第二章 正義の味方
調査は、公開されている情報を洗い直すところから始まった。
報道記事。過去の裁判や捜査に関する公表情報。SNSに残された投稿。そして、事件の関係者への聞き取り。
事件について調べるほど、犠牲者たちに関する情報は複雑になっていった。
実際に重大な犯罪を犯した者もいた。犯罪を疑われながら、証拠が十分でないために刑事責任を問われなかった者もいた。そして、疑惑が広まっただけで、犯罪者のように扱われていた者もいた。
それらの人々は、SNSの上では同じように語られていた。
過去に問題を起こしたと報じられた者も、犯罪を疑われただけの者も、根拠のわからない告発を受けた者も、ひとまとめにして「悪人」と呼ばれていた。
何をしたのか。
何が事実として確認されているのか。
どのような理由で刑事責任を問われなかったのか。
そうした違いは、投稿が拡散されるうちに失われていった。
サエキは、そうした情報を一つずつ分けて整理した。
ネット上で何度も見かける話であっても、それだけで事実とは限らない。多くの人間が同じことを言っているからといって、その全員が同じ根拠を持っているとは限らなかった。
最初にサエキが遭遇した男は、複数の女性への暴行を疑われていた人物だった。捜査では十分な証拠が得られず、刑事責任を問われることはなかった。
その男の過去については、SNS上でも長く語られていた。
男を非難する投稿には、被害を訴える声もあった。法律によって十分な救済を受けられなかったと感じている者がいたとしても、不思議ではない。事件の報道を見た人々が、怒りや憤りを抱くこと自体を否定することはできなかった。
だが、怒りがあることと、誰かを殺してよいことは別だ。
そして、ネットで語られていた内容がすべて事実だったのか、サエキには確かめようがなかった。投稿の中には、出所のわからない情報や、別の投稿を根拠としているものも混じっていた。
さらに調べると、犠牲者の中には、疑惑を裏づける事実そのものが確認できなかった人物もいた。
事実関係が確認されていない話。
誰が発信したのかもわからない告発。
他人の投稿を引用し、あたかも自分が事実を知っているかのように断言する人々。
怪異は、それらを材料にしていた。
しかも、真偽を確認しようとはしていない。
誰かが悪人だと書けば、その投稿を読む。多くの人間が同じ話をしていれば、それを判断の根拠にする。疑惑が拡散されていること自体を、罪の証明のように扱っていた。
サエキは、事件の全体像を少しずつ理解し始めていた。
怪異は、法律に裁かれなかった人間を狙っている。
しかし、罪を犯したかどうかを確かめているわけではない。
法律によって罰せられなかった。
それだけで、怪異にとっては制裁の対象になるのだ。
法によって裁かれなかった理由が何であれ、怪異にとっては関係がない。証拠が不足していたのか、疑惑そのものが事実ではなかったのか。そうした違いを確かめることもなく、怪異は自分の判断を下していた。
それは、正義という言葉を使った、ただの独断だった。
*
調査を続ける中で、サエキはミカミにも改めて相談した。
「ワシオから正式に依頼を受けた。事件を調べることになった」
「そうか。何か必要な情報があるか?」
「まずは、公開情報で確認できる範囲からでいい。そちらの立場を危うくするようなことは頼まない」
「わかった。俺も、できる範囲で調べてみる」
ミカミは、組織の情報を勝手に持ち出したり、正式な捜査であるかのように振る舞ったりはしなかった。公開情報の整理や、一般的な手続きについての助言など、個人的に問題のない範囲で協力した。
サエキも、それ以上のことは求めなかった。
互いの実力を知り、信頼しているからこそ、できることとできないことを曖昧にする必要はなかった。サエキはミカミの立場を理解していたし、ミカミもまた、サエキが無理を押し通そうとしていないことを理解していた。
一方、ワシオは必要に応じて関係者との連絡を取り持ち、警察や関係機関との情報共有が進むよう働きかけた。だが、政治的な影響力を使って捜査の手続きを無視させるようなことはしなかった。
事件の真相を知りたいという目的は同じでも、そこへ至る手順を無視してよいわけではない。
サエキは、集めた情報をもとに、怪異の行動を考えた。
あの怪異は、なぜ「裁いた」と言ったのか。
なぜ、人間のような服装をしていたのか。
なぜ、法律によって刑事責任を問われなかった人間を狙っているのか。
わかっているのは、怪異が人間を殺し、その行為を裁きと呼んでいたこと。そして、事件の犠牲者たちが、ネット上で悪人として語られていたことだった。
それ以上のことを断定するには、まだ材料が足りなかった。
サエキは、怪異の正体を考えることよりも、まず事件との関係を確かめることを優先した。
公開情報を洗い直し、関係者の話を聞き、情報がどこから広がっているのかを追う。地道な作業だったが、怪異の行動を理解するためには必要だった。
やがて、サエキは一つの可能性に行き着いた。
怪異は、誰かが悪人だと判断した結果を受け取っているのではない。
誰かが悪人だと語っている、その事実自体を判断材料にしているのではないか。
もしそうなら、怪異が人間を裁く基準は、罪の有無ではなく、世間でどのように語られているかということになる。
その考えを確かめるには、怪異自身に話を聞く必要があった。
*
再会は、サエキが調査で訪れた場所の近くで起きた。
夜の街から少し離れた、取り壊しを待つ建物。人の出入りはなく、周囲も静まり返っていた。
サエキが内部へ入ると、廊下の先に、見覚えのあるコート姿が立っていた。
帽子の影から覗く顔は、やはり人間のものではない。
サエキは足を止めた。
あの夜、銃撃を受けても倒れなかった怪異。正体も能力もわからないまま、戦闘を続けることを避けた相手だった。
今は違う。
サエキは依頼を受け、事件を調べてきた。怪異が事件に関わっているという疑いも、最初の遭遇時より強くなっている。
「また会ったな」
怪異はサエキを見ていた。
「お前は、あのときの人間か」
「そうだ。いくつか聞きたいことがある」
「聞く必要などない。私は悪人を裁いているだけだ」
怪異の声には迷いがなかった。
「お前が殺した人間の中には、罪を犯したと確認できない者もいた」
「法律が裁かなかった。それが答えだ」
「違う。裁かなかった理由は一つではない。証拠が足りなかった者もいれば、そもそも疑惑を裏づける事実がなかった者もいる」
「同じことだ」
怪異は即座に言い切った。
「悪人が罰を逃れた。それだけで十分だ」
「その悪人だという判断は、何を根拠にした?」
「人間たちが語っている。被害を訴える者がいる。悪事を知っている者がいる」
「それを確かめたのか?」
「多くの者が同じことを語っている」
「それは、事実を確かめたことにはならない」
怪異は黙らなかった。
むしろ、サエキの言葉を聞くほどに、その態度は強硬になっていった。
「お前は、悪人を裁くなと言うのか。苦しんだ者たちを見捨てろと言うのか。法律が何もできなかったとき、誰が代わりに裁く?」
その言葉には、怪異なりの理屈があった。
法律がすべての被害者を救えるわけではない。罪を犯した人間が、必ずしも相応の罰を受けるとは限らない。被害を訴えながら、十分な救済を得られない人間がいることもある。
その現実を見れば、法律の外側にある裁きを求める声が生まれること自体は理解できる。
だが、だからといって、誰かが独断で他人を殺すことを認めてよいわけではない。
「誰かが苦しんだことと、目の前の人間が罪を犯したことは別だ」
「綺麗事だな」
「そうかもしれないな。だが、疑いだけで人を殺していい理由にはならない」
サエキは、怪異から目を離さなかった。
怪異の言葉には、被害を受けた者たちへの同情があるように聞こえる。しかし、その同情が、目の前の人間を殺すことを正当化する理由になっている。
被害者がいるという話を聞けば、相手を悪人と決めつける。
法律が刑事責任を問わなかったと知れば、それを悪人が罰を逃れた証拠とみなす。
疑惑が事実なのかどうかを確かめる余地は、最初から残されていない。
怪異にとって、裁きとは事実を確かめた先にあるものではなかった。
自分が悪人だと判断した相手を殺し、その行為を裁きと呼ぶ。それだけで、すべてが完結しているのだ。
「お前は、自分が正義の味方だと思いたいだけだ」
サエキが言った。
怪異の身体が、わずかに動いた。
「黙れ」
「自分が裁く側にいる限り、自分の判断を疑わずに済む。相手の話を聞く必要もない。間違いを認める必要もない。お前にとって都合のいい情報だけを集めて、悪人だと決めつければいい」
「黙れと言っている!」
「そして、自分の正義を支持する人間がいることに満足している。お前が救っているのは被害者じゃない。正義の味方でいたい自分自身だ」
怪異の身体から、敵意が膨れ上がった。
サエキの言葉が、怪異の判断を揺るがしたのか。それとも、自分を否定する相手を敵とみなしただけなのか。どちらにせよ、怪異が態度を改める様子はなかった。
「お前は、私の裁きを妨げた。私の正義を否定した。ならば、お前こそが裁かれるべき悪人だ!」
怪異が踏み込んだ。
話は、もう通じなかった。
サエキは、迫る怪異を見据えた。
ここまで話しても、怪異は自分の判断を疑わなかった。反論を受け止めるのではなく、反論する者を悪人と決めつける。自分が正しいと信じている限り、相手の言葉を聞く必要などないのだろう。
説得を続ける意味はもうなかった。




