単章 化粧は誰のため
葬儀場には、花の香りが満ちていた。
祭壇の中央に置かれた遺影は、穏やかな笑顔を浮かべている。棺の中の顔もまた、写真と同じように整えられていた。
「いやあ、見違えるほど綺麗になったな」
「腕のいい化粧師さんだったそうですよ。ご家族も喜んでいらしたとか」
参列者たちは、口々に故人の顔を褒めていた。
その輪から少し離れた場所で、ワシオは棺を見つめていた。
政界で長く生きてきた男の顔には、愛想のよい笑みが浮かんでいる。しかし、その目だけは笑っていなかった。
肌の色は自然で、髪は乱れなく整えられている。唇にも過剰な色はなく、頬の陰影も不自然ではない。技術の高さに疑いはなかった。
それでも、何かがおかしい。
故人は生前、もっと気難しい顔をする人間だった。笑うときには目尻に深い皺が寄り、話を聞くときには片方の眉を少し上げる癖があった。
棺の中の顔には、その人らしさがない。
皺が消されているわけではない。特徴が失われているわけでもない。にもかかわらず、見慣れた顔から、その人間だけが抜き取られたように感じられた。
ただ、ひとつの美しい作品が置かれている。
「立派な仕事だな」
隣にいた知人が、満足そうに頷いた。
「ご遺族も、最後にこんなに綺麗な顔を見られてよかったとおっしゃっていましたよ」
「そうか」
ワシオは、それ以上何も言わなかった。
死者の顔をどう整えるかは、遺族の希望や土地の習慣によっても異なる。自分の感覚だけで他人の仕事を否定するわけにはいかない。
それでも、胸の奥に小さな棘が残った。
あの顔は、本当に故人のために整えられたものなのだろうか。
それとも、別の誰かが、自分の美意識を満たすために作り上げた顔なのだろうか。
ワシオには、まだ判断できなかった。
葬儀から数日後、ワシオは個人的な人脈を使い、あの化粧師について調べ始めた。
名の知れた職人だった。
仕事は丁寧で、遺族への対応も礼儀正しい。紹介を通じて依頼が舞い込み、仕上がりに満足したという声も多かった。
一方で、妙な話もいくつか聞こえてきた。
化粧を施された身内の顔を見て以来、鏡を見るのが怖くなったという者。
葬儀の最中、棺の中の故人が笑ったように見えたという者。
誰もいないはずの式場で、誰かがくすくすと笑う声を聞いたという者。
しかし、詳しく話を聞くほど、証言は曖昧になった。
笑顔に見えたという者は、別の参列者から「そんな顔ではなかった」と言われている。笑い声を聞いたという者も、どこから聞こえたのかは覚えていない。
悲しみや疲労、暗示による記憶の変化。どれも十分に考えられる説明だった。
化粧師本人についても、不正を示す情報は見つからなかった。
「面白い話ではあるが、これでは何も言えんな」
報告を聞いたワシオは、そう結論づけた。
違和感を覚えたのは、自分だけなのかもしれない。そう考えれば、調査を打ち切るのが妥当だった。
それでも、あの顔が記憶から離れなかった。
理由を説明できない以上、他人に同意を求めるつもりはない。
だが、自分の勘が間違っているのかどうか。それくらいは確かめておきたかった。
「つまり、私にその化粧師を調べろと?」
サエキは資料から目を上げた。
「そういうことだ」
「怪異の痕跡はありません。明確な被害もない。ご遺族の評判も悪くない。現時点では、腕のいい職人に対する根拠のない疑いにしか見えませんが」
「そのとおりだな」
あっさり認められ、サエキはわずかに眉を動かした。
「では、なぜ私に?」
「私の勘が外れているなら、それでいい。何かあるのなら、それもよし。どちらに転んでも構わんのだよ」
ワシオは悪びれずに笑った。
「私はな、疑いを事実にしたいわけではないんだ。自分の見方が間違っているのかどうか、それを確かめたいだけだ」
「それなら、警察や専門機関に相談する方法もあります」
「証拠もない話を公的な機関に持ち込むつもりはない。まして、私の個人的な勘のために、国の人間を動かすわけにはいかんだろう」
その言葉には、政治家としての筋が通っていた。
「君なら、怪異が相手でも人間の問題でも、必要に応じて判断できる。そう思ったんだがね」
「買いかぶりです」
「そうかね?」
ワシオは楽しそうに笑った。
「では、金を払おうか。もちろん、相応の額を用意する」
「お断りします。金額の問題ではありませんので」
「ならば、借りを作るというのはどうだ」
サエキの手が止まった。
「……借り、ですか」
「そう。いつか君が困ったとき、私にできることがあれば力を貸す。国内でも国外でも、多少は顔が利くからな。金より役に立つ場面もあるだろう」
サエキは資料に目を落とした。
依頼を受けるだけの根拠は乏しい。しかし、ワシオという男の人脈に価値があるのも事実だった。
「……わかりました。調べてみます」
「助かるよ」
「ただし、何も出ない可能性は高いです。何か見つかったとしても、ご期待に沿えるとは限りません」
「構わんよ。白でも黒でも、君が納得できるところまで調べてくれればいい」
こうして、ひどく曖昧な依頼がひとつ増えた。
化粧師の仕事場は清潔だった。
道具は整然と並べられ、化粧品は用途ごとに分類されている。室内には、花とも香水ともつかない、ほのかな香りが漂っていた。
サエキは記者を名乗り、仕事ぶりについて話を聞きたいと申し出た。
化粧師は疑う様子もなく、丁寧に応じた。
「皆様、最初はそうおっしゃいます。でも、最後には綺麗にしていただいてよかったと、お礼を言われますよ」
「遺族の希望と、ご自身の判断が食い違うことはありませんか」
「もちろん、ご希望は伺います。皆様が望まれるのは、故人にふさわしい、安らかで美しいお顔でしょう?」
「生前の顔を、そのまま残してほしいという方もいるはずです」
「ええ。ですから、その方らしさを損なわないように整えるんです」
答えに不自然なところはない。
サエキは、化粧師のそばに置かれた仕上がりの記録に目を向けた。そこには、施術前後の写真と、作業内容が簡潔にまとめられていた。
彼女は写真を一枚取り出し、指先で端を揃えた。
「この方は、最初、ご家族から少し注文が多かったんです」
「どのような?」
「生前は気難しい方だったそうで、もっと本人らしくしてほしい、と。ですが、最後にお会いするお顔ですから。苦しそうな印象を残す必要はないでしょう?」
彼女は写真を見つめ、微笑んだ。
「ですから、整えました。ご家族にも、こちらのほうがずっとお綺麗ですよ、とご説明して」
「ご家族は納得されたんですか」
「最後には」
それは、相手が納得するまで話し合ったという意味にも、彼女が納得させたという意味にも聞こえた。
化粧師は写真をしまうと、何事もなかったように次の質問を待った。
サエキは、もう一歩踏み込んだ。
「亡くなった方ご自身の希望は、どう扱うんですか」
化粧師は、そこで初めて考えるような間を置いた。
「……さあ。ご本人に伺うわけにもいきませんから」
そして、穏やかに微笑んだ。
「ですから、残された方に美しいと思っていただける顔にするんです。それが私の仕事ですから」
もっともらしい答えだった。
死者は意見を述べない。残された人々が納得できる顔に整える。それ自体は、仕事として理解できる。
だが、サエキには、彼女の言葉の中に何かが欠けているように思えた。
故人がどんな人間だったのか。どんな顔で笑い、どんな顔で怒り、どんな顔を家族に覚えていてほしかったのか。
そうしたものは、彼女にとって仕上がりを決めるための情報にすぎないのではないか。
美しさを作ること。それが彼女にとって、何よりも優先される目的なのではないか。
「仕上がりに、ご自身で納得できないことは?」
サエキが尋ねると、化粧師は少しだけ目を細めた。
「納得できないまま、お返しすることはありません」
「何度でもやり直す?」
「当然です。最後のお顔ですから」
その声に、誇示するような響きはなかった。
彼女は、自分の答えが疑われる可能性すら考えていないようだった。
自分の仕上がりが褒められれば、それは当然の評価として受け取る。意見が食い違えば、相手の理解が足りないのだと考える。
それを傲慢だと指摘しても、彼女には意味がわからないだろう。
彼女にとって、自分の美意識は単なる好みではない。ものを見るための基準そのものなのだ。
そして、その基準の中心には、いつも彼女自身がいた。
調査を続けても、怪異の痕跡は見つからなかった。化粧師が人を脅した証拠も、明確な犯罪を裏付ける情報もない。彼女の仕事を高く評価する人々は、実際に存在していた。
サエキはワシオに報告した。
「人間として気になる部分はあります。ただ、犯罪を裏付けるものも、怪異の存在を示すものも見つかりませんでした」
「そうか」
「現時点で、これ以上の調査を続ける理由は薄いと思います」
「君がそう判断したのなら、ひとまずそれでいい」
ワシオは残念がる様子もなく頷いた。
「妙な話に付き合わせて悪かったな」
「いえ、万が一ということもあるので。」
「それなら結構だ」
サエキは、これで依頼は終わったと思った。
少なくとも、調査員として報告できることは、そこまでだった。
それからしばらくして、ワシオから連絡があった。
あの化粧師が亡くなったという。
自ら命を絶ったらしい。
「詳しい事情は、まだよくわからん。だが、あれだけ腕の立つ人間が、何を苦にしたのか……」
電話越しのワシオの声には、いつもの軽妙さがなかった。
「君の調査が原因だとは思っていない。ただ、あの件を気にしていたのは私だからな。最後に何か変わったことがなかったか、もう一度だけ確認してもらえないか」
「わかりました。確認できる範囲で調べてみます」
サエキは、もう一度だけ関係者に話を聞いた。
化粧師は亡くなる直前、鏡の前で長い時間を過ごしていたという。
化粧を施しては落とし、また施す。照明を変え、顔の角度を変え、髪型まで何度も整え直す。
それでも、彼女は納得しなかった。
「何か、変だとおっしゃっていたんです」
関係者は、当時を思い出すように話した。
「顔が醜く見える、と。私たちにはいつもと同じに見えましたし、むしろ本当にお綺麗だったのですが……」
「鏡の見え方がおかしい、と?」
「そこまでは。ご本人は、何度も確認していらっしゃいました。ただ、何が気に入らないのか、最後までわかりませんでした」
化粧師は、他人の顔を整えるときには迷わなかった。
どこを直せば美しくなるのか。どこを残し、どこを整えれば、自分の考える完成形に近づくのか。
彼女には、それがわかっていた。
だが、自分の顔だけは違った。
何を直しても、何を取り除いても、納得できない。いつものように美しく仕上げたはずなのに、鏡の中には、どうしても受け入れられない顔があった。
誰も異常を認めなかった。
彼女自身も、何がおかしいのかを説明できなかったという。
それでも、彼女は鏡から目を離せなくなっていった。
サエキは、仕事場にも、化粧品にも、鏡にも異常がなかったことを確認した。化粧師が何者かに脅されていた形跡も、明確な対人トラブルも見つからなかった。
再調査でも、怪異の痕跡は確認できなかった。
最後にサエキは、仕事場に残された資料を確認した。
化粧師が最後に担当した故人の記録。その仕上がりについて、簡潔な所見が残されていた。
――笑顔の完成度に問題なし。
サエキは、その一文を読み返した。
関係者の話では、棺の中の故人は笑っていなかったという。
記録にあるような笑顔を、誰も覚えていなかった。
書き間違いかもしれない。別の作業記録と混同したのかもしれない。あるいは、担当者だけが納得する仕上がりだったのかもしれない。
理由はいくらでも考えられた。
サエキは、記録に添付された写真を開いた。
故人は静かに目を閉じていた。唇は閉じられ、頬にも目尻にも、笑顔を示すような動きは見られない。
やはり、記録の誤りだろう。
そう判断し、サエキは写真を閉じた。
暗くなった画面に、自分の顔が映った。
疲れた顔だった。長い調査を終えた人間の顔として、特におかしなところはない。
そう思って目を離しかけたとき、口元に違和感を覚えた。
笑っているように見えた。
サエキは動きを止めた。
画面の中の自分は、いつもの顔をしていた。口元も、目も、何も変わっていない。
瞬きをして、もう一度確かめる。
やはり、何もおかしくなかった。
疲労だろう。
サエキは端末を伏せた。
その夜、帰宅してからも、記録の一文が頭から離れなかった。
翌朝、サエキは改めて写真を確認した。
故人は、静かに目を閉じている。
笑ってなどいない。
昨夜の違和感も、画面に映った自分の顔も、疲労による見間違いとして片づけられるだろう。
サエキは報告書に、再調査でも怪異の痕跡は確認できなかった、と記した。
それで仕事は終わりのはずだった。
最後に資料を整理しようと、記録を開く。
写真は変わっていなかった。
故人の顔も、閉じた目も、静かな口元も、昨夜と同じだった。
ただ、その下に添えられた一文も、変わらずそこにあった。
――笑顔の完成度に問題なし。
サエキは、画面を閉じた。
今度は、何度も確かめることはしなかった。
異聞始末録 記録者 サエキ
ワシオ氏の依頼により、死化粧師の女性について調査を実施。
対象は独自の美意識を持っていたが、犯罪や怪異の痕跡は確認できず。
後日、対象の自死を受けて再調査を行うも、異常を示す証拠は発見されなかった。
ただし、最後に担当した故人の記録には「笑顔の完成度に問題なし」との所見が残されていた。
写真に写る故人は笑っていない。記録の誤りと判断するが、あの一文が気にかかる。
ある日の化粧師
今日も、綺麗に仕上がった。ご遺族は泣いて喜んでいた。あの顔なら、きっと長く覚えていてくださるだろう。
生前の面影を残してほしい、と言われた。面影とは、なんて曖昧な言葉なのだろう。美しく整えることの、何がいけないのかしら。
少し口元を直しただけで、ずいぶん印象が変わった。ええ、こちらのほうがずっといい。
皆さん、最初は戸惑う。でも最後には、私の仕事を認めてくださる。美しさというものは、わかる人にしかわからないのね。
今日は鏡を見る時間が長かった。頬の線が気になる。昨日はこんなではなかったはずなのに。
何度直しても、違う。化粧を落としても、また塗っても、どうしても納得できない。
あの方たちの顔なら、迷わず整えられたのに。どうして自分の顔だけ、こんなにも難しいのだろう。
鏡の中の私は、私の知っている顔をしていない。どこを直せばいいのか、誰か教えて。
明日は、もう一度やり直そう。完璧になるまで、何度でも。
……ねえ、どうして笑っているの? 私は、まだ何も直せていないのに。




