終章 姿形
満月の夜。
池の水面は、月明かりを受けて淡い黄金色に輝いていた。
甘い香りが、周囲に漂っている。
花の蜜にも似た香りだったが、その奥には腐った肉のような臭いが混じっていた。
サエキは池から少し離れた場所で、村人たちの動きを観察していた。
やがて、村長と数人の老人が現れた。
彼らは池の縁に並び、静かに水面を見つめている。
その背後には、何人もの村人が集まっていた。
「甘露様」
村長が呟いた。
「どうか、我らに恵みを」
水面が盛り上がった。
銀白色の背びれが現れ、続いて巨大な頭部が水面を割った。
魚の大きさは、池にいる生物としては異常だった。長い胴体が水中に沈み、金色の眼が月光を反射している。
甘露様。
村人たちがそう呼ぶ存在が、姿を現した。
魚が口を開いた。
その奥には、無数の歯が並んでいた。
しかし、村人たちは恐れなかった。
むしろ、歓喜の声を上げた。
「甘露様!」
「どうか、我らをお救いください!」
魚の口から、甘い霧が吐き出された。
霧に触れた村人たちは、次々と池へ歩き始めた。
その中には、サエキが調査中に見かけた人物もいた。
彼らの首筋には、銀色の鱗が浮かんでいる。
目は濁り、口が魚のように動いていた。
それでも、全員が同じ方向へ歩いている。
魚のもとへ。
サエキは拳銃を抜いた。
麻酔弾を装填する。
先頭を歩いていた男の太腿へ、一発。
男はよろめいたが、倒れなかった。
続けて肩へ撃ち込む。
今度は膝をついた。
しかし、男はすぐに立ち上がろうとする。
傷口が、目の前で塞がっていった。
「……再生能力か」
サエキは距離を取り、法力を展開した。
淡い光が地面を走り、池へ向かう村人たちの足を止める。
複数人を同時に拘束することはできたが、彼らは見えない力に逆らうように身体を震わせていた。
「止まってください。あなた方を傷つけるつもりはありません」
返答はなかった。
村人たちの喉から、湿った音が漏れた。
そして、彼らは一斉に顔を上げた。
その瞳には、恐怖も怒りもない。
ただ、魚を求める意思だけがあった。
村長が振り返った。
「邪魔をするな」
声は静かだった。
「我らは、救われるのだ」
「あなた方が受けているのは救済ではありません」
「何を知っている」
村長は笑った。
「我らは病を克服した。老いを遠ざけた。死から解放されたのだ」
「その代わりに、何を失ったのですか」
村長の笑みが深くなった。
「何も」
その瞬間、サエキは違和感を覚えた。
村長の顔には、銀色の鱗が広がっていた。首筋だけではない。頬も、額も、皮膚の大部分が魚の鱗に覆われている。
それでも、彼は普通に立ち、普通に話していた。
いや、普通に見えるように振る舞っているだけなのかもしれない。
「……あなたは、もう」
サエキが言いかけた時、村長が腕を上げた。
背後にいた老人たちが、一斉に動いた。
彼らの身体は、異常なほど速かった。
サエキは横へ跳び、振り下ろされた腕をかわした。続く一撃を法力で受け流し、相手の足元を拘束する。
老人は地面に倒れた。
だが、すぐに起き上がろうとする。
サエキは麻酔弾を撃ち込んだ。
老人の身体が震え、動きが鈍る。
完全に止まったわけではないが、追撃する必要はなかった。
サエキは相手を踏みつけず、距離を取った。
「動かないでください。あなた方を殺すつもりはありません」
しかし、村長たちは止まらなかった。
彼らの身体は、怪異の力によって維持されている。
麻酔弾だけでは十分な制圧は難しく、法力による拘束も、長時間は保たない。
それでも、サエキは殺傷を避けた。
彼らが怪異に侵食されていることと、彼らを殺してよいことは、同じではない。
だが、魚は待ってくれなかった。
尾が水面を叩いた。
巨大な水柱が岸辺を覆い、サエキの身体を横殴りに打ちつける。
彼は地面を転がり、石垣に背中を打った。
息が詰まる。
それでも、手にした拳銃は離さなかった。
魚は池から半身を乗り出し、サエキへ向かって口を開いた。
その口の奥で、金色の光が明滅していた。
魚が突進する。
サエキは横へ跳び、法力を放った。
淡い光が魚の頭部を包み込む。
一瞬、魚の動きが止まった。
しかし、次の瞬間、魚の鱗が逆立ち、光が弾けた。
サエキは眉をひそめた。
魚そのものを拘束するには、力が足りない。
そのうえ、村人たちを同時に拘束し続けることも難しい。
どちらかに集中すれば、もう一方が危険に晒される。
魚は、村人たちを操りながら、サエキの力を削っている。
サエキは法力を広げ、村人たちの動きを止めた。
その瞬間、魚の尾が迫った。
避けきれなかった。
尾が脇腹を掠め、身体が地面を滑る。
激痛が走った。
肋骨にひびが入ったかもしれない。
それでも、サエキは立ち上がった。
村長たちを見た。
彼らの顔には、苦痛すら浮かんでいなかった。
魚が鳴いた。
音というよりも、頭の中へ直接響く声だった。
――帰っておいで。
村人たちの身体が震えた。
法力による拘束に、亀裂が入る。
彼らは池へ向かおうとした。
サエキは歯を食いしばり、法力を強めた。
「……させませんよ」
サエキは、魚の動きを観察した。
魚は、村人たちを食べることに固執している。
ただの捕食者なら、これほど長い時間をかけて人間を変質させる必要はない。
魚の肉を食べた者は、肉体を侵食される。同時に、魚本体から干渉を受けるようになる。
干渉の強さには個人差がある。
自我を保っている者もいれば、判断力や記憶を失い、魚の意思に従うようになった者もいる。
村長たちは、その過程が極端に進んだ存在なのだろう。
そして、魚は彼らを自らの一部へ変えようとしている。
サエキは法力を細く伸ばし、池の水面へ走らせた。
魚の身体から放たれる力が、水中へ広がっている。
その中心に、奇妙な一点があった。
魚の腹部に近い場所だった。
魚が身を捩った。
水面が大きく波打つ。
サエキは法力を一点へ集中させた。
魚の身体が硬直する。
同時に、村人たちの動きがわずかに鈍った。
「なるほど……」
魚の力は、村人たちと繋がっている。
ならば、その繋がりを断てばいい。
サエキは村人たちへの拘束を一時的に緩め、魚の腹部へ法力を集中させた。
魚が口を開いた。
無数の白い糸のようなものが、喉の奥から伸びてくる。
糸は村人たちへ向かっていた。
サエキは法力を広げ、糸を遮断した。
白い糸が弾ける。
その瞬間、村人たちが次々と地面へ倒れた。
魚との繋がりが、一時的に切れたのだ。
村長が、初めて苦痛に顔を歪めた。
「甘露様……!」
その声には、先ほどまでの確信がなかった。
サエキは、魚の腹部を見た。
金色の鱗が一枚だけ、逆向きに生えている。
周囲の鱗とは異なり、その鱗だけは光を反射せず、内側から淡く輝いていた。
中核かもしれない。
サエキは拳銃を構えた。
麻酔弾では破壊できないだろう。
彼は法力を弾丸へ纏わせた。
魚が暴れた。
尾が池の縁を叩き、石灯籠が砕ける。
サエキは狙いを定め、引き金を引いた。
弾丸が金色の鱗へ命中した。
乾いた音が響いた。
鱗に亀裂が走る。
魚の身体が硬直した。
次の瞬間、池全体が震えた。
魚は苦しむように身を捩り、口を大きく開いた。
甘い霧が噴き出す。
サエキは法力を広げ、霧を押し返した。
魚の身体が崩れ始めた。
金色の鱗が次々と剥がれ落ち、その下から白く濁った肉が露わになる。
それでも、魚は最後の力を振り絞るように、サエキへ突進した。
彼は逃げなかった。
法力を両手に集中させ、魚の頭部を正面から受け止める。
地面が砕けた。
足が土へ沈み、腕が痺れる。
魚の顎が、目の前まで迫った。
サエキは歯を食いしばった。
「あなたの食事は、ここまでです」
法力が、魚の身体を包み込んだ。
金色の光が弾けた。
魚の巨体が地面へ落ち、尾が一度だけ水面を叩いた。
そして、動かなくなった。
池に静寂が戻った。
甘い香りが、少しずつ薄れていった。
夜明け前、サエキは村人たちの状態を確認していた。
怪異との繋がりが断たれたことで、村人たちへの干渉は弱まっていた。
しかし、全員が同じ状態ではなかった。
意識を取り戻し、周囲を見回す者がいる一方で、地面に倒れたまま動かない者もいた。皮膚に残った鱗が剥がれ落ちる者もいれば、身体の一部が異様な形のまま変化しない者もいる。
再生能力は失われていた。
それが、彼らにとって救いとなるのか、さらなる苦痛の始まりとなるのか。
サエキには、まだ分からなかった。
村長と取り巻きは、池のそばに倒れていた。
彼らの身体は、すでに人間の形を保てなくなりつつあった。
皮膚が崩れ、骨格が歪み、身体の輪郭が泥のように溶けていく。
サエキは近づかなかった。
彼らは、怪異に操られていただけではない。
長年にわたって魚の影響を受け続け、肉体の維持そのものを怪異に依存するまでに侵食されていたのだ。
魚が消滅した今、その身体を支える仕組みも失われた。
村長の口が、かすかに動いた。
「……甘露様……」
それが最後だった。
身体は崩れ、やがて白い泥のようなものへ変わっていった。
取り巻きたちも、同じように消えていった。
サエキは、その場で記録を取った。
彼らは怪異の支配から解放されたのではない。
怪異が消えたことで、身体を維持できなくなったのだ。
一方、侵食が浅かった者たちは、まだ生きていた。
彼らの中には、泣きながら家族を呼ぶ者もいた。
怪異の干渉が途絶えたことで、意識を取り戻したのだろう。
だが、肉体に残った異常がすべて消えたわけではない。
サエキは周囲を見渡した。
池は濁り、金色の光は消えていた。
底には、砕けた鱗が沈んでいる。
甘露魚の亡骸は、夜明けとともに急速に崩れていった。
それでも、村人全員の所在を確認できたわけではなかった。
そして、依頼主の母親も。
サエキは、村の家々を確認した。
依頼主が話していた家には、母親の姿があった。
彼女は寝床に横たわっていた。
外見は、依頼主が見せた写真とほとんど変わらない。
サエキが声をかけても、返答はなかった。
呼吸は確認できる。
だが、目を開けても視線が合わず、口だけが小さく動いていた。
「……帰って」
かすかな声が漏れた。
「帰って……」
その言葉は、息子を案じる母親の声にも聞こえた。
しかし、サエキには、それが本当に彼女自身の意思なのか判断できなかった。
魚からの干渉が残っているのか。
かつての記憶が、反射的に言葉を再現しているのか。
あるいは、別の何かが母親の姿を保っているのか。
少なくとも、目の前にいる存在が、依頼主の知る母親そのものだとは言い切れなかった。
サエキは、彼女の状態を記録した。
救助できるかどうかについて、今ここで結論を出すことはできない。
だが、怪異が消滅したからといって、すべてが元に戻るわけではないことだけは確かだった。
事件の後、サエキは怪異対策専門機関へ連絡した。
現場の封鎖、村人の保護、身体に残った異常の調査、池と周辺地域の確認。個人で対応し続けるべき段階は、すでに過ぎていた。
サエキは、現場で確認した事実と推測を分けて報告した。
魚の肉を摂取した者には、肉体の侵食と精神的な干渉が生じること。
その影響には個人差があり、侵食が浅い者は干渉から解放される可能性があること。
一方、村長と取り巻きのように、身体の維持を怪異に依存するまで侵食が進んだ者は、怪異の消滅とともに身体が崩壊したこと。
そして、依頼主の母親については、外見と記憶に基づく反応が残っているものの、元の人格が保たれているとは判断できないこと。
怪異の正体や侵食の全容については、十分に解明できていない部分も残されていた。
サエキは、それらを断定せず、今後の調査事項として記録に残した。
その後、依頼主には、現地で確認できた事実が伝えられた。
母親の状態についても、サエキは分からないことを分からないまま伝えた。
依頼主は長い沈黙の後、尋ねた。
「……母は、まだ生きているのでしょうか」
「呼吸は確認できました。ただ、以前のあなたのお母様と同じ存在なのか、今後どうなるのかについては、私には断定できません」
「そうですか」
男は俯いた。
「私は、母を助けたかっただけなんです」
「分かっています」
サエキは、それ以上の言葉を重ねなかった。
慰めるために、根拠のない希望を与えるべきではない。
母親が戻ってくると約束することも、もう救えないと断言することも、今のサエキにはできなかった。
依頼主は、母親の写真を手に取った。
写真の中の女性は、穏やかな笑みを浮かべていた。
その笑顔が、もう二度と戻らないものなのか。
男には、まだ分からなかった。
人間は、幸福を求める。
病からの解放を望み、老いを恐れ、死を遠ざけようとする。
その願い自体を、誰が責められるだろう。
しかし、甘美なものが必ずしも善とは限らない。
時には、救いの形をした捕食者が、人間の願いを餌にしていることもある。
そして人間は、自らが食べられていると気づいてもなお、その甘さを忘れられないことがある。
村人たちは、甘露様を神と呼んだ。
病を治し、命を繋ぎ、死を遠ざける存在として。
だが、魚にとって人間は、救うべき相手ではなかったのかもしれない。
ただ、食べるための獲物だったのかもしれない。
それでも、魚を信じた人々の願いまで、すべて偽りだったと言えるのだろうか。
甘露魚。
甘美なるものを与え、最後にはすべてを呑み込む魚。




