第七章 底の脈動
最初に変化したのは、計測器だった。
数値が急上昇し、警告灯が点滅する。壁面の金属板が細かく震え、床の石材に亀裂が走った。
サエキは顔を上げた。
地下から、低い音が響いてくる。
それは、遠くで何かが唸っているようにも聞こえた。
次の瞬間、地下室全体が大きく揺れた。
封印陣の中心に、黒い歪みが生じた。
何かがそこにいる。
だが、姿は見えない。
空間の輪郭だけが不自然に歪み、光がわずかに吸い込まれるように曲がっている。
サエキは即座に距離を取り、用意していた防護陣の状態を確認した。
魔女がいなくなったことで、封印の構造が変化している。
地下に封じられたものが、拘束の緩みを感じ取ったのだろう。
低い唸りが、再び響いた。
それは、声というより、空間そのものが軋む音に近かった。
サエキは計測器を確認した。
質量の変動。局所的な温度低下。記録不能な振動。
それらが、封印陣の中心に集中している。
底喰い。
記録によれば、底喰いは物質を摂取し、その性質を取り込む。生物を食らえば、記憶や精神的な痕跡さえ吸収する可能性がある。
だが、今、彼が目にしているのは、その片鱗にすぎない。
空間の歪みが、封印陣の端へと伸びた。
床に落ちていた小さな石片が、音もなく消えた。
次の瞬間、同じ場所から、先ほどまで存在しなかった黒い筋が伸びた。
サエキは一歩退いた。
底喰いは、封印の隙間から周囲へ干渉しようとしている。
魔女を失った古い封印は、もはや維持できない。
彼は用意していた新しい石板を取り出した。
古い術式をそのまま再現するつもりはなかった。
魔女は底喰いの力を利用しようとした。
その結果、封印は底喰いと一体化する方向へ進み、彼女自身が拘束の要となった。
同じ構造を作れば、同じ失敗を繰り返す。
サエキは底喰いの力を使わず、その存在する範囲だけを固定する術式を組み立てていた。
彼は石板を封印陣の中心へ置いた。
周囲に護符を配置し、古い術式の接続をひとつずつ切り離す。新しい拘束の輪を組み上げ、底喰いが境界を越えられないようにする。
作業を進める間にも、地下室は何度か揺れた。
黒い歪みが広がり、封印の境界を押し広げようとする。
サエキは手を止め、計測値を確認した。
まだ、対処できる。
ただし、ここから先は危険が大きい。
彼は一度だけ、撤退という選択肢を考えた。
契約上、撤退に問題はない。報酬を返し、追加の請求をしなければ、それで済む。
だが、ここで封印を放棄すれば、底喰いがどこまで影響を及ぼすか分からない。
危険はある。
しかし、作業の手順は成立している。
サエキは続行を決めた。
護符を置き、経を唱える。
新しい封印の輪が、ゆっくりと閉じていった。
地下から、凄まじい咆哮が響いた。
壁が震え、照明が消える。床の石板が浮き上がり、破片が飛び散った。
それでも、サエキは経を止めなかった。
最後の護符を置き、封印陣の中心へ印を刻む。
光が床を走り、円環を描いた。
黒い歪みが激しく揺れた。
やがて、その輪郭が縮み始める。
咆哮が遠ざかり、振動が弱まり、封印陣の中心から黒い筋が消えていった。
最後の光が収束する。
地下室は、静寂に包まれた。
サエキは計測値を確認した。
封印の境界に破綻はない。異常な振動は減衰し、空間の歪みも観測されなくなっていた。
底喰いは、再び封じられた。
消滅したわけではない。
何を吸収し、どこまで変化しているのかも分からない。
だが、少なくとも今は、封印の外へ出られない状態になっている。
サエキは損傷した設備を確認し、記録をまとめた。
魔女の討伐。
封印の再構築。
想定外の作業と、装備の損耗。
報酬の再交渉は必要だろう。
彼は最後に、地下室の中心を見た。
何もない。
ただ、そこには確かに、何かがいるはずだった。
サエキは荷物をまとめ、地上へ戻った。




