終章 不完全な魔術
サエキは館長を展示室の外へ運び出し、職員に救急車を呼ぶよう指示した。
その後、再び展示室へ戻った。
ユニコーンの彫像は、以前とはまるで違う姿になっていた。
表面には無数の亀裂が走り、角は根元から歪んでいる。脚の長さも左右で異なり、たてがみは不自然な塊となっていた。
だが、サエキが最も恐ろしいと感じたのは、彫像の変形そのものではなかった。
どれだけ歪んでいても、どれだけ壊れていても、サエキにはまだ、直すべき場所が見えてしまう。
角の形を整えればいい。
脚の長さを揃えればいい。
亀裂を埋め、表面を磨き、顔の輪郭を整えればいい。
それらは、どれも正しい判断に思えた。
サエキは一歩、後ずさった。
これが怪異の本質なのだろうか。
欠点を認識することそのものは、人間にとって自然な行為だ。問題は、それを正さなければならないという確信が、際限なく膨らんでいくことにある。
少なくとも、この彫像に関わった人間たちには、そうした傾向が見られた。
サエキは鞄を開き、魔術書と和紙を取り出した。
ここで決着をつける必要があった。
サエキは床に西洋魔術の円を描き直した。今度は、彫像を中心に据えるのではなく、展示室全体を囲むように配置する。
四隅には、先ほどの符を置いた。
そして、術式の中心に銀片を据える。
準備を終え、サエキは詠唱を始めた。
魔術が発動する。
床に描かれた円が淡く光り、彫像の周囲に張り巡らされた異常な繋がりが、少しずつ浮かび上がった。
サエキはそれを拘束しようとした。
しかし、術式を構成する記号の一部が、突然、意味を失ったように感じられた。
円の一角が不自然に歪む。
サエキは修正を試みた。
すると、別の箇所に欠落が生じた。
術式を直すたびに、新しい欠点が現れる。
サエキは歯を食いしばった。
これでは、彫像の修復と同じだ。
完全な術式を作ろうとする限り、怪異はその不完全さを指摘し続ける。
サエキは詠唱を止めた。
床に描かれた円は、途中で途切れている。
記号も揃っていない。
通常なら、術式として成立させるには修正が必要な状態だった。
サエキは、そのままにした。
そして、和紙に書いた符を一枚取り上げ、円の途切れた部分へ置いた。
符は、欠落を埋めるためのものではない。
少なくとも、今はそうするべきではないと考えた。
欠けた部分を無理に補うのではなく、そこを修正すべき欠点として扱わない。
そのために、符を置く。
サエキは再び詠唱を始めた。
西洋魔術の言葉で、異常な因果関係の流れを捉える。
日本の呪法の作法で、その流れが特定の欠点へ収束することを拒む。
二つの体系が、完全にひとつになるわけではない。
むしろ、それぞれが異なる働きを保ったまま、互いの弱点を補っている。
円は閉じていない。
符は、欠けた部分を埋めない。
それでも、術式は成立した。
床に広がった光が、ゆっくりと展示室を満たしていく。
彫像の亀裂が止まった。
館長の身体に起きていた変化も、遠くで待機していた救急隊員の報告によれば、ひとまず進行が止まったらしい。
だが、怪異そのものが消えたわけではない。
サエキには、異常な繋がりがまだ残っているように感じられた。
ただ、そこから欠点を現実へ固定する働きだけが、一時的に抑えられているのかもしれない。
サエキは術式を維持しながら、最後の判断を下した。
このまま封じ続けることはできるかもしれない。
しかし、それでは美術館の人間が再び彫像を観察し、修復を試みる可能性が残る。
ならば、彫像を破壊するしかない。
サエキは床に置いた銀片を踏み砕いた。
術式の光が一瞬だけ強くなった。
そして、展示室にあったすべての亀裂が、同時に音を立てた。
ユニコーンは、音もなく崩れた。
まず角が折れ、次に首が砕け、胴体が崩れ落ちる。
大理石の破片が台座から転がり落ち、床に散らばった。
サエキは術式を維持したまま、彫像が完全に崩壊するのを見届けた。
最後の破片が床に落ちる。
それきり、何も起こらなかった。
サエキはゆっくりと息を吐いた。
術式を解き、四隅の符を回収する。
銀片は粉々になっていた。
展示室には、白い破片だけが残されている。
館長は病院へ搬送された。身体の変化は進行を止めたものの、医師たちには原因がわからず、本人も事件の詳細を十分に説明できない状態だという。
美術館の関係者たちも、徐々に落ち着きを取り戻しつつあった。
事件は収束した。
そう判断してよいだろうか。
サエキは破片をひとつずつ調べた。
呪物であれば、何らかの核が残されていることがある。魔術的な刻印や、異常な性質を帯びた物質が発見できるかもしれない。
だが、何も見つからなかった。
どの破片も、ただの大理石だった。
サエキは念のため、いくつかの破片を別々に保管するよう手配した。
これで調査は終わりだ。
少なくとも、現時点では。
美術館を出る前、サエキは一度だけ展示室を振り返った。
台座の上には、もう何もない。
ただ、床に残された白い粉が、窓から差し込む夕日を受けて光っていた。
サエキはそれを見て、なぜか、まだ何かが足りないような気がした。
何が足りないのかは、わからなかった。
わからないまま、サエキは美術館を後にした。
サエキは自宅に戻り今回の仕事の記録をつける。
美術館では、何度も彫像の形が気になった。
右前脚の長さ。角の螺旋。たてがみの不自然な隙間。
だが、今はそれらを思い出しても、特に何も感じなかった。
サエキは淡々と、調査の経緯を書き進めた。
怪異の性質。
観察者の認識と欠点の出現との関係。
修復行為が怪異の作用を強めている可能性。
西洋魔術による異常な因果関係の検出と、日本の呪法を併用した封じの試み。
そして、彫像の破壊。
記録を書き終えると、サエキは一度、最初から読み返した。
文章に不備はなかった。
少なくとも、直さなければならない箇所は見当たらない。
サエキはPCを閉じた。
仕事のことは、ひとまずこれで終わりだ。
明日は保管した破片の分析結果を確認し、館長の容態についても連絡を取る必要がある。
そう考えながら、サエキは机の上を片づけた。
窓の外では、街の灯りが静かに瞬いていた。
サエキは何も気づかなかった。
仕事場であれほど気になっていた、欠点というものの存在が。
今では何も感じないこと。
異聞始末録 記録者サエキ
白い大理石の一角獣にまつわる異常事案。
修復を試みるたびに新たな欠陥が現れ、関係者は次第にその不完全さに囚われていった。
術式の欠落を欠陥として定義しないことで、異常の進行を停止。像は崩壊し、事件は一応の収束を見た。
ただし、異常の本質および関係者に生じた変化の全容は不明。
――完成とは、いったい誰が決めるものなのだろうか。
古い彫刻家の手記
まただ。
今度は一角獣の角が長すぎるだの、蹄の角度が気に入らぬだの。昨日は鼻先が気に入らぬと言うので削った。今日は削りすぎだと言う。
陛下は、私の手元を覗き込んでは、まるで小石でも拾うような気軽さで欠点を見つけてくださる。実にありがたいことだ。おかげで私は、何が美しいのかではなく、陛下が次に何をお気に召さぬのかばかり考えるようになった。
ならば、いっそご自身でお彫りになればよろしい。
鑿を握り、石と向き合い、ひとかけら削るたびに失われるものを知ればよいのだ。何かを整えるということは、別の何かを捨てることでもある。すべてを望みどおりにするなど、石相手にさえ叶わぬ夢だ。
……いや、陛下にそのようなことを申し上げれば、今度は私の口の利き方に欠点があると仰せになるだろう。
まったく、欠点のないものをお望みなら、何も作らぬことだ。
石は黙っている。私も、いつかそうなりたい。




