第六章 雄叫び
サエキは封印陣の中央に立った。
床には新しい護符が配置され、古い術式の隙間を埋めるように細い線が引かれている。
魔女は、昨日と同じ場所に拘束されていた。
しかし、その表情にはわずかな変化があった。
「始める」
サエキが言った。
「待ちなさい」
魔女の声は、昨日よりも鋭かった。
サエキは手を止めた。
「何だ」
「あなたは、まだ分かっていない。私を殺せば、ここで何が起こるのか」
「封印が弱る。だから先に手を打ってる」
「その程度のことではないわ」
魔女は彼を見据えた。
「この封印は、私だけを閉じ込めているわけではない。私がいなくなれば、あなたが想像している以上のものが解き放たれる」
「底喰いのことか」
魔女の顔から、表情が消えた。
「……どこまで知っているの?」
「必要な分だけ」
「なら、なおさらよ。私を殺すべきではない」
それは、彼女にとって初めての譲歩だった。
だが、サエキは首を横に振った。
「お前を残しても、封印は長く持たない。人を襲うのもやめない。どっちにしても、ここで終わらせる必要がある」
「私がいなければ、あれを抑えられない」
「抑え方を変える」
「できるはずがない!」
声が、地下室に響いた。
魔女自身が、その声の大きさに気づいたようだった。
一瞬、唇を引き結ぶ。
そして、何事もなかったかのように、表情を整えた。
「……あなたには無理よ。私でさえ、あれを完全には制御できなかった。人間が、どうやって封じるというの?」
「お前と同じ方法を使うつもりはない」
サエキは護符を一枚、床に置いた。
「お前は、あれを利用しようとした。俺は閉じ込めるだけだ」
「同じことよ」
「違うな」
サエキは次の護符を置いた。
「お前は力を手に入れようとした。俺は力を借りるつもりがない」
魔女は黙った。
彼女の目が、床の護符を追っている。
古い術式とは違う。
見たことのない紋様。理解できない言葉。彼女の力を前提としない構造。
それが何を意味するのか、魔女には分からなかった。
分からないものを前にしたとき、彼女が取れる手段は限られていた。
呪い。
精神への干渉。
相手の判断を歪め、隙を作る。
彼女は、最後の力を振り絞った。
空気が歪んだ。
目に見えない何かが、主人公の意識へと流れ込む。
しかし、主人公は何も感じなかった。
呼吸も、姿勢も、視線も変わらない。
彼は淡々と、次の護符を配置した。
魔女の瞳が見開かれた。
「なぜ……」
小さな声だった。
主人公は聞こえなかったふりをした。
「これで最後だ」
彼は封印陣の外縁に立ち、経を唱え始めた。
低い声が、石壁に反響する。
護符の墨が淡く光り、床に描かれた線がひとつずつつながっていく。古い術式とは異なる流れが、魔女の身体を取り囲んだ。
彼女は拘束を振りほどこうとした。
動かない。
呪いを放とうとした。
届かない。
封印に残された力を引き出そうとした。
その経路は、すでに断たれていた。
「やめなさい」
魔女の声に、初めて焦りが混じった。
主人公は経を続けた。
「ヤメロォォォ!」
ノイズが混じった声で叫ぶ。
彼女は自分が何を言っているのか、分かっていないようだった。これまでなら、命令すれば相手は従った。脅せば退き、誘えば近づき、呪えば意志を失った。
だが、この男は何ひとつ変わらない。
「オマエが何を望んでいるか、分かっていルの? 私を殺して、ここを壊して、それで何が残るというノダァ!」
「お前がいなくなる」
「ソレにナンノ意味がアルゥゥゥ!」
身の毛がよだつ声が響き渡る。
彼女は、初めて自分の拘束された身体を見下ろした。
自由になれない。
力も通じない。
目の前の人間を操ることも、脅すことも、殺すこともできない。
自分の命が、他者の判断ひとつで終わろうとしている。
それは、彼女にとって受け入れがたいことだった。
「私は、こんなところで終わってたまるかぁぁぁ!」
魔女は言った。
「私は、もっと多くのものを手に入れるはずだった。まだ、何も終わっていない。私には、まだ――」
サエキの唱える経の声が、その言葉を覆った。
護符が光を強める。
魔女の身体を拘束していた術式が、一本ずつほどけていく。
「マテェェェ!」
魔女は叫んだ。
「命令よ! 私を解放しなさい!」
サエキは、最後の句を唱え終えた。
「悪いが、契約外だ」
彼は短く言った。
そして、最後の印を置いた。
魔女の身体が硬直した。
黒い亀裂が肌に走り、長い髪が灰のようにほどけていく。彼女は口を開き、何かを叫んだ。
呪いだったのか。
罵倒だったのか。
それとも、自分をこんな目に遭わせた人間への怨嗟だったのか。
サエキには聞き取れなかった。
彼は聞き取ろうともしなかった。
魔女の目が、最後まで彼を睨みつけていた。
その瞳には、反省も後悔もなかった。
ただ、自分の望みが叶わないことへの怒りと、すべてを失うことへの恐怖だけがあった。
やがて、魔女の身体は崩れ落ちた。
石の台座に残ったのは、黒ずんだ灰と、細かな欠片だけだった。
幽囚の魔女は存在はこの世からなくなった。




