第ニ章 完成の日
その日の夕刻、サエキは彫像の展示室に戻った。
人払いを済ませ、扉を閉める。
室内には、ユニコーンとサエキだけが残った。
サエキは鞄から小さな革張りの書物を取り出した。
古い西洋魔術の記法が記されたもので、必要な術式を確認するために持参したものだ。
今回使うのは、対象の周囲に存在する異常な因果関係を探るための術だった。
床に細い白墨で円を描き、その内側に複数の記号を配置する。円は対象を直接拘束するためのものではない。観察者と対象との間に生じる干渉を、一定の範囲に収めるためのものだ。
サエキは蝋燭を四本立て、火を灯した。
それから、術式の中心に小さな銀片を置く。
銀片は、術式が拾い上げた異常を反映するための媒介だった。
準備を終え、サエキは詠唱を始めた。
低い声が、石造りの室内に響く。
言葉が進むにつれて、蝋燭の炎がわずかに揺れた。
風はない。
それでも、炎はすべて同じ方向へ傾いていた。
サエキは詠唱を続ける。
やがて、床に描いた円の一部が淡く光り始めた。
銀片の表面に、細い黒線が浮かび上がる。
線は一本ではなかった。幾重にも重なり、絡まり、彫像の方向へ伸びている。
その一部は、サエキ自身の足元へも向かっていた。
サエキは目を細めた。
術式は正常に働いている。
だが、結果は予想と異なっていた。
異常の中心は彫像ではない。
観察者と彫像の間に生じた繋がりそのものが、異常の一部になっているのだ。
サエキは術式を解いた。
蝋燭の炎が元に戻り、銀片の黒線も消えた。
その時、サエキには、彫像の顔が歪んでいるように見えた。
口元が、ほんのわずかに引きつっている。
まるで、こちらの行為を嘲笑っているかのようだった。
サエキは目を瞬いた。
次の瞬間には、何事もなかったかのように、彫像は元の姿に戻っていた。
錯覚だ。
そう判断することにした。
しかし、通常の西洋魔術だけでこの怪異に対抗するのは難しい。
対象を定義し、性質を特定し、術式によって拘束する。
それがサエキの知る魔術の基本的な手順のひとつだった。
だが、この怪異は定義されることそのものを利用している可能性がある。
欠点を特定すれば、それが現実に固定される。少なくとも、これまでの経緯はそう考えれば説明がついた。
異常を細かく分析すればするほど、怪異に新しい形を与えてしまうのかもしれない。
ならば、別の方法を組み合わせる必要があった。
サエキは鞄から、もうひとつの包みを取り出した。
中には、和紙と墨、そして細い筆が入っていた。
西洋魔術の術式だけではなく、日本の呪法も試すつもりだった。
日本の呪法は、サエキにとって異国の技術というわけではない。
もっとも、ひと口に呪法といっても、その体系は一様ではない。神仏への祈り、禁忌を定める作法、符による封じ、言葉による誓約。土地や流派によって、その意味も扱い方も異なる。
今回必要なのは、対象を細かく定義することではなかった。
むしろ、その逆である。
サエキは和紙に墨で符を書いた。
そこに記したのは、ユニコーンの形状でも、欠点の所在でもない。
対象の名を記すことも避けた。
この怪異を「欠点のある彫像」として定義した瞬間、その定義が新たな欠点を生み出すかもしれないからだ。
サエキは符を四つに折り、展示室の四隅に置いた。
それから、床に描いた西洋魔術の円と、符の位置関係を確認する。
西洋魔術の術式は、異常な因果関係を探り、その働きを一定の範囲に収める。
日本の呪法は、その繋がりを特定の対象へ固定することなく、境界を定めるために使う。
互いに異なる体系ではあるが、今回の目的に限れば、組み合わせることができるはずだった。
サエキはもう一度、術式を発動させた。
今度は、ユニコーンを見ないようにした。
視線を床に落とし、意識だけで術式の働きを追う。
銀片の表面に黒い線が現れる。
その線は彫像へ伸び、サエキへ伸び、そして四隅に置かれた符の手前で揺らいだ。
符は何も発しない。
光ることも、燃えることもない。
ただ、そこにある。
しかし、黒線は符の向こうへ進まなかった。
サエキは呼吸を整えた。
成功したのかもしれない。
少なくとも、異常な繋がりが広がるのを抑えることはできているようだった。
サエキは慎重に術式を解いた。
符を回収し、銀片を包みへ戻す。
その時、展示室の奥から音がした。
かつん。
石を打ち合わせたような、乾いた音だった。
サエキは顔を上げた。
ユニコーンの右前脚が、台座に触れていた。
先ほどまで、確かに浮いていたはずの蹄が。
サエキは彫像を見つめた。
脚が長いのか。
台座が傾いているのか。
いや、そもそも、最初からこういう姿だったのではないか。
考えがまとまらなかった。
サエキは展示室を出た。
この場で観察を続けることは、危険だと判断したからだ。
廊下へ出ると、頭の中が少しだけ静かになった。
だが、完全ではない。
彫像の角が、妙に気になっていた。
翌日、館長は最後の修復を行うと宣言した。
「もう十分です。あとは私がやります」
彼の顔には、以前にも増して疲労が刻まれていた。
「館長、修復を中止してください」
「なぜです。原因がわかったのですか」
「ええ。少なくとも、修復を続ければ悪化することはわかっています」
「悪化?」
館長はサエキを見た。
「私は、良くしようとしているのです」
「その行為が、問題なのです」
「そんなはずはない!」
声が展示室に響いた。
館長は自分の声に驚いたように口を閉じたが、すぐに彫像へ視線を戻した。
「あと少しなのです。あと少しで完成する。これほどの作品を、未完成のままにしておくわけにはいかない」
彼の言葉には、もはや美術館の館長としての責任感だけでは説明できない執着があった。
サエキは彼の腕を掴もうとした。
だが、間に合わなかった。
館長は修復道具を手に取り、彫像の角へ刃を当てた。
その瞬間、乾いた亀裂音が響いた。
角に細い線が走る。
館長は手を止めた。
「……何だ、これは」
亀裂は角から額へ伸び、首筋を通り、胸部へと広がっていった。
まるで、彫像の内部に別の何かがあり、それが表面を押し広げているかのようだった。
サエキは館長を引き離した。
「離れてください!」
だが、館長は抵抗した。
「直さなければ……」
彼の額に、細い亀裂が走った。
最初は、乾燥した皮膚にできた傷のように見えた。
しかし、亀裂はすぐに深くなり、額からこめかみへ、頬へと広がっていく。
館長は自分の顔に手を当てた。
指先に触れた皮膚が、乾いた音を立てて剥がれ落ちた。
その下から現れたのは、血肉ではなかった。
白い陶器に似た、硬質な表面だった。
「先生……」
館長がサエキを見た。
「私の顔は、どうなっているのですか」
サエキは答えられなかった。
彼の頬には、細かな亀裂が無数に走っていた。
そして、その亀裂を埋めるように、白い物質が盛り上がっている。
まるで、誰かが彼の顔を修復しようとしているかのように。
館長は震える手で頬に触れた。
「ここが……おかしい」
彼は床に落ちた破片を拾った。
「ここが、歪んでいる。目の位置も、口元も……」
「館長、触らないでください」
「直さなければ」
彼は修復道具を持ち直した。
「直さなければ、完成しない」
その時、サエキはひとつの可能性に思い至った。
怪異は、もはや彫像だけに留まっていない。
館長の身体にも、同じ現象が起きている。彼が自分の身体に欠点を見いだすより前に、亀裂はすでに現れていた。
これまでの経緯を考えれば、彫像との繋がりが彼自身にまで及んでいたとしても不思議ではない。
だが、どの時点で、どのようにしてそうなったのかはわからなかった。
サエキは館長の手から道具を叩き落とした。
彼は抵抗しなかった。
ただ、サエキの顔を見つめていた。
「先生。あなたには、私のどこが悪いかわかりますか」
サエキは答えなかった。
答えてはいけない。
彼の欠点を特定することは、その欠点を固定することになりかねない。
館長は、ゆっくりと笑った。
「そうですか。あなたにも、わからないのですね」
彼の顔に、またひとつ亀裂が走った。




