第一章 甘露様
「母の様子がおかしいんです」
男はそう切り出すと、机の上に一枚の写真を置いた。
写っていたのは、年配の女性だった。柔らかな笑みを浮かべ、庭先で花を抱えている。どこにでもいる、ごく普通の母親に見えた。
「病気をしたと聞いたのは、二か月ほど前です。ところが、しばらくして奇跡的に回復したと連絡がありましてね。それから様子がおかしくなった」
男は実業家だった。山間の小さな村で生まれ育ったが、若い頃に村を離れ、現在は都会で事業を営んでいる。
母親とは、長年にわたって電話やビデオ通話で連絡を取り続けていた。頻繁に帰郷するわけではなかったものの、互いの近況を伝え合う程度の関係は保っていたという。
「最初は、病気の後遺症かと思いました。受け答えがおかしいこともありましたが、年齢を考えれば、そういうこともあるでしょう」
男は写真の端を指でなぞった。
「ただ、ビデオ通話をしていると、どうにも気味が悪いんです。こちらを見ているはずなのに、目が合わない。話の途中で黙り込んだかと思うと、口だけをぱくぱく動かすこともあった」
やがて、母親からの連絡は途絶えた。
村人に様子を尋ねても、返ってくる答えは決まっていた。
――元気にしている。
それ以上の説明はなく、電話を取り次いでほしいと頼んでも、曖昧な返事で話を打ち切られる。
「実際に村へ戻ったんです。母には会えました。姿も声も、私の知っている母と変わらなかった」
男はそこで言葉を切った。
「けれど、あれは本当に母だったんでしょうか」
サエキは、男の顔を見た。
「ご自身では、どう考えていますか」
「分かりません。ただ、何かがおかしい。それだけは確かです」
男は怪異を信じていないと語った。
幼い頃から、故郷には奇妙な伝承があった。満月の夜に池へ現れる魚。その肉を食べれば病が治り、老いさえ遠ざかる。しかし、魚を食べた者はいずれ姿を消す。
男はそうした話を、非科学的な迷信として扱ってきた。
それでも、村を離れる際に受けた排斥に近い扱いと、幼い頃から聞かされてきた伝承への恐怖は、完全には消えていなかった。
帰郷した際、村人たちは彼を歓迎しなかった。かつての知人も、旧友も、母親の所在を尋ねる彼にまともに答えようとしない。
警察にも相談した。
しかし、母親の所在は分かっており、実際に面会もできている。本人も帰るよう告げている以上、担当者は家族間の問題や病気の可能性を疑い、事件性は薄いと判断した。
「怪異対策の専門機関があることは知っています。でも、警察と同じ公的な組織でしょう。まともに取り合ってもらえるとは思えませんでした」
「専門機関に相談したわけではないのですね」
「ええ。私が勝手に諦めたんです」
男は苦笑した。
「ですが、母を見捨てることもできなかった。あなたなら、少なくとも調べてくれると聞きました」
彼が提示した報酬は高額だった。調査の範囲や費用、結果の報告方法についても、具体的な条件が用意されていた。
サエキは契約内容を確認し、依頼を引き受けた。
「現地を調べます。結果については、分かったことと分からなかったことを分けて報告します」
「母を助けられると思いますか」
「現時点では、何とも言えません」
サエキは写真を机へ戻した。
「まずは、何が起きているのかを確かめましょう」
男は小さく頷いた。
彼は怪異を信じていない。
それでも、怪異でなければ説明できない何かを恐れていた。
村は、山に囲まれた広い地域に点在していた。
古い家屋が並ぶ中心部から離れれば、畑や林が続き、家と家の間にも相応の距離がある。住民全員が互いの行動を監視できるような場所ではなかった。
サエキは、地域の農産物や伝承を調べるために訪れた人物として村へ入った。
身分と目的を全面的に明かすことは避けたが、完全に姿を消すような真似はしない。目立たず、必要以上に印象を残さず、自然な範囲で情報を集める。
認識阻害も補助として用いた。目撃されても記憶に残りにくくする程度のものであり、誰からも認識されなくなるわけではない。
村の入口で、老人が畑仕事をしていた。
「この辺りには、古い伝承が多いそうですね」
サエキが声をかけると、老人は鍬を止めた。
「よそから来た方ですか」
「ええ。土地の話を少し調べていまして」
「そうですか。大した話はありませんよ」
老人はそれだけ答えると、再び鍬を動かし始めた。
サエキは無理に話を続けなかった。
この村では、外部の人間に対する警戒が強い。初対面の相手から得られる情報には限りがある。
数日かけて調べる必要がありそうだった。
その日のうちに、サエキは村の地理を把握し、池へ続く道を確認した。池は村の中心から少し離れた場所にあり、周囲には古い祠が建っていた。
昼間、池の水面は静かだった。
水底には、大小さまざまな魚が泳いでいる。
しかし、魚の姿を見ていると、どうにも違和感があった。
どれも動きが少ない。水中にいる生物というより、何かを待っているように見えた。
サエキはしばらく観察したが、目立った変化は確認できなかった。
日が暮れる前に、池を離れた。
今はまだ、確かな証拠がない。
伝承だけを根拠に怪異の正体を決めつけるわけにはいかなかった。
二日目の夕方、サエキは村から少し離れた家の近くで、若者たちの話し声を耳にした。
「また、あいつの家に行ったのか」
「行ったって、会わせてもらえなかったよ」
「そりゃそうだろ。家族だって、もう関わりたくないんじゃないか」
話題になっていたのは、体調を崩した後、奇跡的に回復したという若者の知人だった。
その人物は、回復してから少しずつ様子がおかしくなったという。以前なら当たり前にできていた会話が成立しなくなり、目の前にいる相手を認識しているのかどうかも怪しい。
家族は外部の人間との接触を避けるようになり、親しかった仲間でさえ会えなくなっていた。
「病気が治ったんだろ。それなら、いいことじゃないか」
「本当に治ったのかよ」
若者の一人が、苛立った声を上げた。
「この村じゃ、昔からそういう話があるだろ。魚を食べたら病気が治る。でも、食べた奴はおかしくなるって」
「子供の頃の話だろ」
「じゃあ、なんで誰も説明してくれないんだよ」
その場が静かになった。
サエキは、彼らが伝承の詳細を知っているわけではないことを理解した。
彼らが知っているのは、村に奇妙な話があること。そして、病気から回復した人間が、以前とは違う様子を見せることだった。
サエキは姿を現した。
「少し、お話を伺ってもよろしいですか」
若者たちは一斉に警戒した。
「誰だ、あんた」
「この地域の伝承を調べています。先ほどの話に、興味がありまして」
「聞いてたのかよ」
「偶然です。無理に話していただく必要はありません」
サエキは、調査への協力を求めた。
もちろん、無償で危険を冒してほしいとは言わなかった。協力に対する報酬を提示し、必要な作業と責任の範囲を説明した。
若者たちはすぐには応じなかった。
それでも、村の異常さを感じながら、誰にも取り合ってもらえなかった者たちにとって、事情を調べようとする外部の人間は無視できない存在だった。
「俺たちだって、何も知らないんだぞ」
「承知しています。知っていることと、実際に起きていることは違うでしょう。証言だけで結論を出すつもりはありません」
しばらく相談した後、若者の一人が協力を承諾した。
その家を拠点に、数日間の調査を行うことになった。
三日目、サエキは若者たちから村の伝承について詳しく聞き取った。
満月の夜、池に現れる魚。
その魚の肉を食べれば、病が治る。
しかし、食べた者は少しずつ様子がおかしくなり、いずれ池へ向かうようになる。
村では、その魚を甘露様と呼んでいた。
「村長たちは、魚を神様みたいに扱っているんです」
若者の一人が言った。
「でも、俺たちは魚を食べたこともないし、実際に何が起きるのかも知らない。年寄りに聞いても、気にするなって言われるだけです」
「村長や、その周囲の人間はどうですか」
「昔から村のことを仕切っている人たちです。外の人間が来ると、すごく嫌がります」
「最近、変わった様子は?」
若者は少し考えた。
「村長は、昔からあんな感じだったと思います。ただ、ここ数年は、何を言っても話が通じないことが増えました。こっちが質問しても、同じことしか答えないんです」
サエキは、その話を記録した。
村長たちの態度が、単なる慣習や警戒心によるものなのか。それとも、怪異の影響があるのか。
まだ断定はできない。
四日目には、病気から回復した者の家を遠くから観察した。窓越しに見えた人物は、椅子に座ったまま、何もない空間へ向かって口を動かしていた。
声は聞こえない。
だが、時折、喉が大きく膨らむような動きを見せた。
サエキは視線を外さず、記録を取った。
五日目には、池の周囲と祠を改めて調べた。
祠の裏には、古い石段があった。その先には洞穴があり、内部には古文書が残されていた。
そこには、かつて飢饉に苦しんだ村人が魚を食べ、病を克服したという話が記されていた。
その後、魚を食べた者たちは、異常な再生能力を得た。
傷が塞がり、骨が砕けても死ななくなり、やがて夜になると池へ向かうようになった。
最後の頁には、こう書かれていた。
――魚は、我らに命を与えたのではない。
――我らの命を、少しずつ食べていたのだ。
サエキは古文書を閉じた。
伝承と現在の異変には、確かに共通点がある。
しかし、これだけで怪異の全容が分かったわけではない。
魚の肉が人間に何をもたらすのか。なぜ再生能力が生じるのか。なぜ村人たちは魚のもとへ向かうのか。
それらを確かめるには、現象そのものを観察する必要があった。
そして、その機会は満月の夜に訪れる。




