終章 偏り笑い
村の事件が公になったのは、数日後だった。
警察は複数の失踪事件との関連を調べ、村の関係者を相次いで事情聴取した。人をさらい、山中へ連れ込んだ疑い。祭祀と称して人命を犠牲にしてきた疑い。
大鹿の怪物については、公表されなかった。
公表できる証拠がなかったからだ。
サエキは報告書の作成を終え、新しい銃の手配を進めていた。
そこへ、警察から連絡が入った。
村人が、全員死亡している。
最初に発見されたのは、村の入口に近い民家だった。住人は室内で倒れていた。その後、捜索が進むにつれ、ほかの家屋や社の周囲でも遺体が見つかった。
死因は判然としない。
刃物による傷とも、銃創とも違う。大型の獣に襲われたような損傷がある一方で、通常の野生動物の仕業とは考えにくい遺体もあった。
そして、全員に共通する点があった。
遺体は、頭を垂れていた。
まるで誰かに向かって、深く頭を下げているかのように。
さらに、どの顔にも同じ表情が残されていた。
口元の片側だけが、わずかに持ち上がっていた。
笑っているように。
サエキは報告書の写真を見つめた。
大鹿の怪物が笑っていた顔を思い出す。
だが、あの怪物は自分が倒した。
首を落とし、気配が消えるところまで確認した。
残骸の処理も完璧だった、専門機関に回収もしてもらった。
少なくとも、広場で戦った個体が、そのまま村人たちを襲ったとは考えにくい。
では、別の個体がいたのか。
それとも、まったく別の何かが村を襲ったのか。
どちらも可能性にすぎない。
公的な専門機関による大規模な捜索が行われることになり、山中は広範囲にわたって調べられた。村の周辺だけでなく、古い祭場や獣道、崩れた祠まで確認された。地面の痕跡も、木々についた傷も、採取できるものはすべて記録された。
だが、大鹿の怪物は見つからなか
回収された死骸についても、調査の途中で説明のつかない変化が見つかった。回収された部位の一部は、時間が経つにつれて崩れ、通常の生物の組織とは異なる性質を示した。最終的には、怪物がどのような生物だったのかを確定できるだけの証拠は残らなかった。
だがサエキが持ち帰った角だけは、形を保っていた。
ただし、それが何を意味するのかは分からない。
捜索は打ち切られた。
村人たちの死因は、特定できないままだった。
数日後、サエキは編集長と会った。
指定された店は、駅から少し離れた落ち着いた場所にあった。仕事の打ち合わせに使うには少し洒落ているが、二人きりで話すには都合がいい。
編集長は先に来ていた。
仕事中とは違い、髪を下ろし、柔らかな素材の服を着ていた。いつもより肩の力が抜けている。それでも、彼女の視線はサエキの顔や手の傷を見逃さなかった。
「思ったより元気そうね」
「そっちもな。」
「これでも責任者ですからね、フリーの記者とはいえ報告が来たときは、本当に安心した」
「記者は無事だ。取材記録は専門機関に回収されたがいずれら戻されるだろう」
編集長はグラスを持ち上げた。
「ともあれ、お疲れ様。」
彼女が微笑んだ。
仕事の話をしているとき、彼女はいつも明確だった。必要な情報を選び、仮説と事実を分け、無駄な言葉を挟まない。だが、今は違う。こちらの反応を見ながら、答えを急がせずに言葉を置いている。
「今回の報酬、約束どおり上乗せするわ」
「銃の代金は自分で何とかするって言っただろ」
「それとは別よ。仕事を無事に終えたことへの報酬」
「なら、ありがたく受け取る」
「それと、もうひとつ」
彼女はテーブルに身を乗り出した。
「今夜は、まだ予定がある?」
「ない」
「よかった」
編集長は、わずかに目を細めた。
「仕事の話はここまでにしましょう。今日は、あなたが無事に戻ってきたことを祝いたかったの」
「それだけか?」
「それだけなら、わざわざ服を選んだりしないわ」
サエキは笑った。
「なるほど。じゃあ、今夜は編集長の予定に合わせる」
「仕事のときみたいに、私の指示を待つの?」
「必要ならな」
「そういうところは、少しだけ直したほうがいいわね」
彼女はグラスを置き、サエキの手に指先を重ねた。
「今夜は、仕事じゃないんだから」
その言葉に、サエキはもう返事をしなかった。
彼女の指を握り返す。
窓の外では、街の灯りが静かに流れていた。
山で起きたことの答えは、まだ見つかっていない。村人たちの死因も、大鹿の怪物の正体も、何ひとつ解決したとは言い切れない。
それでも、今夜だけは別のことを考えてもいい。
サエキは編集長と店を出た。
その先の時間について、二人は言葉にしなかった。
後日サエキは自宅で記録をまとめていた。
机の端には、布に包まれた角がある。
いずれ調べるつもりだった。別の怪異に対抗する手段になるかもしれない。
だが、今はまだ、何に使えるのか分からない。
サエキはPCを閉じ、部屋の明かりを消した。
窓の外では、風が木々を揺らしていた。
ほんの一瞬、何かの気配を感じたような気がした。
彼は立ち止まった。
だが、何も起こらなかった。
気のせいだろう。
サエキは部屋をでた。
異聞始末録 記録者 サエキ
山間の集落にて、鹿に似た人型怪異と交戦。初回交戦で片目を潰し、片方の角を折るも逃走。
村人への聴取と資料調査により、古くからの供物信仰と複数の失踪事件との関係を確認。
行方不明の記者を保護。再戦にて術式で対象を拘束し、首を切断。活動停止を確認。
怪異の角を一部回収。呪具の素材として使用できる可能性あり。要調査。
その後、村人全員が不審死。遺体は頭を垂れ、口角の片側を上げていた。怪異との関連、死因ともに不明。
村の旧家に残されていた年代不詳の記録の写し
この村に、鹿に似た男がいた。
背が高く、手足が長く、顔立ちは細く、額の上の髪は左右に分かれて立っていた。遠目には、鹿の角のように見えぬこともなかった。
村の者は男を見て笑った。
鹿面、鹿男、角なし鹿と呼び、男が通るたびに真似をして笑った。祭りの日には、子供らが枝を頭に載せ、男の歩き方を真似て後ろをついて回った。
男は怒った。
だが、何も言わなかった。
笑った者を殴ることも、声を荒らげることもできなかった。人の輪に入れば笑われ、言い返せばさらに笑われる。だから、男は黙ってその場を離れた。
夜になると、男は一人で酒を飲んだ。
村人どもめ。
いつか思い知らせてやる。
そのようなことを何度も口にしたと、隣家の者は記している。
しかし、男が実際に誰かへ仕返しをしたという話は残っていない。村の若者に肩をぶつけられても、祭りの子供に笑われても、男はただ顔を伏せ、家へ帰った。
ある晩、男は山道の途中で立ち止まり、村の灯を見下ろした。
あの者らが、いつか自分を恐れる日が来ればよい。
そう呟いたものの、しばらくすると肩を落とし、深く息を吐いた。
そのとき、山から風が吹いた。
木々の葉は揺れなかった。
風は男の背を撫でるように通り過ぎ、村の方へ流れていった。
男は顔を上げた。
誰かが笑ったように聞こえた。
だが、山道には男のほか、誰もいなかった。
片方の口角だけ上がった男だけ。




