単章 語らぬモノ
特別保管庫の整理は、サエキにとって気の進まない仕事のひとつだった。
呪物や魔導具の類いは、どれも扱いに注意を要する。封印が施されているからといって、必ずしも安全とは限らない。保管している間に性質が変化するものもあれば、持ち主のいない場所で奇妙な反応を示すものもある。
そのため、定期的な確認は欠かせなかった。
木箱を開け、記録と照らし合わせ、必要に応じて封印の状態を確かめる。そんな作業を繰り返していたとき、サエキは棚の奥に押し込まれた古い木箱を見つけた。
管理番号はない。
少なくとも、現在使われている保管記録には該当するものがなかった。
中に入っていたのは、一冊の古びた冊子だった。表紙には題名らしい文字が残っていたが、擦れていて判然としない。紙は黄ばみ、端は崩れかけている。それでも、文字を読むことはできそうだった。
サエキは慎重にページを開いた。
記されていたのは、各地に伝わる奇妙な話の断片だった。山道に現れる人影、潮の満ち引きとともに消える祠、夜明け前にだけ聞こえる鐘の音。土地の伝承を集めたものにも見えるが、記述には妙な偏りがある。
どの話も、何かが現れたことよりも、現れた後に周囲で何が起きたのかを重視していた。
そして、後半のページに差しかかったところで、サエキの手が止まった。
そこには、一匹の亀について記されていた。
長い年月を生き、山や海辺に姿を現す亀。人を襲うこともなく、餌を求める様子もない。ただ、時折その場に現れては、地を三度打つという。
名は、万年。
その名の由来については、特に説明がなかった。
続く文章も短い。
万年が三たび地を打つとき、外なるものの目はこちらを向く。
その一文の下には、別の筆跡で書き足されたような記述があった。
来訪は昔より絶えず。されど、近ごろは間を置かず。
サエキは、しばらくその文字を眺めていた。
外なるもの。
何を指しているのかは分からない。人の暮らす世界の外にある何かを指すのか、それとも、書き手にとって理解の及ばない存在をそう呼んだだけなのか。冊子には、それ以上の説明がなかった。
ただ、来訪が昔からあったこと。そして、近ごろはその間隔が短くなっているらしいこと。その二点だけは読み取れた。
もっとも、書き手が何をもって「近ごろ」としたのかは分からない。記述された時代も曖昧で、これだけで実際に何かが増えていると断定することはできなかった。
サエキは冊子の記述を記録し、残された地名を調べた。
いくつかの地名は現在の地図には見当たらなかったが、古い地誌をたどると、かつて山中に小さな社があった場所を指しているらしいと分かった。社はとうに失われ、周辺の道も使われなくなっている。
万年という亀が実在するのか。
冊子に書かれたことが、単なる伝承なのか。
確かめるには、現地へ赴くしかなかった。
数日後、サエキはその山を訪れた。
道は荒れていた。人が通らなくなって久しいのだろう。足元には枯れ枝が散らばり、草木が道筋を覆い隠している。地図を頼りに進むうち、かつて社があったという場所へたどり着いた。
そこには、社の痕跡らしい石材がいくつか残っているだけだった。
周囲を調べても、特に変わったものは見当たらない。
サエキは冊子を取り出し、該当する記述を読み返した。
万年は、山や海辺に現れる。
場所についての条件は、それだけだった。
「随分と大雑把な話だな」
独り言をこぼし、冊子をしまおうとした、そのときだった。
視界の端に、奇妙なものが映った。
社の跡から少し離れた木々の間に、巨大な亀がいた。
岩に似た甲羅は苔に覆われ、長い年月を経たもののように見えた。だが、岩ではない。頭も四肢も、確かにそこにある。静かに地面へ身を伏せているものの、その姿は周囲の景色から明らかに浮いていた。
サエキはすぐには近づかなかった。
生き物であることと、危険がないことは別の話だ。まして、古文書に記された存在であるなら、なおさら慎重になる必要がある。
亀は動かなかった。
サエキが位置を変えても、こちらを見ているのかどうかさえ判然としない。呼吸しているようにも見えなかった。
それでも、ただの岩ではないと感じさせる何かがあった。
「……万年、か」
名を口にした瞬間、亀の頭がわずかに動いた。
それだけだった。
サエキは距離を保ったまま、周囲の様子を確かめた。異臭はない。目に見える術式の痕跡も、何かが潜んでいると示す明確な兆候もない。だが、何も見つからないことが安全の証明になるわけではなかった。
やがて、亀がゆっくりと前脚を持ち上げた。
次の瞬間、地面が鳴った。
一度。
鈍い音が山の中へ広がった。揺れは大きくない。それでも、足元から伝わる感触は、単なる地響きとは違っていた。
二度。
周囲の鳥の声が途絶えた。
風は吹いていない。だが、木々の葉が一斉に裏返るように揺れた。
三度。
音が消えた。
静寂が訪れたのではない。山そのものが、何かを待つように息を潜めたのだ。
サエキは空を見上げた。
青空の一角が、歪んでいた。
雲が形を変えたのでも、陽炎が立ち上ったのでもない。空そのものが薄い膜のようにたわみ、その向こう側に、こちらとは異なる何かが覗いている。
色の境界が曖昧になり、見慣れた空の奥に、見覚えのない景色が重なった。
そこに何があるのか、サエキには判別できなかった。
輪郭らしきものが浮かんでは消えた。遠くに何かがあるようにも、空間そのものが折り重なっているようにも見える。目を凝らすほど、形は定まらなくなっていった。
それが何なのか、そもそも何かと呼べるものなのかさえ、分からなかった。
サエキは目を凝らした。
空の向こうにあるものが、こちらを見ているのかどうかも分からない。ただ、そこに何かが存在し、こちら側との境界に触れている。その感覚だけが、妙に生々しく伝わってきた。
やがて、歪みは薄れていった。
見慣れた空が戻り、木々の葉が何事もなかったかのように静まる。鳥の声も、少し遅れて山中に戻ってきた。
サエキは、しばらく空を見つめていた。
今の現象を、見間違いだったと片づけることはできない。だが、何が起きたのかを説明することもできなかった。
そのとき、視線を感じた。
サエキは空から目を離し、地上へ視線を戻した。
万年が、こちらを見ていた。
先ほどまでと同じ場所にいる。巨大な甲羅も、四肢も、何ひとつ変わっていない。それなのに、今は確かに、サエキを見つめているように感じられた。
「今のを見せるために、鳴らしたのか?」
問いかけても、返事はない。
万年は動かなかった。
警告だったのか。何かを知らせようとしたのか。それとも、ただ、あの瞬間に地を打つ必要があっただけなのか。
サエキには分からなかった。
ただ、冊子にあった言葉が頭から離れなかった。
来訪は昔より絶えず。されど、近ごろは間を置かず。
もし、あの記述が今も続く現象を指しているのなら。
これまでにも、何かがこちら側へ来ていた。そして今、何かが起きる間隔は、かつてより短くなっているのかもしれない。
だが、それが何を意味するのかは、まだ分からない。
空の歪みが、その兆候だったのか。
万年が地を打ったことと、空の向こうに現れたものとの間に、どのような関係があるのか。
あるいは、万年自身もまた、何かを見届けているだけなのか。
確かなことは、ひとつもなかった。
それでも、サエキはこの出来事を忘れるべきではないと考えた。冊子の記述と、実際に目撃した現象。その両方を記録し、持ち帰る必要がある。
サエキはもう一度、万年を見た。
亀は、まだこちらを見つめていた。
やがて、その頭がゆっくりと下がった。
四肢の動きが止まり、甲羅を支える身体から、先ほどまで感じられたわずかな気配さえも薄れていく。
万年は、再び不動の姿へ戻った。
その変化を見届けてから、サエキはようやく山を下りることにした。
背後を振り返っても、万年は動かなかった。そこにあるのは、長い年月を経た岩のような巨大な亀の姿だけだった。
麓へ戻る道すがら、サエキは何度も空を見上げた。
先ほどの歪みは、すでに跡形もない。山は静かで、空はいつもと変わらない。
それでも、何も起きていなかった頃と同じには見えなかった。
人の暮らす世界の外に、何があるのか。
そこにあるものは、何を望み、何を理由にこちら側へ手を伸ばすのか。
そもそも、あの歪みは何かがこちらへ近づいた結果なのか。それとも、こちら側からは知ることのできない何かが、ほんの一瞬だけ姿を現したにすぎないのか。
サエキには分からない。
万年は、そのすべてを知っていたのだろうか。
それとも、ただ、何かが近づくたびに地を打っているだけなのだろうか。
サエキは答えを得られないまま、山を後にした。
古い冊子は、保管庫へ持ち帰った後も、何度か読み返すことになるだろう。そこに書かれた言葉が、どこまで事実を伝えているのか。それを確かめるには、まだ材料が足りなかった。
ただ、万年が三度地を打ったこと。
その直後、空に異変が生じたこと。
そして、万年が再び動かなくなるまで、サエキを見つめていたこと。
この三つだけは、確かに起きた出来事だった。
山の上では、万年が再び沈黙していた。
空を見上げるでもなく、地を打つでもなく、ただそこに在り続けている。
まるで、次の警鐘を鳴らす時が来るのを待っているかのように。
異聞始末録 記録者サエキ
古い冊子に記された亀、万年。
三度の警鐘とともに、空間に異変が生じた。
あれが何であり、何のために現れたのかは分からない。
ただ、万年は異変が収まった後も、俺をじっと見つめていた。
あの眼差しが警告だったのなら――次に警鐘が鳴るとき、何が起きるのだろうか、それとも既に・・・
古き亀の憂い
長い年月を経ても、現世は安らぎから遠ざかるばかり。
境界の向こうから伸びる手は、かつてよりも頻繁にこちらへ触れようとしている。
警戒せねばならぬ。されど、我にできることは、ただ警鐘を鳴らすことのみ。
目の前を去った小さな命よ。お前はこれから、何を見て、何に巻き込まれるのか。
願わくば、その行く末に絶望ばかりではなく少しばかりでも安らぎを……いや、願うことしかできぬ我に、その資格はあるのだろうか。




