第一章 捜索依頼
一 依頼
依頼が届いたのは、日付が変わる少し前だった。
差出人は、大手漫画出版社の編集長。サエキとは、これまでに何度か仕事をしたことがある。怪異に関する取材の補助や、通常の手段では解決しにくい事件の処理。互いの専門を尊重し、必要な情報と報酬を交換する。それだけの関係だ。
添付された写真には、山あいの集落が写っていた。
古い木造家屋。崩れかけた石垣。山の斜面にへばりつくように建つ、小さな社。
そして、写真の隅に、鹿の頭骨を模した面があった。
左右の角の形が違う。片方は枝分かれし、もう片方は異様に長く伸びている。口元には、片側だけが持ち上がった笑みが描かれていた。
「これ、何だと思う?」
サエキは編集長に電話をかけた。
『まだ断定できないわ。うちと仕事をしていた記者が行方不明になった場所よ』
「記者?」
『フリーの記者。以前から怪談や地方の民間信仰を調べていて、今回は大鹿の化け物の伝承を取材していた。最後に連絡があったのが、この村の近く』
「警察には?」
『届けは出してある。ただ、村に入った形跡があるのに、その先の足取りが途切れている。現地で何を見たのか、何が起きたのかも分からない』
「取材の記録は?」
『編集部に送られてきたのは、出発前の企画書と、途中で届いた短い報告だけ。本人が現地で何を調べたのかは、ほとんど分からないわ』
編集長の声は落ち着いていた。焦っていないわけではないだろう。だが、焦りを言葉にしても状況は好転しないと分かっている声だった。
「俺に頼むってことは、失踪だけじゃないんだな」
『ええ。取材先の伝承に、少し気になるところがあるの。普通の失踪事件として扱うだけでは、見落とすものがありそうで』
「分かった。現地を見てくる」
『費用はいつもの条件で。調査中に追加で必要なものがあれば連絡して』
「そっちも資料を洗ってくれ。古い新聞、地誌、失踪者の記録。村と大鹿の伝承がどこでつながってるか知りたい」
『了解。分かったことから送るわ』
「助かる」
『無事に戻ってきたら、報酬の話もしましょう』
「それは仕事を片付けてからだな」
『ええ。……仕事の話だけで終わらせるつもりもないけど』
サエキは、机に置いた銃を点検しながら一瞬だけ手を止めた。
「そっちは仕事が終わってから考える」
『あら、飽きたのかしら?』
「そうじゃない、優先順位の話だ」
『はいはい。じゃあ、ちゃんと戻ってきて。話の続きができるように』
通話が切れる直前、編集長の小さな笑い声が聞こえた。
サエキは携帯電話を伏せた。
彼女とは、これまで何度か仕事をしている。互いの能力を認めているし、仕事の外で食事をしたこともある。
ただ、仕事の最中に考えることではない。
机の上の拳銃を手に取る。
新調したばかりの銃だった。
怪異用の弾薬を使えるように調整された特注品で、通常の銃より頑丈に作られている。だが、特殊な力が宿っているわけではない。怪異に対して使える弾を撃つための道具であり、壊れれば使えなくなる。
同じ仕様のものは再び用意できる。ただ、簡単に店へ行って買ってくるような代物でもない。
サエキは弾倉と機関部を確かめ、必要な弾薬を用意した。ほかに閃光手榴弾、拘束用のワイヤー、古い鉄杭、紙に描かれた術式、封じの儀式に使われたという鉄片。それらをひとつずつ確かめ、鞄へ収めていく。
準備を終えると、彼は地図に目を落とした。
村は山の奥にある。途中までは車で行けるが、最後は徒歩になる。
面倒な場所だ。
サエキはそう考えながら、夜明け前に出発した。
村へ続く道は、途中から舗装が途切れていた。
車を置き、荷物を背負って歩く。山の斜面には杉が密集し、枝葉が空を覆っていた。日が昇っているはずなのに、地面には薄暗さが残っている。
サエキは歩きながら、周囲の様子を観察した。
新しいタイヤの跡。踏み固められた路肩。道端に捨てられた空き缶。人の出入りが完全に途絶えた場所ではない。
それなのに、途中から妙な違和感があった。
道の両側にある木々の間隔が、実際よりも狭く感じられる。少し先に見える曲がり角が、何度歩いても近づいてこないような錯覚もあった。
サエキは立ち止まった。
音ではない。
何かがいる。
山の静けさとは違う。周囲の空間そのものに、こちらを意識する何かが混じっている。
サエキは銃に手を添え、ゆっくりと周囲を見回した。
木々の向こうに、何かが立っていた。
最初は枯れ木かと思った。だが、そこには関節があり、胴があり、長い腕が垂れていた。
鹿の頭を持つ、人型の何か。
体躯は人間よりも大きい。脚は異様に長く、肩から伸びた腕は膝のあたりまで届いている。頭部には左右非対称の角が生え、片方の角だけが天へ向かって伸びていた。
顔の細部はよく見えない。
ただ、口元だけははっきりと分かった。
片側の口角が、上がっている。
笑っているのだ。
サエキは銃を抜いた。
怪物は動かなかった。
だが、見つめているだけで距離感が狂う。実際には数十メートル先にいるはずなのに、手を伸ばせば届きそうにも見えた。
視覚を信用するな。
サエキは足元の小石を蹴った。石は地面を転がり、怪物のいる方向へ進んでいく。途中で石が消えたように見えたが、少し遅れて、さらに先の地面で跳ねた。
距離の感覚を狂わせている。
そう判断した直後、怪物の姿が消えた。
サエキは身を横へ投げ出した。
次の瞬間、さっきまで立っていた場所の木が、幹の途中からへし折れた。
怪物がいた。
いつの間にか、すぐ目の前に。
サエキは銃を構え、胴体へ向けて数発撃った。
弾丸が肉を裂く。怪物の体がわずかに傾いた。効いていないわけではない。だが、倒れる気配もない。
怪物の腕が振り下ろされた。
サエキは後退しながら木の陰へ飛び込んだ。枝が折れ、幹に深い傷が刻まれる。
相手の動きは速い。だが、完全に無制限ではない。攻撃の直前には肩が動き、長い腕が軌道を描く。その一瞬を見極めれば、避けられる。
サエキは閃光手榴弾を投げた。
白い光が森を満たした。
怪物の動きが止まる。少なくとも、数秒は感覚を乱せたらしい。
サエキはその隙に角度を変え、銃を構え直した。
怪物の頭が、光の残る森の中で揺れた。
サエキは目を狙って数発撃った。
弾丸が顔面に食い込む。怪物の頭が大きく跳ね、黒いものが飛び散った。片目が潰れたのだ。
さらに踏み込む。怪物の長い角が、彼の頭上を薙いだ。
サエキはその懐へ潜り込み、銃床を使って角の付け根を打ち据えた。続けて、近くにあった倒木へ怪物の頭を誘導する。巨体が体勢を崩し、角が幹に引っかかった。
鈍い音がした。
片方の角が折れ、地面へ落ちた。
怪物の口元から、初めて笑みが消えたように見えた。
次の瞬間、怪物はサエキへ腕を振り抜いた。
サエキは避けた。だが、腕の先が銃を握った手にかすった。
銃が手から弾き飛ばされ、石に叩きつけられた。
乾いた金属音。
サエキは一瞬だけ、地面を滑る銃へ視線を向けた。
フレームに亀裂が走っていた。銃身も歪んでいる。新調したばかりの、まだ手に馴染みきっていない銃だった。
――替えは利く。利くがな。買ったばかりだぞ、ふざけるな。
値段を惜しむ気持ちよりも、使い始めたばかりの道具を乱暴に壊されたことへの苛立ちが先に立った。
もっとも、怪物に文句を言っても仕方がない。
サエキは銃を拾うのを諦め、腰の道具袋から鉄杭を抜いた。
怪物は片目を潰され、角の片方も失っている。それでも動きは止まらない。むしろ、先ほどまでの余裕が崩れ、こちらを測るような静けさが消えていた。
怪物は後退した。
逃げるのか。
サエキは追わなかった。銃を失い、相手の能力もまだ分かりきっていない。無理に追えば、こちらが地形の分からない森の奥へ誘い込まれる。
怪物は木々の間へ滑り込むように消えた。
音はなかった。
残ったのは、折れた角と、潰れた目から滴る黒い液体。そして、歪んだ銃だった。
サエキは銃を拾い上げた。修理は難しそうだ。
「……はぁ」
ため息をついて、銃をホルダーに収めた。
怪物を倒したわけではない。
傷を負わせ、追い払っただけだ。
次に会うときは、もっと確実に仕留める必要がある。




