第一章 裁きを名乗るモノ
仕事を終えた頃には、日付が変わろうとしていた。
繁華街にはまだ明かりが残っていた。店先から漏れる音楽や、酔客の笑い声も聞こえてくる。だが、一本裏へ入れば人通りはまばらになり、表通りの賑わいも急に遠のいた。
サエキは上着の襟を整え、帰路につこうとしていた。
そのとき、路地の奥から悲鳴が聞こえた。
続いて、何かが床に倒れる音がする。
サエキは足を止めた。
声が聞こえたのは、長いこと使われていないらしい雑居ビルだった。入口のガラス戸は割れ、壁には剥がれかけた広告が残っている。建物の周囲に人影はなく、明かりも点いていなかった。
面倒事の匂いがする。
できることなら、そのまま立ち去りたいところだった。サエキは正義のために生きているわけではない。頼まれた仕事をこなし、必要があれば人を助ける。それだけだ。
しかし、助けを求める声を聞いてしまった以上、何も確かめずに帰るのも後味が悪い。
サエキは周囲を警戒しながら、ビルの中へ入った。
階段を上がり、薄暗い廊下を進む。割れた窓から街灯の光が差し込み、床に散らばったガラス片を照らしていた。明かりは十分とはいえないが、サエキの目には廊下の奥まで見通せる程度の光があった。
やがて、廊下の奥に人影が二つ見えた。
一人は床に倒れている。もう一人は、その傍らに立っていた。
立っている人物は、スーツにコート、帽子という装いだった。夜の街を歩いていても、服装だけならさほど目立たなかっただろう。少なくとも、遠目に見た限りでは、仕事帰りの人間と見分けがつかなかった。
だが、その顔は違った。
帽子の影にあるものは、人間の顔を模したものですらなかった。目鼻に相当する部分は見て取れるものの、人間の顔を形作る構造とは根本的に異なっている。人間の顔に似せようとした何かが、必要な部品だけを並べ、形を整えることを忘れたような異様さだった。
人間の服を着た、人間ではない何か。
そいつが、足元の男を見下ろしていた。
「そこまでだ」
サエキの声に、怪異が振り向いた。
返事はなかった。
怪異は突然現れたサエキを眺めている。逃げようとする様子も、慌てる様子もない。まるで、そこに新しい観察対象が現れたとでもいうような反応だった。
サエキは倒れている男を確認した。動く気配はない。怪異の手元にも注意を払い、周囲の様子を見極めようとする。
しかし、相手が何者なのかも、なぜ男が倒れているのかもわからなかった。
少なくとも、目の前の存在が危険であることだけは明らかだった。
サエキは銃を抜いた。
銃口を怪異へ向ける。
「動くな」
怪異は応じなかった。
次の瞬間、サエキは引き金を引いた。
サプレッサーによって抑えられた銃声が、廊下に響く。
弾丸は怪異の身体を捉えた。
だが、怪異は倒れなかった。
よろめくことも、痛みに反応することもない。銃撃を受けたという事実そのものが、そいつにとって何の意味も持たないかのようだった。
サエキは銃口を向けたまま、怪異の様子を観察する。
人間ならば、少なくとも何らかの反応を示すはずだ。傷を負ったならば痛みを感じ、衝撃を受けたならば姿勢を崩す。ところが、目の前の存在には、そのどれもが当てはまらない。
怪異は一歩踏み出した。
その動きは速かった。
サエキは即座に身をひねり、攻撃をかわす。怪異の腕が空を切り、そのまま壁にぶつかった。
鈍い音が響く。
壁に当たった腕の勢いは、人間のものとは思えなかった。それでも怪異は、腕をぶつけたことを気にする様子もなく、再びサエキへ向き直った。
サエキは距離を取り、銃を構え直す。
だが、怪異は追撃してこなかった。
両者の間に、短い沈黙が落ちた。
「お前は何者だ?」
サエキが問いかける。
怪異はしばらく黙っていた。こちらの質問を理解しているのか、それとも答える価値がないと判断しているのか。人間のような表情がないため、顔から心情を読み取ることはできなかった。
やがて、怪異は答えた。
「裁いただけだ」
「裁いた?」
「そうだ」
それ以上の説明はなかった。
サエキは銃を下げず、怪異の動きを警戒した。
「人間の格好をして、人間を殺す理由は何だ?」
怪異は帽子の影からサエキを見つめた。
「お前には関係のないことだ」
「目の前で殺人が起きている。関係ないでは済まないだろう」
怪異は答えなかった。
その代わり、サエキの姿をじっと観察していた。銃撃を受けてもなお警戒を解かない相手を、どう評価すべきか考えているようだった。
サエキもまた、怪異から目を離さなかった。
通常の銃撃が通じない。動きも人間離れしている。こちらの攻撃を受けても怯まず、壁に腕をぶつけても動きを止めない。相手の正体も、どこまでの力を持っているのかもわからない。
この場で仕留められると判断できる材料はなかった。
やがて、怪異は後退した。
サエキは追わなかった。
相手が銃撃をものともしない以上、ここで不用意に踏み込むのは危険だ。怪異を逃がすことにはなるが、正体も能力もわからないまま戦闘を続ける理由はなかった。
怪異は廊下の奥へ消えていった。
その姿が見えなくなってからも、サエキはしばらく周囲を警戒していた。戻ってくる気配がないことを確かめ、ようやく倒れている男へ目を向ける。
男は動かなかった。
殺したのは、あの怪異なのだろう。
しかし、なぜ殺したのか。
そして、あの異様な身体は何なのか。
答えは一つもなかった。
サエキは銃を収め、その場を後にした。
このときのサエキは、まだ知らなかった。
自分が遭遇した怪異が、世間を騒がせることになる連続殺人事件と関係している可能性を。
*
数日後、連続殺人事件が世間を騒がせ始めた。
複数の犠牲者が確認され、現場には被害者の過去の行為を記した文書が残されていた。警察は一連の事件を連続殺人として捜査している。
報道によれば、犠牲者の中には、重大な犯罪を疑われながら、証拠不十分で刑事責任を問われなかった人物もいたという。
犯人の動機はわかっていない。
それでも、SNSでは早くも一つの解釈が広まっていた。
――悪人だけを狙っている。
――法律が裁けないなら、誰かが裁くしかない。
――被害者のことを考えれば、犯人の気持ちもわかる。
投稿には、犠牲者の過去を示す情報が添えられていた。
過去の報道記事。匿名の告発。出所のわからない画像。真偽を確かめようのない証言。
それらが次々と共有され、いつしか犠牲者たちは、すでに罪が確定した人間であるかのように扱われていた。
サエキはスマートフォンの画面を眺めていた。
廃ビルで遭遇した怪異の姿が、頭の片隅に浮かぶ。
あの怪異は、人間を殺した。
そして、自分の行為を「裁いた」と表現した。
偶然の一致かもしれない。事件の報道と、あの夜の出来事が直接つながっているという確証はない。
だが、無関係だと切り捨てるには、あの言葉が引っかかりすぎた。
サエキはミカミへ連絡した。
「少し相談したいことがある」
電話の向こうで、ミカミが応じた。
「どうした? 何かあったのか?」
「連続殺人事件の件だ。少し前、現場で妙なものに遭遇した」
サエキは、廃ビルで起きたことを説明した。
人間とは思えない顔。銃撃を受けても倒れない身体。人間離れした動き。そして、怪異が口にした「裁いた」という言葉。
ミカミは途中で口を挟まず、最後まで聞いていた。
「人間ではなさそうだな」
「私もそう思う」
「ただ、今の話だけでは、連続殺人事件との関係までは判断できない。怪異が関わっていると断定するには、証拠が足りないな」
「わかっている」
サエキは即答した。
ミカミがサエキを疑っているわけではないことは、よくわかっていた。長く仕事を通じて付き合ってきた相手だ。サエキが見たものを、根拠もなく嘘だと決めつけるような人物ではない。
しかし、ミカミは国の怪異専門機関に所属する公務員だ。警察が殺人事件として捜査している段階で、個人的な目撃証言だけを根拠に機関を動かすことは難しい。
しかも、サエキは組織の人間ではない。
実力を認めている者がいる一方で、フリーランスのサエキが独自の判断で動くことを快く思わない者もいる。根拠が十分でない段階でサエキの証言を採用すれば、ミカミ自身の立場も危うくなりかねない。
「俺としても気にはなる。ただ、正式に動くには材料が足りない。警察の捜査を差し置いて介入するわけにもいかないからな」
「そちらの事情は理解している。無理をする必要はない」
「何かわかったら連絡してくれ。できる範囲で協力する」
「ありがとう。ただ、そちらの立場を危うくするような真似はしないでくれよ」
電話を切ったサエキは、スマートフォンを机に置いた。
怪異の存在は気になる。
だが、気になることと、仕事として動くことは別だった。
依頼はない。確かな証拠もない。
この状態で独自に捜査を始めれば、警察との衝突を招く可能性がある。もし見当違いだった場合、事件とは無関係の相手を追い回しただけで終わるかもしれない。
サエキは、自分を正義の味方だと思ったことはない。
困っている人間に手を貸すことはある。気の毒に思うこともある。仕事のついでに助けることだってある。
しかし、依頼もなく、確証もないまま危険に首を突っ込むほど善人ではなかった。
今は待つ。
それがサエキの判断だった。
*
連絡が来たのは、それから数日後だった。
相手はワシオ。
政界の大物として知られ、官界や財界にも広い人脈を持つ人物だ。恰幅のよい身体と重厚な風貌に似合わず、人当たりはよい。だが、その親しみやすさに気を許すと、いつの間にか相手の思惑の中に取り込まれている。
気に入った相手には惜しみなく手を貸す一方、敵対する者には容赦しない。そうした抜け目のなさも含めて、ワシオは政界で影響力を保っていた。
サエキにとっても、無視できない相手だった。
「少し厄介な話があってな」
ワシオは、官界の知人から寄せられた相談について説明した。
連続殺人事件の犠牲者の一人が、ある官僚の身内だったという。
その人物は、ネット上で不正に関与した人間として名前を挙げられていた。事件が報じられると、過去の疑惑が掘り返され、SNSでは「裁かれて当然だった」とする投稿が広まった。
しかし、関係者が記録を確認したところ、ネット上で広まっていた疑惑を裏づける証拠は確認できなかった。
少なくとも、その人物が犯罪を犯したと断定できる根拠は見つかっていない。
「亡くなった後まで、好き勝手に言われておる。遺族にしてみれば、たまったものではないだろう」
ワシオは、怒りを露わにするでもなく語った。
「もちろん、それだけで事件の真相がわかったわけではない。警察も捜査をしている。だが、被害者の過去を並べ立てて殺して回る人間がいるなら、放ってはおけん」
「私に調査を?」
「そうだ。お前なら、普通の事件としても、怪異が絡む案件としても対応できる。ネットでは人外の仕業だという噂まで出ているが、そんなものは噂にすぎん。最初から決めつけるつもりはない」
ワシオはサエキを見た。
「何が起きているのか、確かめてほしい」
依頼の内容は明確だった。
怪異の存在を前提にするのではなく、事件そのものを調べる。必要があれば、関係者や機関との連携も考える。警察の捜査を妨げることなく、犠牲者たちが本当にどのような人間だったのか、そして何者が彼らを殺しているのかを確かめる。
サエキは少し考えてから、頷いた。
「わかりました。調べてみます」
「助かる。必要な連絡先や、こちらで用意できる情報は出そう。ただし、無理に警察の捜査を邪魔するつもりはない。向こうにも向こうの仕事があるからな」
「その点は、こちらも承知しています」
依頼を引き受けたサエキは、調査に必要な準備を始めた。
最初の遭遇で使った銃は、怪異に対して有効な損傷を与えられなかった。あの相手を再び追うことになるなら、同じ装備だけでは心もとない。
サエキは呪具である短刀を携行することにした。
あのときの怪異にどこまで通用するかはわからない。それでも、通常の攻撃が効かなかった相手に対し、別の手段を用意しておく意味はある。
まだ、あの怪異が連続殺人事件の犯人だと確定したわけではない。
だが、調べるべき理由はできた。
サエキは改めて、事件に関する公開情報を集め始めた。




