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異聞始末録  作者: 黒サケ缶EX
異聞始末録 正義を執行する獣
28/53

第一章 裁きを名乗るモノ



 仕事を終えた頃には、日付が変わろうとしていた。


 繁華街にはまだ明かりが残っていた。店先から漏れる音楽や、酔客の笑い声も聞こえてくる。だが、一本裏へ入れば人通りはまばらになり、表通りの賑わいも急に遠のいた。


 サエキは上着の襟を整え、帰路につこうとしていた。


 そのとき、路地の奥から悲鳴が聞こえた。


 続いて、何かが床に倒れる音がする。


 サエキは足を止めた。


 声が聞こえたのは、長いこと使われていないらしい雑居ビルだった。入口のガラス戸は割れ、壁には剥がれかけた広告が残っている。建物の周囲に人影はなく、明かりも点いていなかった。


 面倒事の匂いがする。


 できることなら、そのまま立ち去りたいところだった。サエキは正義のために生きているわけではない。頼まれた仕事をこなし、必要があれば人を助ける。それだけだ。


 しかし、助けを求める声を聞いてしまった以上、何も確かめずに帰るのも後味が悪い。


 サエキは周囲を警戒しながら、ビルの中へ入った。


 階段を上がり、薄暗い廊下を進む。割れた窓から街灯の光が差し込み、床に散らばったガラス片を照らしていた。明かりは十分とはいえないが、サエキの目には廊下の奥まで見通せる程度の光があった。


 やがて、廊下の奥に人影が二つ見えた。


 一人は床に倒れている。もう一人は、その傍らに立っていた。


 立っている人物は、スーツにコート、帽子という装いだった。夜の街を歩いていても、服装だけならさほど目立たなかっただろう。少なくとも、遠目に見た限りでは、仕事帰りの人間と見分けがつかなかった。


 だが、その顔は違った。


 帽子の影にあるものは、人間の顔を模したものですらなかった。目鼻に相当する部分は見て取れるものの、人間の顔を形作る構造とは根本的に異なっている。人間の顔に似せようとした何かが、必要な部品だけを並べ、形を整えることを忘れたような異様さだった。


 人間の服を着た、人間ではない何か。


 そいつが、足元の男を見下ろしていた。


「そこまでだ」


 サエキの声に、怪異が振り向いた。


 返事はなかった。


 怪異は突然現れたサエキを眺めている。逃げようとする様子も、慌てる様子もない。まるで、そこに新しい観察対象が現れたとでもいうような反応だった。


 サエキは倒れている男を確認した。動く気配はない。怪異の手元にも注意を払い、周囲の様子を見極めようとする。


 しかし、相手が何者なのかも、なぜ男が倒れているのかもわからなかった。


 少なくとも、目の前の存在が危険であることだけは明らかだった。


 サエキは銃を抜いた。


 銃口を怪異へ向ける。


「動くな」


 怪異は応じなかった。


 次の瞬間、サエキは引き金を引いた。


 サプレッサーによって抑えられた銃声が、廊下に響く。


 弾丸は怪異の身体を捉えた。


 だが、怪異は倒れなかった。


 よろめくことも、痛みに反応することもない。銃撃を受けたという事実そのものが、そいつにとって何の意味も持たないかのようだった。


 サエキは銃口を向けたまま、怪異の様子を観察する。


 人間ならば、少なくとも何らかの反応を示すはずだ。傷を負ったならば痛みを感じ、衝撃を受けたならば姿勢を崩す。ところが、目の前の存在には、そのどれもが当てはまらない。


 怪異は一歩踏み出した。


 その動きは速かった。


 サエキは即座に身をひねり、攻撃をかわす。怪異の腕が空を切り、そのまま壁にぶつかった。


 鈍い音が響く。


 壁に当たった腕の勢いは、人間のものとは思えなかった。それでも怪異は、腕をぶつけたことを気にする様子もなく、再びサエキへ向き直った。


 サエキは距離を取り、銃を構え直す。


 だが、怪異は追撃してこなかった。


 両者の間に、短い沈黙が落ちた。


「お前は何者だ?」


 サエキが問いかける。


 怪異はしばらく黙っていた。こちらの質問を理解しているのか、それとも答える価値がないと判断しているのか。人間のような表情がないため、顔から心情を読み取ることはできなかった。


 やがて、怪異は答えた。


「裁いただけだ」


「裁いた?」


「そうだ」


 それ以上の説明はなかった。


 サエキは銃を下げず、怪異の動きを警戒した。


「人間の格好をして、人間を殺す理由は何だ?」


 怪異は帽子の影からサエキを見つめた。


「お前には関係のないことだ」


「目の前で殺人が起きている。関係ないでは済まないだろう」


 怪異は答えなかった。


 その代わり、サエキの姿をじっと観察していた。銃撃を受けてもなお警戒を解かない相手を、どう評価すべきか考えているようだった。


 サエキもまた、怪異から目を離さなかった。


 通常の銃撃が通じない。動きも人間離れしている。こちらの攻撃を受けても怯まず、壁に腕をぶつけても動きを止めない。相手の正体も、どこまでの力を持っているのかもわからない。


 この場で仕留められると判断できる材料はなかった。


 やがて、怪異は後退した。


 サエキは追わなかった。


 相手が銃撃をものともしない以上、ここで不用意に踏み込むのは危険だ。怪異を逃がすことにはなるが、正体も能力もわからないまま戦闘を続ける理由はなかった。


 怪異は廊下の奥へ消えていった。


 その姿が見えなくなってからも、サエキはしばらく周囲を警戒していた。戻ってくる気配がないことを確かめ、ようやく倒れている男へ目を向ける。


 男は動かなかった。


 殺したのは、あの怪異なのだろう。


 しかし、なぜ殺したのか。


 そして、あの異様な身体は何なのか。


 答えは一つもなかった。


 サエキは銃を収め、その場を後にした。


 このときのサエキは、まだ知らなかった。


 自分が遭遇した怪異が、世間を騒がせることになる連続殺人事件と関係している可能性を。


     *


 数日後、連続殺人事件が世間を騒がせ始めた。


 複数の犠牲者が確認され、現場には被害者の過去の行為を記した文書が残されていた。警察は一連の事件を連続殺人として捜査している。


 報道によれば、犠牲者の中には、重大な犯罪を疑われながら、証拠不十分で刑事責任を問われなかった人物もいたという。


 犯人の動機はわかっていない。


 それでも、SNSでは早くも一つの解釈が広まっていた。


 ――悪人だけを狙っている。


 ――法律が裁けないなら、誰かが裁くしかない。


 ――被害者のことを考えれば、犯人の気持ちもわかる。


 投稿には、犠牲者の過去を示す情報が添えられていた。


 過去の報道記事。匿名の告発。出所のわからない画像。真偽を確かめようのない証言。


 それらが次々と共有され、いつしか犠牲者たちは、すでに罪が確定した人間であるかのように扱われていた。


 サエキはスマートフォンの画面を眺めていた。


 廃ビルで遭遇した怪異の姿が、頭の片隅に浮かぶ。


 あの怪異は、人間を殺した。


 そして、自分の行為を「裁いた」と表現した。


 偶然の一致かもしれない。事件の報道と、あの夜の出来事が直接つながっているという確証はない。


 だが、無関係だと切り捨てるには、あの言葉が引っかかりすぎた。


 サエキはミカミへ連絡した。


「少し相談したいことがある」


 電話の向こうで、ミカミが応じた。


「どうした? 何かあったのか?」


「連続殺人事件の件だ。少し前、現場で妙なものに遭遇した」


 サエキは、廃ビルで起きたことを説明した。


 人間とは思えない顔。銃撃を受けても倒れない身体。人間離れした動き。そして、怪異が口にした「裁いた」という言葉。


 ミカミは途中で口を挟まず、最後まで聞いていた。


「人間ではなさそうだな」


「私もそう思う」


「ただ、今の話だけでは、連続殺人事件との関係までは判断できない。怪異が関わっていると断定するには、証拠が足りないな」


「わかっている」


 サエキは即答した。


 ミカミがサエキを疑っているわけではないことは、よくわかっていた。長く仕事を通じて付き合ってきた相手だ。サエキが見たものを、根拠もなく嘘だと決めつけるような人物ではない。


 しかし、ミカミは国の怪異専門機関に所属する公務員だ。警察が殺人事件として捜査している段階で、個人的な目撃証言だけを根拠に機関を動かすことは難しい。


 しかも、サエキは組織の人間ではない。


 実力を認めている者がいる一方で、フリーランスのサエキが独自の判断で動くことを快く思わない者もいる。根拠が十分でない段階でサエキの証言を採用すれば、ミカミ自身の立場も危うくなりかねない。


「俺としても気にはなる。ただ、正式に動くには材料が足りない。警察の捜査を差し置いて介入するわけにもいかないからな」


「そちらの事情は理解している。無理をする必要はない」


「何かわかったら連絡してくれ。できる範囲で協力する」


「ありがとう。ただ、そちらの立場を危うくするような真似はしないでくれよ」


 電話を切ったサエキは、スマートフォンを机に置いた。


 怪異の存在は気になる。


 だが、気になることと、仕事として動くことは別だった。


 依頼はない。確かな証拠もない。


 この状態で独自に捜査を始めれば、警察との衝突を招く可能性がある。もし見当違いだった場合、事件とは無関係の相手を追い回しただけで終わるかもしれない。


 サエキは、自分を正義の味方だと思ったことはない。


 困っている人間に手を貸すことはある。気の毒に思うこともある。仕事のついでに助けることだってある。


 しかし、依頼もなく、確証もないまま危険に首を突っ込むほど善人ではなかった。


 今は待つ。


 それがサエキの判断だった。


     *


 連絡が来たのは、それから数日後だった。


 相手はワシオ。


 政界の大物として知られ、官界や財界にも広い人脈を持つ人物だ。恰幅のよい身体と重厚な風貌に似合わず、人当たりはよい。だが、その親しみやすさに気を許すと、いつの間にか相手の思惑の中に取り込まれている。


 気に入った相手には惜しみなく手を貸す一方、敵対する者には容赦しない。そうした抜け目のなさも含めて、ワシオは政界で影響力を保っていた。


 サエキにとっても、無視できない相手だった。


「少し厄介な話があってな」


 ワシオは、官界の知人から寄せられた相談について説明した。


 連続殺人事件の犠牲者の一人が、ある官僚の身内だったという。


 その人物は、ネット上で不正に関与した人間として名前を挙げられていた。事件が報じられると、過去の疑惑が掘り返され、SNSでは「裁かれて当然だった」とする投稿が広まった。


 しかし、関係者が記録を確認したところ、ネット上で広まっていた疑惑を裏づける証拠は確認できなかった。


 少なくとも、その人物が犯罪を犯したと断定できる根拠は見つかっていない。


「亡くなった後まで、好き勝手に言われておる。遺族にしてみれば、たまったものではないだろう」


 ワシオは、怒りを露わにするでもなく語った。


「もちろん、それだけで事件の真相がわかったわけではない。警察も捜査をしている。だが、被害者の過去を並べ立てて殺して回る人間がいるなら、放ってはおけん」


「私に調査を?」


「そうだ。お前なら、普通の事件としても、怪異が絡む案件としても対応できる。ネットでは人外の仕業だという噂まで出ているが、そんなものは噂にすぎん。最初から決めつけるつもりはない」


 ワシオはサエキを見た。


「何が起きているのか、確かめてほしい」


 依頼の内容は明確だった。


 怪異の存在を前提にするのではなく、事件そのものを調べる。必要があれば、関係者や機関との連携も考える。警察の捜査を妨げることなく、犠牲者たちが本当にどのような人間だったのか、そして何者が彼らを殺しているのかを確かめる。


 サエキは少し考えてから、頷いた。


「わかりました。調べてみます」


「助かる。必要な連絡先や、こちらで用意できる情報は出そう。ただし、無理に警察の捜査を邪魔するつもりはない。向こうにも向こうの仕事があるからな」


「その点は、こちらも承知しています」


 依頼を引き受けたサエキは、調査に必要な準備を始めた。


 最初の遭遇で使った銃は、怪異に対して有効な損傷を与えられなかった。あの相手を再び追うことになるなら、同じ装備だけでは心もとない。


 サエキは呪具である短刀を携行することにした。


 あのときの怪異にどこまで通用するかはわからない。それでも、通常の攻撃が効かなかった相手に対し、別の手段を用意しておく意味はある。


 まだ、あの怪異が連続殺人事件の犯人だと確定したわけではない。


 だが、調べるべき理由はできた。


 サエキは改めて、事件に関する公開情報を集め始めた。

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