単章 例外を探す男
北の国の冬は、日が落ちるのが早い。
午後の五時を過ぎた頃には、街はすでに夜の底へ沈んでいた。石畳は昼間に降った雨を吸い、街灯の光を鈍く反射している。通りを行き交う人々は襟を立て、足早に家路を急いでいた。
その街の片隅に、小さなバーがあった。
観光客が訪れるような店ではない。看板の文字は半分剥がれ、窓際には古びた酒樽が置かれている。店内には琥珀色の照明が灯り、カウンターの奥では、年老いた店主が黙々とグラスを磨いていた。
サエキは、そのカウンターの隅に座っていた。
久しぶりに取れた休暇だった。
仕事の連絡は絶っている。鞄の中には読みかけの本が一冊と、帰りの切符があるだけだ。普段ならば見知らぬ土地で酒を飲むことなど滅多にしないが、今夜ばかりは、何も考えずに過ごすつもりだった。
注文した酒を傾け、窓の外を眺めていたときだった。
隣の席に、一人の男が腰を下ろした。
四十代の終わりか、五十代の初めだろう。仕立てのよい上着を着ているが、襟元はよれ、靴には乾ききらない泥がこびりついていた。髭は数日分伸びており、目の下には濃い隈がある。
男は店主に酒を注文すると、しばらく何もせず、カウンターの木目を見つめていた。
やがて、男が口を開いた。
「旅行ですか」
サエキは男へ視線を向けた。
「ええ。休暇で」
「いいですね。休暇ですか」
男は薄く笑った。
「私も、昔はよく旅行をしました。家族を連れて、海へ行ったり、山へ行ったり。子供たちが小さかった頃は、毎年どこかへ出かけていたものです」
男は運ばれてきた酒を一口飲んだ。
「今では、もう何年も行っていませんが」
「お忙しいので?」
「いいえ」
男は首を振った。
「怖くなったんです」
サエキは返事をしなかった。
男は酒を見つめたまま、独り言のように続けた。
「どこへ行っても、あの場所を思い出すんです。山へ行けば、山の奥にあの場所がある気がする。地下へ降りれば、その先にあの場所がある気がする。夜、目を閉じれば、そこへ戻ってしまう」
男の指が、グラスの縁をなぞった。
「私は、地獄を見たんです」
店主が、奥で磨いていたグラスを置いた。
ほんの一瞬、店内が静かになったように感じられた。
男は気に留める様子もなく、サエキの顔を見た。
「信じますか?」
「話を聞いてみなければ、何とも」
「そうでしょうね」
男は苦笑した。
「私だって、誰かにそんなことを言われたら信じません。頭がおかしくなったのだと思うでしょう。酒か薬のせいだと考えるかもしれない」
男はグラスを傾けた。
「ですが、あれは本物でした」
サエキは黙っていた。
男の話し方には、酔っぱらい特有の大げさな調子がなかった。自分を信じさせようとする熱意もない。ただ、長い間、誰にも話せなかったことを、たまたま隣に座った人間へ吐き出している。そんな口ぶりだった。
「二年前のことです。私は仕事で、ある山村を訪れていました。古い教会の修復に関する仕事でね。建物の調査をしていたとき、地下へ続く階段を見つけたんです」
男は額に手を当てた。
「地図にはありませんでした。教会の記録にもない。石段は古く、壁には文字のようなものが刻まれていた。好奇心から、私は一人で降りていきました」
「その先に、何が?」
「扉がありました」
男は答えた。
「鉄でできた、大きな扉です。押しても引いても動かない。ところが、私が手を触れた途端、勝手に開いたんです」
男の声がわずかに震えた。
「向こう側には、空がありました」
地下に空がある。
その矛盾を口にした男自身も、いまだに理解できていないようだった。
「赤黒い空でした。太陽も月もないのに、地面だけは見える。どこまでも続く荒野で、遠くには山のようなものがそびえていました。そして、人がいたんです」
男は息を継いだ。
「いや、人と呼んでいいのかもわからない。人間の形をしているのに、人間ではない。地面を這い、互いに争い、何かから逃げようとしている。誰も逃げられない。逃げても逃げても、同じ場所へ戻ってくるんです」
男は目を閉じた。
「焼かれている者がいました。身体を裂かれている者もいた。首のない者が歩いている。遠くから、誰かが助けを求めて叫んでいました。私は、その声を知っていたんです」
サエキはグラスを置いた。
「知っていた?」
「亡くなった母の声でした」
男は答えた。
「母は私が二十歳のときに亡くなりました。もう三十年近く前のことです。それなのに、あの場所で私を呼んでいた。母だけではありません。子供の頃に死んだ友人も、顔も覚えていない親戚もいた。みんな、私に助けを求めていたんです」
男の呼吸が浅くなった。
「そして、もっと奥に、妻がいました」
サエキは何も言わなかった。
「妻はまだ生きています。今も家で私の帰りを待っているはずです。ですが、あそこにいたんです。私を見つけて、手を伸ばしていました。私は妻の名前を呼びました。助けようと走ったんです」
男はグラスを握り締めた。
「その瞬間、後ろから誰かに肩をつかまれました。振り返ると、顔のない男が立っていた。そいつは私に言ったんです」
男はしばらく言葉を失った。
「『お前の席は、もう用意されている』と」
店主が、男のグラスへ酒を注いだ。
男は礼も言わず、酒を一気に飲み干した。
「気がついたとき、私は教会の地下で倒れていました。扉は消えていた。壁も階段も、最初から何もなかったかのようになっていたんです」
「それから?」
「調べました。教会の古文書も、村の記録も、古い宗教書も。何か手がかりがないかと思って」
男は乾いた笑いを漏らした。
「そして、見つけてしまったんです」
男はサエキへ向き直った。
「生きているうちに地獄を見た者は、死後、必ず地獄へ落ちる」
その言葉を口にしたとき、男の顔には奇妙な安堵が浮かんでいた。
恐ろしい事実を語っているはずなのに、ようやく誰かに打ち明けられたことが、嬉しくてたまらない。そんな顔だった。
「最初は迷信だと思いました。ですが、似た記録がいくつもあった。国も時代も違うのに、どれも同じことを書いている。地獄を見た者は、どれほど善良に生きようと、どれほど神に祈ろうと、必ず地獄へ落ちると」
「それで、どうするおつもりですか」
サエキが尋ねた。
男は待っていたように身を乗り出した。
「探すんです」
「何を?」
「天国へ行く方法です」
男の目に、初めて強い光が宿った。
「天国があるのなら、そこへ行く方法もあるはずです。教会にも行きました。神父にも相談しました。古い修道院を訪ね、各地の図書館で文献を調べました。今度は東へ行くつもりです。古い宗教には、こちらでは知られていない教えが残っているかもしれない」
男は指を折りながら話した。
「必要なら、財産をすべて売ります。家も、土地も、株も、何もかもです。残された時間をすべて使って、世界中を回るつもりです。奇跡を起こす聖人でも、禁じられた儀式でも、天国への道を知っている者がいるのなら、いくら払ってでも会いに行く」
「ご家族は?」
「妻には、まだ何も話していません」
男は目を伏せた。
「子供たちもいます。二人とも独立しました。孫だっている。私は、あの子たちに地獄の話などしたくないんです。私が見たものを、あの子たちにまで背負わせたくない」
男は一度、唇を噛んだ。
「私一人で済むのなら、それでいい。私が何かを間違えたのなら、償えばいい。ですが、私は何も悪いことをしていないんです。人を殺したことも、誰かを騙したこともない。もちろん、立派な人間だったとは言いません。過ちだってあったでしょう。それでも……」
男の声が詰まった。
「それでも、こんな仕打ちを受けなければならない理由が、どこにあるんですか」
サエキは答えなかった。
男はサエキの沈黙を、同情と受け取ったのかもしれない。
「すみません。初対面の方に、こんな話を」
「いえ」
サエキはグラスの残りを飲んだ。
「ただ、ひとつお聞きしたいことがあります」
「何でしょう」
「あなたが見た地獄には、門がありましたか」
男の顔から、わずかに表情が消えた。
「……ありました。鉄の門です。どうして、それを?」
「その門を開けたのは、あなた自身ですか」
「そうです。手を触れたら、勝手に開いたんです」
サエキは小さく息を吐いた。
「なるほど」
男は不安げにサエキを見た。
「何か、ご存じなのですか」
「ええ」
サエキは店主に目配せし、空になったグラスへ酒を頼んだ。
「あなたの話が事実であるなら、天国への道を探すのはおやめになったほうがいい」
男は瞬きをした。
「……どういう意味です?」
「言葉どおりです。無駄ですから」
しばらく、男はサエキの顔を見つめていた。
「あなたは、私の話を信じるのですか」
「信じるも何も、あなたが地獄を見たというのであれば、そうなのでしょう」
「ならば、なぜ無駄だと?」
サエキは運ばれてきた酒を受け取った。
「地獄を見た者は、死後、必ず地獄へ行きます」
男の表情が固まった。
サエキは続けた。
「祈っても、金を積んでも、善行を重ねても、結果は変わりません。天国へ行く方法を探すこと自体は自由ですが、それであなたの行き先が変わることはないでしょう」
「……あなたは、何を根拠にそんなことを」
「知っているからです」
「何を知っているというのですか」
「地獄を見た者の行く末を」
サエキは、男の目をまっすぐに見た。
「例外はありません」
男は何も言わなかった。
店の奥で、古い時計が時を刻んでいた。外では車が通り過ぎ、濡れた路面をタイヤが擦る音がした。
やがて男は、小さく笑った。
「あなたは、神父か何かですか」
「いいえ」
「研究者?」
「違います」
「なら、どうしてそんなことが言えるんです」
「そういうものを扱う仕事をしています」
サエキはそれ以上説明しなかった。
男は彼の顔を見ていたが、やがて視線を落とした。
「そうですか」
その声には、先ほどまでの勢いがなかった。
「では、私はどうすればいいのでしょう」
サエキは答えた。
「どうもしなくていいのではありませんか」
男は顔を上げた。
「……何ですって?」
「あなたはまだ生きています。家族もいる。仕事も、やり残したこともあるのでしょう。地獄へ行くのが確定しているからといって、今すぐ何かをする必要はありません」
「あなたは、私に諦めろと言うのですか」
「諦めるかどうかは、あなたが決めることです」
サエキは酒を一口飲んだ。
「ただ、私なら残された時間を、行くことのできない場所を探すためには使いません」
男の顔が歪んだ。
「あなたには、わからないでしょう」
「そうかもしれません」
サエキは否定しなかった。
「あなたは地獄を見た。私はあなたではない。その恐怖を、同じように理解できるとは思っていません」
男は拳を握った。
「私は、まだ死んでいないんです」
「ええ」
「まだ、何も終わっていない」
「そのとおりです」
「だったら、可能性はあるでしょう」
サエキは黙って男を見た。
男は、自分に言い聞かせるように続けた。
「世界中を探せば、何かあるはずです。人間が知らないことなど、いくらでもある。あなたが知っていることが、すべてだとは限らない」
「もちろん」
サエキは静かに答えた。
「私が知らないことも、世の中にはあるでしょう」
男の表情が、わずかに明るくなった。
だが、サエキはその先を続けた。
「しかし、地獄を見た者が地獄へ行くということに関しては、私は疑っていません」
男の顔から、再び光が消えた。
「……そうですか」
彼はゆっくりとグラスを持ち上げたが、飲まずに戻した。
「そうですか」
二度目の言葉は、誰に向けたものでもなかった。
しばらくして、男は懐から財布を取り出した。会計を済ませ、上着を羽織る。
「話を聞いてくださって、ありがとうございました」
「いえ」
男は立ち上がった。
「あなたのおっしゃることが正しいのかどうか、私にはわかりません。ですが、私は探します。最後まで」
サエキは頷いた。
「そうなさるといいでしょう」
男は一瞬、何かを言いかけた。
結局、何も言わずに背を向けた。
扉が開き、冷たい風が店内へ流れ込む。
男の姿が夜の街へ消えると、バーには再び静寂が戻った。
店主がカウンターを拭きながら尋ねた。
「知り合いかい?」
「いいえ」
「ずいぶん深刻な話をしていたようだが」
「ええ。少し」
サエキは窓の外を見た。
男はもう見えなかった。
彼はこれから、教会を訪ねるのだろう。古文書を探し、聖職者に頭を下げ、財産を手放し、世界中を歩き回るのかもしれない。
何年も、何十年も。
その努力が、彼自身の心を支えることはあるだろう。彼の家族を幸せにすることもあるかもしれない。
しかし、死後の行き先だけは変わらない。
サエキはそれを知っていた。
だから、止めなかった。
残酷なことをしたとは思わない。希望を持つ人間から希望を奪うことが、必ずしも親切だとは限らないからだ。
それに、彼が何をしようと、結末は同じだった。
「もう一杯、いただけますか」
サエキは店主にグラスを差し出した。
今夜は休暇なのだ。
仕事のことは、明日まで忘れていたかった。
男は、それから二十七年生きた。
家を売り、財産の大半を使い、各地の宗教施設や古い修道院を訪ねた。天国への道を知るという人物がいれば、どれほど遠い土地であろうと会いに行った。
妻は最後まで夫を案じていたが、男が何を探しているのかを知ることはなかった。
子供たちは、父が晩年に奇妙な執着を抱いたことを覚えている。
男は最期まで、何かを見つけようとしていた。
死の床で、彼は妻の手を握り、何度も謝った。
「すまない。まだ、見つけられなかった」
妻は涙を浮かべながら、首を横に振った。
「もういいのよ。あなたは十分に頑張ったわ」
男は、かすかに微笑んだ。
「そうか……」
そして、息を引き取った。
男が次に目を開けたとき、そこには赤黒い空が広がっていた。
風は吹いていない。それでも、遠くから無数の叫び声が聞こえてくる。
男は立ち上がった。
目の前には、見覚えのある荒野があった。
二十七年前、確かに見た場所だった。
男は膝をついた。
長い年月をかけて探したものは、どこにもなかった。
天国への道も、奇跡も、救済も。
ただ、あの日見た地獄だけが、変わらずそこにあった。
「……そんな」
男は呟いた。
「そんなはずはない」
彼は立ち上がり、歩き始めた。
誰かがいるはずだった。自分を救ってくれる者が、どこかにいるはずだった。
だが、どれほど歩いても、荒野は終わらなかった。
やがて、男の前に鉄の門が現れた。
その前に、顔のない男が立っていた。
二十七年前、地獄で見たものと同じ姿だった。
顔のない男は、ゆっくりと腕を上げた。
「お前の席は、もう用意されている」
男は、その場に崩れ落ちた。
彼は生涯、悪人ではなかった。
誰かを救おうとし、家族を愛し、最後まで諦めずに生きた。
それでも、地獄へ落ちた。
男が地獄を見たのは、罰を受けるためではなかった。
そこから逃げるためでもなかった。
ただ、自分がどこへ行くのかを、誰よりも早く知るためだった。
そして、男が生涯をかけて探し続けた天国は、最後まで彼の前に現れることはなかった。
少し古い異聞始末録
記録者 サエキ
地獄を生者の身で見た者は、死後、必ず地獄へ落ちる。
善行、信仰、財貨をもってしても、この定めを覆すことはできない。
結果が全てではない、過程は大事ではない。
追記
かつて一人の男が、その例外を探して生涯を費やした。
結果が全てだと考えたのか、過程が大事だと考えたのか。
彼が最後に何を見たのか、私が知る由もない。
ただ、彼の行き先についてだけは、最初から疑う余地がない。
清廉な汚濁と呼ばれていた賢者の手記
絶対的で徹底的な潔癖へ向かうか、無秩序という秩序へ向かうか、その2択しか人間はないと思い込んでいる。
広がっている光景も、そこにいる連中も、なにもかもが異なる2つだか、たった1つだけ同じことがある。
支配するものは絶対的で唯一無二である。




