりの結果だった。
サエキにとっても、これ以上関わる理由はなかった。
その夜、帰宅したサエキは、いつものように仕事の記録を残した。
公的な報告書ではない。
誰かに提出するためのものでもない。
自分が遭遇した異聞を忘れず、次に同じような事態に直面した際の判断材料とするための、個人的な記録だった。
入力を終え、保存した直後だった。
メールの受信音が鳴った。
差出人の表示を見て、サエキは眉を寄せた。
シロウ。
件名は、「採用に関するご案内」。
嫌な予感がした。
メールを開くと、丁寧な挨拶に続いて、シロウの考えが記されていた。
人間と異聞の間に立ち、双方の事情を理解できるサエキの能力は貴重である。今後、同様の問題が発生した場合、サエキには交渉と判断を担当してもらいたい。書類の整理や事務処理については、自分が四本の腕で引き受ける。
最後には、勤務条件についても相談したいと書かれていた。
サエキは、画面をしばらく眺めた。
「……人間が好きなのは結構だが、俺まで業務の一部にするな」
返信はしなかった。
メールを削除し、パソコンを終了させる。電源を切っただけでは気が済まず、電源ケーブルを抜いた。
そのうえで、端末に魔封じを施した。
人間の術としては、かなり強力なものだった。普通の怪異ならば、そう簡単に干渉することはできない。
サエキはそれを確認すると、ようやく満足した。
これで終わりだ。
少なくとも、シロウからの連絡は二度と来ないだろう。
サエキはそう考え、寝室へ向かった。
その判断が正しかったかどうかを、確かめる機会はなかった。
サエキが端末に魔封じを施した頃、シロウはそのことを知った。
離れた場所から、サエキの住まいに何かが施されたことを感じ取ったのである。
シロウは少し考えた。
「なるほど。私ではなく、ほかに何か困ったことがあるのですね」
サエキが自分を遠ざけるために施したものだとは考えなかった。
彼は、サエキが何らかの魔に悩まされているのだと解釈した。
人間は、時として助けを求めることが苦手である。サエキもまた、その一人なのだろう。
シロウは、サエキの施した魔封じを感じ取った。
人間の術としては強力だ。丁寧に組み上げられ、守ろうとする意志も明確だった。
しかし、シロウには頼りなく思えた。
「これでは、少し心もとないですね」
シロウは、四本の手のうち一本を、軽く動かした。
それで終わった。
サエキの家に何が加わったのか、シロウ自身も説明する必要を感じていなかった。
翌朝、サエキはいつもどおりに目を覚ました。
家に変わったところはない。魔封じもそのままだ。何かが増えた気配も、異常が起きた形跡もなかった。
ただ、それ以来、彼の住まいに害をなそうとするものは、なぜかそこへ辿り着けなくなった。
近づこうとすれば道を誤り、呪いを向けようとすればその意図がほどけ、侵入を試みた怪異は、いつしか別の場所へと去っていく。
それは結界というには静かすぎた。
守護というには、あまりにも自然だった。
サエキ本人も、周囲の人間も気づかなかった。
シロウにとっては、ただの気遣いだった。
「これで安心ですね」
そう呟き、シロウは別の仕事に取りかかった。
サエキが何を望んでいたかを、確かめようとはしなかった。
彼のためになると考えたことを、しただけだった。
対象:四手の大顔猿。自称「シロウ」。記録者 サエキ
省庁庁舎地下に出現。人間および日本社会に好意的。事務処理を代行していたが、処理と問題解決を混同し、関係者の記録を消失させた。
対話により記録改変の停止、消失記録の復元、誤処理案件の再確認について合意。悪意は認められず、当面の危険性は低いと判断する。ただし、対象の善意を安全性の根拠としてはならない。
対象が何気なく拳を握った際、説明困難な圧迫感を覚えた。明確な能力の発動は確認できず、力量の測定は不可能。神格級、あるいはそれ以上の可能性を否定できない。対象を刺激する行為は避けるべきである。
後日、対象より採用を勧める電子メールを受信。端末に魔封じを施し、対応を終了した。
平安時代・某家に伝わる覚書
その年、都に怪異あり。
夜の御所に、四手の大顔猿と呼ばれるもの現る。
それは猿のごとき大いなる顔に、四本の手のみを備え、胴も脚も持たぬものなり。されど宙に浮くでもなく、地を這うでもなく、いつの間にかそこに在り。人の目を欺くものか、そもそも人の目に映る道理を持たぬものか、それすら定かならず。
陰陽寮より選ばれし陰陽師、幾人も集いてこれを祓わんとす。祭壇を設け、方違えを行い、幾夜にもわたり呪を唱えしが、何ひとつ変わらず。
封じること叶わず。追い払うこと叶わず。まして、その正体を知る者なし。
されど、四手の大顔猿は人を害さず。
夜更けに廊を歩く女房に道を譲り、落ちた文を拾い、重き荷を持つ下男を見れば、頼まれもせずその荷を持つ。幼子が泣けば顔を傾け、何かを尋ねられれば、いかにも愉快そうに四本の手を動かして答えたという。
ある夜、老いた陰陽師がこれに問うた。
「おまえは何者である。いかなる術をもって、我らの法を退けるのか」
四手の大顔猿は、しばし考えたのち答えた。
「退けてなどおりません。皆さまが一生懸命になさっているので、邪魔をせぬようにしているだけです」
老陰陽師は、返す言葉を持たなかった。
それより後、陰陽師たちはこれを祓うことも、封ずることも試みなくなった。敵意なきものを敵と定める理由がなかったためか、あるいは、これ以上関わることを恐れたためか。それを記す者はいない。
やがて四手の大顔猿は、御所の者たちにとって珍しい隣人のような存在となった。
朝には庭先にあり、夜には廊の隅にあり。時には人の仕事を手伝い、時には誰も知らぬ場所で、誰も知らぬ何かをしている。
その姿を見ても、人々は騒がなくなった。
「今宵もおられるか」
そう声をかければ、四手の大顔猿は、いつもと変わらぬ笑みを浮かべ、四本の手のうち一本を挙げた。
それだけで、人々は安心したという。
なお、かのものが何を食し、どこに眠り、いずこより来たりしものか、知る者はついになかった。
また、御所に災いが迫った折、何度か不自然なほど事が収まったとの話も残るが、四手の大顔猿との関わりを示す記録はない。
ただ、ひとつ確かなことがある。
かのものが御所を去ったと記す記録は、どこにも存在しない。




