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異聞始末録  作者: 黒サケ缶EX
異聞始末録 甘美な呑魚
27/58

終章 姿形



満月の夜。


池の水面は、月明かりを受けて淡い黄金色に輝いていた。


甘い香りが、周囲に漂っている。


花の蜜にも似た香りだったが、その奥には腐った肉のような臭いが混じっていた。


サエキは池から少し離れた場所で、村人たちの動きを観察していた。


やがて、村長と数人の老人が現れた。


彼らは池の縁に並び、静かに水面を見つめている。


その背後には、何人もの村人が集まっていた。


「甘露様」


村長が呟いた。


「どうか、我らに恵みを」


水面が盛り上がった。


銀白色の背びれが現れ、続いて巨大な頭部が水面を割った。


魚の大きさは、池にいる生物としては異常だった。長い胴体が水中に沈み、金色の眼が月光を反射している。


甘露様。


村人たちがそう呼ぶ存在が、姿を現した。


魚が口を開いた。


その奥には、無数の歯が並んでいた。


しかし、村人たちは恐れなかった。


むしろ、歓喜の声を上げた。


「甘露様!」


「どうか、我らをお救いください!」


魚の口から、甘い霧が吐き出された。


霧に触れた村人たちは、次々と池へ歩き始めた。


その中には、サエキが調査中に見かけた人物もいた。


彼らの首筋には、銀色の鱗が浮かんでいる。


目は濁り、口が魚のように動いていた。


それでも、全員が同じ方向へ歩いている。


魚のもとへ。


サエキは拳銃を抜いた。


麻酔弾を装填する。


先頭を歩いていた男の太腿へ、一発。


男はよろめいたが、倒れなかった。


続けて肩へ撃ち込む。


今度は膝をついた。


しかし、男はすぐに立ち上がろうとする。


傷口が、目の前で塞がっていった。


「……再生能力か」


サエキは距離を取り、法力を展開した。


淡い光が地面を走り、池へ向かう村人たちの足を止める。


複数人を同時に拘束することはできたが、彼らは見えない力に逆らうように身体を震わせていた。


「止まってください。あなた方を傷つけるつもりはありません」


返答はなかった。


村人たちの喉から、湿った音が漏れた。


そして、彼らは一斉に顔を上げた。


その瞳には、恐怖も怒りもない。


ただ、魚を求める意思だけがあった。


村長が振り返った。


「邪魔をするな」


声は静かだった。


「我らは、救われるのだ」


「あなた方が受けているのは救済ではありません」


「何を知っている」


村長は笑った。


「我らは病を克服した。老いを遠ざけた。死から解放されたのだ」


「その代わりに、何を失ったのですか」


村長の笑みが深くなった。


「何も」


その瞬間、サエキは違和感を覚えた。


村長の顔には、銀色の鱗が広がっていた。首筋だけではない。頬も、額も、皮膚の大部分が魚の鱗に覆われている。


それでも、彼は普通に立ち、普通に話していた。


いや、普通に見えるように振る舞っているだけなのかもしれない。


「……あなたは、もう」


サエキが言いかけた時、村長が腕を上げた。


背後にいた老人たちが、一斉に動いた。


彼らの身体は、異常なほど速かった。


サエキは横へ跳び、振り下ろされた腕をかわした。続く一撃を法力で受け流し、相手の足元を拘束する。


老人は地面に倒れた。


だが、すぐに起き上がろうとする。


サエキは麻酔弾を撃ち込んだ。


老人の身体が震え、動きが鈍る。


完全に止まったわけではないが、追撃する必要はなかった。


サエキは相手を踏みつけず、距離を取った。


「動かないでください。あなた方を殺すつもりはありません」


しかし、村長たちは止まらなかった。


彼らの身体は、怪異の力によって維持されている。


麻酔弾だけでは十分な制圧は難しく、法力による拘束も、長時間は保たない。


それでも、サエキは殺傷を避けた。


彼らが怪異に侵食されていることと、彼らを殺してよいことは、同じではない。


だが、魚は待ってくれなかった。


尾が水面を叩いた。


巨大な水柱が岸辺を覆い、サエキの身体を横殴りに打ちつける。


彼は地面を転がり、石垣に背中を打った。


息が詰まる。


それでも、手にした拳銃は離さなかった。


魚は池から半身を乗り出し、サエキへ向かって口を開いた。


その口の奥で、金色の光が明滅していた。


魚が突進する。


サエキは横へ跳び、法力を放った。


淡い光が魚の頭部を包み込む。


一瞬、魚の動きが止まった。


しかし、次の瞬間、魚の鱗が逆立ち、光が弾けた。


サエキは眉をひそめた。


魚そのものを拘束するには、力が足りない。


そのうえ、村人たちを同時に拘束し続けることも難しい。


どちらかに集中すれば、もう一方が危険に晒される。


魚は、村人たちを操りながら、サエキの力を削っている。


サエキは法力を広げ、村人たちの動きを止めた。


その瞬間、魚の尾が迫った。


避けきれなかった。


尾が脇腹を掠め、身体が地面を滑る。


激痛が走った。


肋骨にひびが入ったかもしれない。


それでも、サエキは立ち上がった。


村長たちを見た。


彼らの顔には、苦痛すら浮かんでいなかった。


魚が鳴いた。


音というよりも、頭の中へ直接響く声だった。


――帰っておいで。


村人たちの身体が震えた。


法力による拘束に、亀裂が入る。


彼らは池へ向かおうとした。


サエキは歯を食いしばり、法力を強めた。


「……させませんよ」




サエキは、魚の動きを観察した。


魚は、村人たちを食べることに固執している。


ただの捕食者なら、これほど長い時間をかけて人間を変質させる必要はない。


魚の肉を食べた者は、肉体を侵食される。同時に、魚本体から干渉を受けるようになる。


干渉の強さには個人差がある。


自我を保っている者もいれば、判断力や記憶を失い、魚の意思に従うようになった者もいる。


村長たちは、その過程が極端に進んだ存在なのだろう。


そして、魚は彼らを自らの一部へ変えようとしている。


サエキは法力を細く伸ばし、池の水面へ走らせた。


魚の身体から放たれる力が、水中へ広がっている。


その中心に、奇妙な一点があった。


魚の腹部に近い場所だった。


魚が身を捩った。


水面が大きく波打つ。


サエキは法力を一点へ集中させた。


魚の身体が硬直する。


同時に、村人たちの動きがわずかに鈍った。


「なるほど……」


魚の力は、村人たちと繋がっている。


ならば、その繋がりを断てばいい。


サエキは村人たちへの拘束を一時的に緩め、魚の腹部へ法力を集中させた。


魚が口を開いた。


無数の白い糸のようなものが、喉の奥から伸びてくる。


糸は村人たちへ向かっていた。


サエキは法力を広げ、糸を遮断した。


白い糸が弾ける。


その瞬間、村人たちが次々と地面へ倒れた。


魚との繋がりが、一時的に切れたのだ。


村長が、初めて苦痛に顔を歪めた。


「甘露様……!」


その声には、先ほどまでの確信がなかった。


サエキは、魚の腹部を見た。


金色の鱗が一枚だけ、逆向きに生えている。


周囲の鱗とは異なり、その鱗だけは光を反射せず、内側から淡く輝いていた。


中核かもしれない。


サエキは拳銃を構えた。


麻酔弾では破壊できないだろう。


彼は法力を弾丸へ纏わせた。


魚が暴れた。


尾が池の縁を叩き、石灯籠が砕ける。


サエキは狙いを定め、引き金を引いた。


弾丸が金色の鱗へ命中した。


乾いた音が響いた。


鱗に亀裂が走る。


魚の身体が硬直した。


次の瞬間、池全体が震えた。


魚は苦しむように身を捩り、口を大きく開いた。


甘い霧が噴き出す。


サエキは法力を広げ、霧を押し返した。


魚の身体が崩れ始めた。


金色の鱗が次々と剥がれ落ち、その下から白く濁った肉が露わになる。


それでも、魚は最後の力を振り絞るように、サエキへ突進した。


彼は逃げなかった。


法力を両手に集中させ、魚の頭部を正面から受け止める。


地面が砕けた。


足が土へ沈み、腕が痺れる。


魚の顎が、目の前まで迫った。


サエキは歯を食いしばった。


「あなたの食事は、ここまでです」


法力が、魚の身体を包み込んだ。


金色の光が弾けた。


魚の巨体が地面へ落ち、尾が一度だけ水面を叩いた。


そして、動かなくなった。


池に静寂が戻った。


甘い香りが、少しずつ薄れていった。




夜明け前、サエキは村人たちの状態を確認していた。


怪異との繋がりが断たれたことで、村人たちへの干渉は弱まっていた。


しかし、全員が同じ状態ではなかった。


意識を取り戻し、周囲を見回す者がいる一方で、地面に倒れたまま動かない者もいた。皮膚に残った鱗が剥がれ落ちる者もいれば、身体の一部が異様な形のまま変化しない者もいる。


再生能力は失われていた。


それが、彼らにとって救いとなるのか、さらなる苦痛の始まりとなるのか。


サエキには、まだ分からなかった。


村長と取り巻きは、池のそばに倒れていた。


彼らの身体は、すでに人間の形を保てなくなりつつあった。


皮膚が崩れ、骨格が歪み、身体の輪郭が泥のように溶けていく。


サエキは近づかなかった。


彼らは、怪異に操られていただけではない。


長年にわたって魚の影響を受け続け、肉体の維持そのものを怪異に依存するまでに侵食されていたのだ。


魚が消滅した今、その身体を支える仕組みも失われた。


村長の口が、かすかに動いた。


「……甘露様……」


それが最後だった。


身体は崩れ、やがて白い泥のようなものへ変わっていった。


取り巻きたちも、同じように消えていった。


サエキは、その場で記録を取った。


彼らは怪異の支配から解放されたのではない。


怪異が消えたことで、身体を維持できなくなったのだ。


一方、侵食が浅かった者たちは、まだ生きていた。


彼らの中には、泣きながら家族を呼ぶ者もいた。


怪異の干渉が途絶えたことで、意識を取り戻したのだろう。


だが、肉体に残った異常がすべて消えたわけではない。


サエキは周囲を見渡した。


池は濁り、金色の光は消えていた。


底には、砕けた鱗が沈んでいる。


甘露魚の亡骸は、夜明けとともに急速に崩れていった。


それでも、村人全員の所在を確認できたわけではなかった。


そして、依頼主の母親も。


サエキは、村の家々を確認した。


依頼主が話していた家には、母親の姿があった。


彼女は寝床に横たわっていた。


外見は、依頼主が見せた写真とほとんど変わらない。


サエキが声をかけても、返答はなかった。


呼吸は確認できる。


だが、目を開けても視線が合わず、口だけが小さく動いていた。


「……帰って」


かすかな声が漏れた。


「帰って……」


その言葉は、息子を案じる母親の声にも聞こえた。


しかし、サエキには、それが本当に彼女自身の意思なのか判断できなかった。


魚からの干渉が残っているのか。


かつての記憶が、反射的に言葉を再現しているのか。


あるいは、別の何かが母親の姿を保っているのか。


少なくとも、目の前にいる存在が、依頼主の知る母親そのものだとは言い切れなかった。


サエキは、彼女の状態を記録した。


救助できるかどうかについて、今ここで結論を出すことはできない。


だが、怪異が消滅したからといって、すべてが元に戻るわけではないことだけは確かだった。




事件の後、サエキは怪異対策専門機関へ連絡した。


現場の封鎖、村人の保護、身体に残った異常の調査、池と周辺地域の確認。個人で対応し続けるべき段階は、すでに過ぎていた。


サエキは、現場で確認した事実と推測を分けて報告した。


魚の肉を摂取した者には、肉体の侵食と精神的な干渉が生じること。


その影響には個人差があり、侵食が浅い者は干渉から解放される可能性があること。


一方、村長と取り巻きのように、身体の維持を怪異に依存するまで侵食が進んだ者は、怪異の消滅とともに身体が崩壊したこと。


そして、依頼主の母親については、外見と記憶に基づく反応が残っているものの、元の人格が保たれているとは判断できないこと。


怪異の正体や侵食の全容については、十分に解明できていない部分も残されていた。


サエキは、それらを断定せず、今後の調査事項として記録に残した。


その後、依頼主には、現地で確認できた事実が伝えられた。


母親の状態についても、サエキは分からないことを分からないまま伝えた。


依頼主は長い沈黙の後、尋ねた。


「……母は、まだ生きているのでしょうか」


「呼吸は確認できました。ただ、以前のあなたのお母様と同じ存在なのか、今後どうなるのかについては、私には断定できません」


「そうですか」


男は俯いた。


「私は、母を助けたかっただけなんです」


「分かっています」


サエキは、それ以上の言葉を重ねなかった。


慰めるために、根拠のない希望を与えるべきではない。


母親が戻ってくると約束することも、もう救えないと断言することも、今のサエキにはできなかった。


依頼主は、母親の写真を手に取った。


写真の中の女性は、穏やかな笑みを浮かべていた。


その笑顔が、もう二度と戻らないものなのか。


男には、まだ分からなかった。

人間は、幸福を求める。


病からの解放を望み、老いを恐れ、死を遠ざけようとする。


その願い自体を、誰が責められるだろう。


しかし、甘美なものが必ずしも善とは限らない。


時には、救いの形をした捕食者が、人間の願いを餌にしていることもある。


そして人間は、自らが食べられていると気づいてもなお、その甘さを忘れられないことがある。


村人たちは、甘露様を神と呼んだ。


病を治し、命を繋ぎ、死を遠ざける存在として。


だが、魚にとって人間は、救うべき相手ではなかったのかもしれない。


ただ、食べるための獲物だったのかもしれない。


それでも、魚を信じた人々の願いまで、すべて偽りだったと言えるのだろうか。


甘露魚。


甘美なるものを与え、最後にはすべてを呑み込む魚。

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