第三章 鹿は笑う
村の奥には、石垣で囲まれた小さな広場があった。
中央には古い祭壇があり、その周囲には人を縛るために使われたらしい金具が埋め込まれていた。地面には何度も掘り返された跡がある。
サエキは周囲を調べ、祭壇の裏側に狭い地下室へ続く入口を見つけた。
中には、行方不明になった記者がいた。
両手を縛られ、壁際に座り込んでいる。意識はあるが、顔色は悪かった。
「立てるか?」
サエキが縄を切ると、記者は何度か咳き込んだ。
「……あなたは?」
「迎えに来た。歩けるなら、ここを出る」
「村の人たちは……」
「あとで聞く。今は歩け」
記者はふらつきながらも立ち上がった。
地下室には、ほかにも古い衣服や骨のようなものが残されていた。人骨かどうかは、ここでは断定できない。だが、祭壇の金具と周囲の痕跡を見れば、何が行われていたのかは想像できた。
サエキは記者を連れて地上へ戻った。
広場には、村人たちが集まっていた。
その数は二十人ほど。
老人が一歩前へ出た。
「その者を連れていくな」
「理由を聞こうか」
「山の主が怒る」
「それで人をさらって捧げてきたのか?」
「そうしなければ、村が滅びる」
「今まで捧げた人間で、村が栄えたのか?」
老人は答えなかった。
「病気が治ったか。作物が増えたか。山崩れが止まったか。何か一つでも、供物を捧げたことで得たものがあるのか?」
誰も答えない。
若い男が、かすれた声で言った。
「昔から、そうしてきたんだ」
サエキは男を見た。
「それだけか」
「……そうしろと言われてきた。やめたら何が起きるか、誰にも分からない」
「分からないから、続けた?」
男は目を伏せた。
老人が声を荒らげた。
「お前には分からん! あれが山にいる限り、逆らうことなどできん!」
「なら、自分たちが供物になればいい」
老人は言葉を失った。
「できないだろ。自分が食われるのは嫌だから、外から人をさらってきた。子供がいなくなれば旅行者を連れてきた。外国人なら、いなくなっても大事になりにくいと考えたんだろう」
「違う!」
「何が違う?」
老人は口を開いたが、言葉が出てこなかった。
サエキは彼らの沈黙を見ていた。
この村の信仰には、もう意味など残っていない。怪物が本当に村を守っていたのか、そもそも守るという約束があったのか。それすら誰も知らない。
ただ、やめるのが怖い。
自分たちが次の供物になるのが怖い。
だから、他人を差し出してきた。
「もう終わりだ」
サエキは記者を背後へかばった。
「この件は警察に渡す。あとはそっちで説明しろ」
村人たちは動かなかった。
止める気力も、止める理由も失ったように見えた。
サエキは記者を連れ、村の出口へ向かった。
そのときだった。
周囲の空気が変わった。
気配が近い。
サエキは記者の肩をつかみ、横へ突き飛ばした。
次の瞬間、何かが頭上を通過した。
木々が裂け、石垣が砕ける。
大鹿の怪物が、広場の中央に立っていた。
片目は潰れたまま。角は片方が折れ、残った角も傷だらけだった。
最初に森で出会ったときとは、様子が違う。
余裕がない。
怪物は地面を蹴り、獣のように低い姿勢で突進してきた。長い腕を振り回し、祭壇を破壊しながらサエキへ迫る。
サエキは横へ飛び退いた。
怪物の爪が、さっきまで彼のいた場所を抉った。
音が遅れて届く。
突進の音、木材の破砕音、石が砕ける音。それらが一度に響き、広場を埋め尽くした。
怪物は、音の中から不意に消えた。
サエキは振り向かなかった。
背後から迫る気配を感じ、地面へ身を投げ出す。
長い腕が頭上を通り過ぎ、石垣を粉砕した。
怪物が再び姿を現す。
サエキはその動きを見た。最初の戦闘では、こちらを試すような余裕があった。今は違う。傷を負った獣が、追い詰められたように暴れている。
片目を潰され、角を折られたことを覚えているのか。
それとも、ただ目の前の敵を排除しようとしているだけなのか。
どちらでもよかった。
今度こそ、仕留める。
「記者を連れて離れろ!」
サエキは村人たちに向かって叫んだ。
誰も動かなかった。
「早くしろ!」
ようやく、数人が記者を支えて広場の外へ走り出した。
怪物は彼らを追おうとした。
サエキが鉄杭を投げつける。杭は怪物の肩へ突き刺さり、巨体が一瞬だけ揺らいだ。
怪物が振り返る。
口元の片側が、再び持ち上がった。
サエキは後退しながら、腰の袋から折り畳まれた紙を取り出した。
獣の怪異を拘束するための術式だった。
ただし、相手を永久に縛るような便利なものではない。地面に描いた陣の中へ誘導し、一定の条件を満たすことで、短時間だけ動きを封じる。準備に手間がかかり、陣の外では効力が大きく落ちる。
サエキは事前に、広場の石畳の隙間へ小さな符を仕込んでいた。
祭壇を調べた際、ここが村人たちの儀式の中心だったことは分かっていた。ならば、怪物が再び現れる可能性もある。逃走経路を確保すると同時に、ここを決戦の場所にする準備をしていたのだ。
サエキは怪物の突進をかわしながら、最後の符を石の隙間へ押し込んだ。
陣がつながった。
地面に淡い光が走る。
怪物の脚が止まった。
完全にではない。巨体はなおも前へ進もうとし、石畳が軋む。符のいくつかが弾け、光が揺らいだ。
時間はない。
サエキは残った符を陣の中心へ投げ込み、短い言葉を唱えた。
怪物が咆哮した。
その声は獣のものに似ていたが、どこか人間の笑い声にも聞こえた。
巨体が暴れ、片方の腕がサエキへ伸びる。
サエキはぎりぎりで身を引いた。爪が肩をかすめ、服が裂ける。
陣の光が強まった。
怪物の脚が地面へ縫い止められたように動かなくなる。長い腕が空を掻き、頭部が激しく揺れた。
サエキは腰から、もう一本の鉄杭を抜いた。
そして、怪物の首元へ踏み込んだ。
杭を打ち込み、拘束の術式を固定する。
怪物の動きが止まった。
サエキは鞄から、封じの儀式に使われた古い刃を取り出した。刃そのものに特別な力があると断言はできない。ただ、獣の怪異を縛る術式と組み合わせることで、異常な再生や逃走を妨げる働きがある。
怪物は首を振った。
片目のない顔が、サエキの方を向く。
口元は、まだ笑っていた。
サエキは刃を両手で握り、術式が維持されていることを確かめた。
「これで終わりだ」
刃が走った。
一度では切れなかった。
サエキは踏み込み直し、拘束された首へ刃を押し込んだ。術式の光が一瞬だけ強く輝き、怪物の動きが完全に止まる。
最後の一撃。
首が胴から離れ、地面へ落ちた。
巨大な体が崩れ、長い腕が石畳を叩いた。
広場に、静けさが戻った。
サエキは刃を下ろさず、しばらく怪物を見ていた。
気配が薄れていく。
今度こそ、動かない。
少なくとも、ここで戦った個体は終わった。
サエキは、地面に落ちていた角を拾い上げた。
最初の戦闘で折ったものではない。あれは森に残したままだ。こちらは怪物の頭部から切り離された、もう片方の角だった。
表面は黒ずみ、ところどころに細い亀裂が走っている。普通の鹿の角とは明らかに違う。触れると、わずかに指先が冷えた。
サエキは手袋越しに角を確かめた。
怪異の一部は、呪具や術式の媒介として使えることがある。もちろん、素材として利用できるかどうかは別問題だ。怪異の残骸を安易に持ち帰るのは危険でもある。
それでも、この角には何か使い道がありそうだった。
後で調べる価値はある。
サエキは角を布で包み、専用のケースへ収めた。
広場の外では、記者が村人たちに支えられながら座り込んでいた。サエキはそちらへ向かい、記者の意識と怪我を確認した。
「歩けるか?」
「……なんとか」
「なら、村を出る。警察と救急には連絡する」
記者はうなずいた。
「化け物は……」
「倒した。少なくとも、今のところはな」
それ以上は説明しなかった。
サエキは警察へ連絡し、村で見つけた証拠と、住民による人間の誘拐、監禁、供物としての殺害について報告した。記者の保護も確認され、事件は公的な捜査へ引き継がれた。
村人たちが何をしてきたのか。その責任は、彼ら自身が負うことになる。
サエキは記者を救急車へ乗せると、編集長にも連絡を入れた。
「見つけた。生きてる。病院へ運ばれるところだ」
『……よかった』
「村の件は警察に渡した。過去の失踪者も含めて、捜査が入るはずだ」
『こちらからも、記者が残した取材記録を提出するわ。何か分かったら連絡する』
「頼む」
『それと、あなたの銃は?』
サエキはケースに収めた壊れた銃を見た。
「駄目だ。買ったばかりだったのにな」
『それは災難ね』
「まったくだ」
『無事に戻ってきたら、報酬の話をしましょう。銃のことも含めて』
「銃は俺が何とかする。そっちは記者のことを頼む」
『分かった。……戻ったら、もう少しゆっくり話しましょう』
「そうだな」
通話を切った。
サエキは山を振り返った。
木々の向こうに、何かがいるような気がした。
しかし、気配はない。
彼は角の入ったケースを確かめ、車へ向かった。




