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異聞始末録  作者: 黒サケ缶EX
異聞始末録 甘美な呑魚
26/53

第一章 甘露様


「母の様子がおかしいんです」


男はそう切り出すと、机の上に一枚の写真を置いた。


写っていたのは、年配の女性だった。柔らかな笑みを浮かべ、庭先で花を抱えている。どこにでもいる、ごく普通の母親に見えた。


「病気をしたと聞いたのは、二か月ほど前です。ところが、しばらくして奇跡的に回復したと連絡がありましてね。それから様子がおかしくなった」


男は実業家だった。山間の小さな村で生まれ育ったが、若い頃に村を離れ、現在は都会で事業を営んでいる。


母親とは、長年にわたって電話やビデオ通話で連絡を取り続けていた。頻繁に帰郷するわけではなかったものの、互いの近況を伝え合う程度の関係は保っていたという。


「最初は、病気の後遺症かと思いました。受け答えがおかしいこともありましたが、年齢を考えれば、そういうこともあるでしょう」


男は写真の端を指でなぞった。


「ただ、ビデオ通話をしていると、どうにも気味が悪いんです。こちらを見ているはずなのに、目が合わない。話の途中で黙り込んだかと思うと、口だけをぱくぱく動かすこともあった」


やがて、母親からの連絡は途絶えた。


村人に様子を尋ねても、返ってくる答えは決まっていた。


――元気にしている。


それ以上の説明はなく、電話を取り次いでほしいと頼んでも、曖昧な返事で話を打ち切られる。


「実際に村へ戻ったんです。母には会えました。姿も声も、私の知っている母と変わらなかった」


男はそこで言葉を切った。


「けれど、あれは本当に母だったんでしょうか」


サエキは、男の顔を見た。


「ご自身では、どう考えていますか」


「分かりません。ただ、何かがおかしい。それだけは確かです」


男は怪異を信じていないと語った。


幼い頃から、故郷には奇妙な伝承があった。満月の夜に池へ現れる魚。その肉を食べれば病が治り、老いさえ遠ざかる。しかし、魚を食べた者はいずれ姿を消す。


男はそうした話を、非科学的な迷信として扱ってきた。


それでも、村を離れる際に受けた排斥に近い扱いと、幼い頃から聞かされてきた伝承への恐怖は、完全には消えていなかった。


帰郷した際、村人たちは彼を歓迎しなかった。かつての知人も、旧友も、母親の所在を尋ねる彼にまともに答えようとしない。


警察にも相談した。


しかし、母親の所在は分かっており、実際に面会もできている。本人も帰るよう告げている以上、担当者は家族間の問題や病気の可能性を疑い、事件性は薄いと判断した。


「怪異対策の専門機関があることは知っています。でも、警察と同じ公的な組織でしょう。まともに取り合ってもらえるとは思えませんでした」


「専門機関に相談したわけではないのですね」


「ええ。私が勝手に諦めたんです」


男は苦笑した。


「ですが、母を見捨てることもできなかった。あなたなら、少なくとも調べてくれると聞きました」


彼が提示した報酬は高額だった。調査の範囲や費用、結果の報告方法についても、具体的な条件が用意されていた。


サエキは契約内容を確認し、依頼を引き受けた。


「現地を調べます。結果については、分かったことと分からなかったことを分けて報告します」


「母を助けられると思いますか」


「現時点では、何とも言えません」


サエキは写真を机へ戻した。


「まずは、何が起きているのかを確かめましょう」


男は小さく頷いた。


彼は怪異を信じていない。


それでも、怪異でなければ説明できない何かを恐れていた。




村は、山に囲まれた広い地域に点在していた。


古い家屋が並ぶ中心部から離れれば、畑や林が続き、家と家の間にも相応の距離がある。住民全員が互いの行動を監視できるような場所ではなかった。


サエキは、地域の農産物や伝承を調べるために訪れた人物として村へ入った。


身分と目的を全面的に明かすことは避けたが、完全に姿を消すような真似はしない。目立たず、必要以上に印象を残さず、自然な範囲で情報を集める。


認識阻害も補助として用いた。目撃されても記憶に残りにくくする程度のものであり、誰からも認識されなくなるわけではない。


村の入口で、老人が畑仕事をしていた。


「この辺りには、古い伝承が多いそうですね」


サエキが声をかけると、老人は鍬を止めた。


「よそから来た方ですか」


「ええ。土地の話を少し調べていまして」


「そうですか。大した話はありませんよ」


老人はそれだけ答えると、再び鍬を動かし始めた。


サエキは無理に話を続けなかった。


この村では、外部の人間に対する警戒が強い。初対面の相手から得られる情報には限りがある。


数日かけて調べる必要がありそうだった。


その日のうちに、サエキは村の地理を把握し、池へ続く道を確認した。池は村の中心から少し離れた場所にあり、周囲には古い祠が建っていた。


昼間、池の水面は静かだった。


水底には、大小さまざまな魚が泳いでいる。


しかし、魚の姿を見ていると、どうにも違和感があった。


どれも動きが少ない。水中にいる生物というより、何かを待っているように見えた。


サエキはしばらく観察したが、目立った変化は確認できなかった。


日が暮れる前に、池を離れた。


今はまだ、確かな証拠がない。


伝承だけを根拠に怪異の正体を決めつけるわけにはいかなかった。




二日目の夕方、サエキは村から少し離れた家の近くで、若者たちの話し声を耳にした。


「また、あいつの家に行ったのか」


「行ったって、会わせてもらえなかったよ」


「そりゃそうだろ。家族だって、もう関わりたくないんじゃないか」


話題になっていたのは、体調を崩した後、奇跡的に回復したという若者の知人だった。


その人物は、回復してから少しずつ様子がおかしくなったという。以前なら当たり前にできていた会話が成立しなくなり、目の前にいる相手を認識しているのかどうかも怪しい。


家族は外部の人間との接触を避けるようになり、親しかった仲間でさえ会えなくなっていた。


「病気が治ったんだろ。それなら、いいことじゃないか」


「本当に治ったのかよ」


若者の一人が、苛立った声を上げた。


「この村じゃ、昔からそういう話があるだろ。魚を食べたら病気が治る。でも、食べた奴はおかしくなるって」


「子供の頃の話だろ」


「じゃあ、なんで誰も説明してくれないんだよ」


その場が静かになった。


サエキは、彼らが伝承の詳細を知っているわけではないことを理解した。


彼らが知っているのは、村に奇妙な話があること。そして、病気から回復した人間が、以前とは違う様子を見せることだった。


サエキは姿を現した。


「少し、お話を伺ってもよろしいですか」


若者たちは一斉に警戒した。


「誰だ、あんた」


「この地域の伝承を調べています。先ほどの話に、興味がありまして」


「聞いてたのかよ」


「偶然です。無理に話していただく必要はありません」


サエキは、調査への協力を求めた。


もちろん、無償で危険を冒してほしいとは言わなかった。協力に対する報酬を提示し、必要な作業と責任の範囲を説明した。


若者たちはすぐには応じなかった。


それでも、村の異常さを感じながら、誰にも取り合ってもらえなかった者たちにとって、事情を調べようとする外部の人間は無視できない存在だった。


「俺たちだって、何も知らないんだぞ」


「承知しています。知っていることと、実際に起きていることは違うでしょう。証言だけで結論を出すつもりはありません」


しばらく相談した後、若者の一人が協力を承諾した。


その家を拠点に、数日間の調査を行うことになった。




三日目、サエキは若者たちから村の伝承について詳しく聞き取った。


満月の夜、池に現れる魚。


その魚の肉を食べれば、病が治る。


しかし、食べた者は少しずつ様子がおかしくなり、いずれ池へ向かうようになる。


村では、その魚を甘露様と呼んでいた。


「村長たちは、魚を神様みたいに扱っているんです」


若者の一人が言った。


「でも、俺たちは魚を食べたこともないし、実際に何が起きるのかも知らない。年寄りに聞いても、気にするなって言われるだけです」


「村長や、その周囲の人間はどうですか」


「昔から村のことを仕切っている人たちです。外の人間が来ると、すごく嫌がります」


「最近、変わった様子は?」


若者は少し考えた。


「村長は、昔からあんな感じだったと思います。ただ、ここ数年は、何を言っても話が通じないことが増えました。こっちが質問しても、同じことしか答えないんです」


サエキは、その話を記録した。


村長たちの態度が、単なる慣習や警戒心によるものなのか。それとも、怪異の影響があるのか。


まだ断定はできない。


四日目には、病気から回復した者の家を遠くから観察した。窓越しに見えた人物は、椅子に座ったまま、何もない空間へ向かって口を動かしていた。


声は聞こえない。


だが、時折、喉が大きく膨らむような動きを見せた。


サエキは視線を外さず、記録を取った。


五日目には、池の周囲と祠を改めて調べた。


祠の裏には、古い石段があった。その先には洞穴があり、内部には古文書が残されていた。


そこには、かつて飢饉に苦しんだ村人が魚を食べ、病を克服したという話が記されていた。


その後、魚を食べた者たちは、異常な再生能力を得た。


傷が塞がり、骨が砕けても死ななくなり、やがて夜になると池へ向かうようになった。


最後の頁には、こう書かれていた。


――魚は、我らに命を与えたのではない。


――我らの命を、少しずつ食べていたのだ。


サエキは古文書を閉じた。


伝承と現在の異変には、確かに共通点がある。


しかし、これだけで怪異の全容が分かったわけではない。


魚の肉が人間に何をもたらすのか。なぜ再生能力が生じるのか。なぜ村人たちは魚のもとへ向かうのか。


それらを確かめるには、現象そのものを観察する必要があった。


そして、その機会は満月の夜に訪れる。


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