第一章 白獣の欠陥
その美術館は、街の中心から少し離れた場所にあった。
かつて貴族の邸宅として建てられたという石造りの建物で、現在は個人の収集品を展示する私設美術館として運営されている。高い天井、壁に掛けられた古い絵画、磨き上げられた大理石の床。どこを見ても相応の金と手間がかけられていた。
その館長室で、私は依頼人の話を聞いていた。
「先生には、彫像を調べていただきたいのです」
館長は五十代ほどの男だった。仕立てのよいスーツを着ていたが、襟元には疲労の色が滲んでいる。目の下には濃い隈があり、机の上には飲みかけのコーヒーが三つ並んでいた。
「彫像というのは?」
「ユニコーンです。白い大理石で作られた、古い彫像なのですが……」
館長はそこで言葉を切った。
「修復師が辞めました。後任も長く続きません。最初の者は自分の腕に自信がなくなったと言い、次の者は作品を壊してしまいました。三人目は、ある朝、工房からいなくなったのです」
「警察には?」
「成人の失踪として届け出ています。ですが、今回の件とは関係がないでしょう。彼は以前から精神的に不安定だったそうですから」
「それで、私に彫像を調べろと」
「ええ。先生は、そういった……通常の手段では説明のつかない事柄に詳しいと伺いました」
誰から聞いたのかは尋ねなかった。
こういう依頼を持ち込む人間は、たいてい紹介者の名を口にしたがらない。こちらとしても、余計なところで人間関係を広げるつもりはなかった。
「報酬は?」
金額を確認し、私は依頼を引き受けた。
館長は安堵したようだった。
ただし、話を終えて立ち上がる際、彼は机の上に置かれたペンを何度も並べ直していた。
三本のペンは、どれも同じ向きに揃えられていた。
それでも彼は納得できないらしく、一本を動かしては戻し、戻してはまた動かしていた。
「気になることでも?」
私が尋ねると、館長は手を止めた。
「いえ。少し、向きが気になっただけです」
そう答えた彼は、すぐにペンから手を離した。
私は特に何も言わず、館長室を出た。
その時点では、彼の奇妙な振る舞いに大した意味はないと思っていた。
問題の彫像は、展示棟の奥にある専用の部屋に置かれていた。
扉を開けると、まず目に入ったのは、部屋の中央に据えられた白い台座だった。
その上に、一頭のユニコーンが立っている。
前脚を軽く持ち上げ、長いたてがみを風に流した姿。首筋から背中へ続く曲線は優美で、頭部から伸びる一本の角には、繊細な螺旋が刻まれている。
なるほど、見事な作品だった。
大理石の彫像でありながら、今にも呼吸を始めそうな生命感がある。少なくとも、私にはそう見えた。
「どう思われますか」
館長が尋ねた。
「よくできていますね」
「ええ。ですが、どこかおかしいとは思われませんか」
私は改めて彫像を眺めた。
右前脚が、ほんのわずかに長い。
そう思った。
いや、長いというより、蹄の位置が低いのかもしれない。首の傾きも微妙に不自然だった。角の螺旋も、根元から先端へ向かうにつれて、わずかに間隔が変化しているように見える。
しかし、それらは熟練した彫刻家であれば意図的に処理する範囲の差異でもあった。
「古い作品ですからね。制作当時の技術や、作者の意図もあるでしょう」
「そうでしょうか」
館長は彫像から目を離さなかった。
「私は、右前脚が長すぎると思うのです」
「先ほどは首の角度が問題だと聞きましたが」
「それは修復師が言っていたことです。私は、脚のほうが気になる」
館長は自分の言葉を確かめるように、彫像の周囲を歩いた。
「ただ、脚を直すと、今度は角が気になるのです。角を直せば、たてがみが気になる。たてがみを整えると、顔の輪郭が……」
彼は口を閉じた。
「失礼。こんな話をしても仕方ありませんね」
私は返事をせず、彫像に近づいた。
表面に触れることは避けた。
代わりに、目を閉じ、呼吸を整える。
魔術の素養がある人間なら、世界には目で見るものとは別の層があることを知っている。
物質の形。そこに残された人間の意図。場所に染みついた記憶。そして、それらの間に生じる、目には見えない繋がり。
私は意識を研ぎ澄ませた。
しばらくして、奇妙なものを感じ取った。
彫像の内部から何かが発せられているわけではない。
むしろ、彫像を眺めている私自身の意識が、何かに引っ張られているようだった。
気のせいだろうか。
私は目を開けた。
すると、先ほどまで気になっていた右前脚の長さが、急に気にならなくなった。
代わりに、角の螺旋が不揃いに見えた。
私は眉をひそめた。
奇妙な感覚だった。
彫像の形が変わったのではない。私の見方が変わったのだ。
「館長」
「はい」
「修復前の写真はありますか」
「ええ。すべて保管しています」
「それから、修復師たちが作業中に残した記録も」
「もちろんです」
私はもう一度、ユニコーンを見た。
白い獣は、静かにこちらを見下ろしていた。
その顔には、何の感情も浮かんでいなかった。
翌日から、私は美術館に保管されていた資料を調べ始めた。
修復前の写真、作業記録、館長と修復師たちの書簡。どれも丁寧に整理されていたが、内容は奇妙だった。
最初の修復師は、右前脚の長さを問題にしていた。
その部分を調整した後、彼は角の螺旋が不均等であることに気づいた。
角を修復すると、今度はたてがみの一房が不自然に見え始めた。
その次の修復師は、たてがみを整えた後、彫像の顔が左右非対称だと主張している。
さらに次の者は、蹄の形状が本来の馬のものと異なると訴えていた。
私は記録を年代順に並べた。
修復前の写真と修復後の写真を比較する。
そして、ある事実に気づいた。
修復によって取り除かれたはずの欠点が、別の箇所に現れている。
いや、正確には、以前には欠点とされていなかった部分が、新たな欠点として認識されているのだ。
私は写真を机に並べ、何度も確認した。
右前脚を修復する前の写真では、角の螺旋に問題は見当たらない。角を修復した後の写真では、螺旋が不揃いになっている。
しかし、角そのものに手を加えた記録は残っていなかった。
写真の撮影角度による錯覚だろうか。
私は別の写真を取り出した。
同じだった。
角を正面から撮影した写真では、螺旋は均等に刻まれている。ところが、修復師が角の不揃いを指摘した日付以降の写真では、螺旋の間隔が微妙に変わっていた。
私は椅子に背を預けた。
写真が変化を記録しているのか。それとも、写真を見る人間の認識が変化しているのか。
この資料だけでは、区別できなかった。
考えられる可能性はいくつかある。
写真の加工。修復師による記録の改竄。あるいは、私が見落としている何らかの物理的な変化。
だが、どれも十分な説明にはならなかった。
そこで私は、仮説を立てた。
欠点は、修復によって生じるのではない。
誰かが欠点を認識することで、何らかの異常が始まるのではないか。
ただし、認識だけで十分なのか、それとも認識した欠点を正そうとする意思が必要なのか。その違いは、まだわからなかった。
仮説を確かめるには、実際に観察する必要があった。
私は美術館の職員に頼み、彫像を撮影した。正面、側面、背面。照明の角度も変え、細部まで記録した。
その後、写真を別々の職員に見せた。
ある者は角の形を指摘し、ある者は脚の長さを問題にした。別の者は、顔の表情が左右で違うと訴えた。
私は指摘された内容を記録し、職員たちには写真をいったん伏せてもらった。
再び写真を見せると、一度欠点を指摘した者は、その部分を以前よりも強く気にするようになっていた。
もっとも、短時間の観察だけで、彫像そのものに変化が生じたと断定することはできない。
私は実験を中断した。
これ以上続ける必要はなかった。
この怪異は、少なくとも、観察者の認識に何らかの影響を及ぼしている。
そして、認識された欠点が、単なる見間違いでは済まない形で現れている可能性がある。
問題は、その仕組みだった。
私は彫像そのものに意識を向けた時、何かを感じ取っていた。だが、それは通常の憑依や呪物の気配とは異なる。
何かが彫像に宿っているのではない。
彫像と観察者の間に、異常な繋がりが生じているのではないか。
そして、修復という行為は、その繋がりを強めているように思えた。
欠点を正そうとするほど、別の欠点が目につく。新たな欠点を直せば、また別の場所に問題が見つかる。
その繰り返しが、修復師たちを追い詰めたのだろうか。
私は資料を閉じた。
仮説は立った。
だが、仮説は答えではない。
次は、それを検証する必要がある。




