第ニ章 村の信仰
村は、山の斜面に沿って広がっていた。
家屋は古く、空き家も目立つ。畑の多くは荒れ、道端の草は伸び放題だった。人影は少ないが、完全に無人というわけでもない。
サエキが村へ入ると、数人の住民が遠巻きにこちらを見た。
誰も声をかけてこない。
敵意というより、何かを恐れているような目だった。
サエキは一軒の商店へ入り、店番をしていた老人に声をかけた。
「この辺で、人がいなくなることはあるか?」
老人の顔がこわばった。
「……何の話だ」
「大鹿の化け物を取材していた記者が行方不明になってる。ここに来た記録がある」
「知らん」
「そうか」
サエキはそれ以上追及せず、店を出た。
拒絶されること自体は珍しくない。だが、老人の反応は、知らない人間の失踪を聞いたときのものではなかった。何かを知っている。少なくとも、話題に触れたくない理由がある。
サエキは村を歩きながら、社へ向かった。
社の周囲には、鹿の角を模した木彫りがいくつも並べられていた。古いものもあれば、最近作られたようなものもある。正面の柱には、色あせた紙が貼られていた。
そこに書かれていたのは、かすれた文字で記された祭文だった。
大鹿を鎮めよ。
山の主を怒らせるな。
笑うものに、背を向けるな。
最後の一文だけが、妙に新しい墨で書き直されていた。
サエキは写真を撮り、編集長へ送った。
ほどなくして返信が来た。
『その祭文、こちらで確認できる古い資料には出てこないわ。少なくとも、一般的な鹿信仰とは違う』
「村の連中は、怪物を神として祀ってるのか?」
『その可能性は高い。明治期の地誌に、この集落の祭礼らしい記述がある。ただ、内容は伏せられている。戦後の記録では祭り自体がほとんど確認できなくなってる』
「人が減ったからか」
『かもしれない。もう少し調べるわ』
サエキは社の裏手へ回った。
そこには、古びた小屋があった。扉には錠がかかっていたが、木材は腐り、隙間から中をのぞくことができた。
小屋の中には、古い祭具や木箱が積まれていた。その奥に、複数の人間が使っていたと思われる衣服や鞄があった。
旅行用のバックパック。海外の空港で貼られたタグ。日本語ではない文字の書かれたノート。
そして、行方不明の記者が取材に使っていたと思われる録音機と手帳があった。
サエキは手帳を開いた。
――村人は大鹿を神と呼ぶ。
――供物は山に捨てるらしい。
――誰が決めたのか、誰も知らない。
――祭りの日、村人は社の前で頭を下げる。全員が、同じ方向を向いている。
記録はそこで途切れていた。
調査を始めて間もなく、記者は姿を消したのだろう。手帳から怪物の正体や祭祀の全容を読み取ることはできなかった。
サエキは携帯電話を取り出した。
「見つけた。記者の荷物がある。ほかにも旅行者の荷物が複数」
『本人は?』
「まだだ。荷物がここにあるってことは、少なくともこの小屋か周辺に連れてこられた可能性がある」
『分かった。過去の失踪者をもう一度洗い直す。地元紙だけでなく、県外の新聞も調べるわ』
「頼む」
サエキは小屋を出た。
背後で足音がした。
振り返ると、村人が三人立っていた。先ほど商店にいた老人もいる。
「そこは、村の大切な場所だ」
老人が言った。
「大切な場所に、行方不明者の荷物を置くのか?」
「お前には関係ない」
「俺の依頼人が消えてる。関係はある」
老人は口を閉ざした。
サエキは彼らの顔を見た。怒っている者はいない。怯えている。何かを知られることを恐れている。
「山に人を捨ててるのか?」
誰も答えなかった。
「怪物への供物か」
その言葉を聞いた瞬間、老人の顔から血の気が引いた。
それで十分だった。
サエキは村人を一人ずつ訪ね、話を聞いた。
最初は誰も何も知らないと言い張った。だが、村の外から来た人間が行方不明になっていること、複数の荷物が小屋に残されていること、祭文の記録が残っていることを順に示すと、少しずつ言葉が漏れ始めた。
昔は、山へ入った旅人を供物にしていた。
村が孤立し、旅人が来なくなると、供物は村の中から選ばれるようになった。かつては子供が捧げられたという話もあったが、人口が減り、若い者も子供もほとんどいなくなった。
やがて、村人は周辺地域から訪れる観光客を山へ連れ込むようになった。
失踪者の多くが外国人観光客として報道されていたのは、偶然ではなかった。彼らは、外から来た人間ならば村とのつながりが疑われにくいと考えていたのだ。
「何のために、そんなことを続けてる?」
サエキが尋ねると、村人たちは互いの顔を見合わせた。
「山の主を怒らせないためだ」
「怒らせたら、何が起きる?」
「……分からん」
「分からないのに、人を捧げるのか」
「昔から、そうしてきたんだ」
若い男が言った。
サエキは男を見た。
「それだけか」
「そうしろと言われてきた。やめたら何が起きるか、誰にも分からない」
サエキは息を吐いた。
信仰の起源を知る者はいない。供物を捧げることで何かが得られたという記憶もない。豊作になったわけでも、病が治ったわけでもない。
ただ、続けてきた。
やめるのが怖いから。
自分が供物になるのが怖いから。
だから、ほかの誰かを差し出してきた。
編集長から新たな連絡が届いたのは、その日の夕方だった。
『古い新聞記事をいくつか見つけた。過去二十年ほどで、周辺地域から複数の人が行方不明になってる。外国人観光客として報道された人が多いけど、国籍も年齢もばらばらね』
「この村との関係は?」
『直接の証拠はない。ただ、失踪前にこの山へ向かった可能性がある人が何人かいる。宿泊記録や交通機関の利用履歴を照合したの。偶然で片付けるには重なりすぎてる』
「祭りについては?」
『村の人口は、昔に比べて大幅に減っている。子供もほとんどいない。祭礼の記録も途絶えているわ。ただ、記録が途絶えたからといって、実際に祭りをやめたとは限らない』
「供物が足りなくなった、ということか」
『その可能性はある。でも、記者の手帳には「誰が決めたのか、誰も知らない」とある。信仰の起源を知っている人間は、もういないのかもしれない』
サエキは、記者の手帳を見下ろした。
「人間ってのは、理由を忘れても続けるんだな」
『続けること自体が目的になってしまうことはあるでしょうね』
「そのために人をさらうのか」
『彼らにとっては、やめることのほうが恐ろしいのかもしれない』
「恐ろしいから他人を殺していい、という話にはならない」
『ええ。そこは別の話よ』
サエキは電話を切った。
調査によって分かったのは、村人が人間を供物として差し出していたこと。そして、その理由を誰も理解していないことだった。
だが、大鹿の怪物については、まだ分からないことが多い。
なぜ人間の感覚を狂わせるのか。なぜ片側だけ笑うのか。なぜ村人は、あれを山の主と呼ぶのか。
サエキは、最初の戦闘で折った角を思い出した。
あの怪物は傷を負った。それでも逃げた。
逃げたということは、次に会うときも同じように戦えるとは限らない。
今度は逃がさない。




