第一章 レーシー
山間部の森林管理を請け負う会社の社長から連絡があったのは、午後のことだった。
「実は、山で妙なものが見つかりましてね。最初は悪戯かと思ったんですが、どうにも気味が悪いんです」
電話越しの声には、困惑と警戒が混じっていた。
話によると、管理している山のあちこちで、見慣れない記号や奇妙な物体が見つかるようになったらしい。木の幹に刻まれたものもあれば、石の隙間や土の中に埋められたものもある。どれも自然にできたものではなく、誰かが意図して配置したように見えるという。
「警察に相談するようなものなのかも分からなくて。それに、うちの社員が一人、妙なものを見たと言っているんです」
その社員の名はササヤマという。海外の森林管理について研修を受け、帰国後はこの会社で働いている青年だった。
社長の話では、ササヤマは帰国してから山で妙な気配を感じるようになったという。誰かに見られている気がする。人影のようなものが木々の間を横切る。近くに誰もいないはずなのに、背後から足音が聞こえる。
本人は疲労や思い過ごしの可能性も考えているようだが、会社の人間にも同じような体験をした者が出始めていた。
「一度、現場を見せてもらえますか」
サエキは依頼を引き受けた。
現地に到着すると、社長が出迎えてくれた。ササヤマも同席していた。二十代半ばほどだろうか。真面目そうな青年で、サエキに対しても丁寧に頭を下げた。
「ササヤマです。よろしくお願いします」
「サエキです。こちらこそ、よろしくお願いします。まずは、あなたが体験したことを聞かせてもらえますか」
ササヤマは少し考えてから話し始めた。
海外研修で滞在していたのは、広い森林地帯に囲まれた地域だった。そこでの仕事は、森林の保全や管理について学ぶこと。特別なことをしていたわけではない。現地の職員と一緒に森を歩き、植生や地形を確認し、荒れた場所を整備する。そうした日々を送っていたという。
ある日、森の中で奇妙な記号や、見慣れない物体を見つけた。
最初は不法投棄か、誰かの悪戯だと思った。木に刻まれた記号は落書きに見えたし、地面に置かれた小さな物体も、何かの廃棄物にしか見えなかった。
「森を汚すようなことはやめてください」
そう注意したこともあったらしい。
しかし、ある日、森の中で一人の女性に出会った。
その女性は、ササヤマが見つけた物体を片付けているところへ現れ、何をしているのかと尋ねた。ササヤマは、森に妙なものを置かないでほしいと告げた。女性は何も答えず、ただ彼を見つめていたという。
「それで、僕は少し強い口調で注意したんです。森を管理する仕事をしている以上、放っておけませんでしたから」
女性は怒ったようだった。
その直後、ササヤマは強い違和感を覚えた。女性の姿が一瞬、別のものに見えたという。顔の輪郭が崩れ、目の奥に人間ではない何かが覗いたように感じた。
そして、森の奥から何かが動く気配がした。
気がつくと女性はいなくなっていた。
「それからです。帰国してからも、山で誰かに見られているような気がするんです」
「その女性について、何か覚えていることは?」
「普通の人に見えました。服装も、特に変わったところはなかったと思います。ただ……」
ササヤマは言葉を切った。
「怒ったときの顔が、妙に印象に残っています。人間に向けるような怒りではないというか。僕が何か、とても許されないことをしたような顔でした」
サエキは話を聞き終え、社長にも確認を取った。
社長は、ササヤマが帰国した後に山で見つかる記号や物体が増えたと説明した。社員たちの間でも不安が広がっている。仕事に支障が出る前に原因を調べたいという。
「分かりました。まずは現場を確認します。皆さんは、見つけたものに不用意に触れないでください。場所を記録して、私に知らせてもらえれば十分です」
「よろしくお願いします」
社長とササヤマに見送られ、サエキは山へ入った。
山道を進むにつれて、周囲の空気にわずかな違和感が混じり始めた。
風は吹いている。鳥の声も聞こえる。自然環境そのものに異常があるわけではない。しかし、木々の間を歩いていると、時折、視線を感じる瞬間があった。
サエキは足を止め、周囲を観察した。
何もいない。
少なくとも、目に見える範囲には。
やがて、最初の記号を見つけた。樹皮の一部に、鋭いもので刻み込まれている。単なる落書きとは違う。線の重なり方に一定の規則があり、周囲の木々との位置関係まで考慮されているようだった。
近くの地面には、小さな金属片と、乾燥した植物を束ねたものが埋め込まれていた。
サエキは手袋を着け、慎重に観察した。
「……なるほどな」
記号の形そのものに見覚えがあるわけではない。だが、配置の仕方には心当たりがあった。
魔術の術式に用いられる図形。あるいは、何らかの力を蓄えたり、特定の場所へ作用させたりするための呪具。
単独では大きな力を持たないものでも、複数を一定の規則で配置すれば、広い範囲に影響を及ぼす仕組みを作ることは考えられる。
サエキは周辺を調べ、同じような物体をいくつか見つけた。
どれも同じではない。材質も形状も異なっている。しかし、記号との組み合わせや配置には共通点があった。
「自然にできたものじゃない。誰かが、ここに何かを仕掛けている」
その目的までは分からない。
だが、森のあちこちに配置された物体が、互いに何らかの関係を持っている可能性は高い。サエキは位置を記録し、ひとまず一つの仮説を立てた。
これらは魔術的な護符、あるいは術式の一部だ。
そして、これを設置したのは、単なる人間ではない可能性がある。
ササヤマが海外で出会った女性。彼女が同一人物なら、魔女という可能性も考えられる。
そのときだった。
「それを調べて、何をするつもり?」
背後から女の声がした。
サエキは振り返った。
少し離れた木のそばに、一人の女性が立っていた。年齢は分からない。人間の女性として見れば、どこにでもいそうな姿だ。
しかし、その目は違った。
サエキが見つけた物体を見つめる視線には、明らかな敵意があった。
「これを置いたのはあんたか?」
「質問に答えなさい。何を調べているの?」
「森に妙なものを仕掛けている人間がいると聞いてね。確認に来た」
女の口元がわずかに歪んだ。
「余計なことをする人間が、また一人増えたというわけね」
「また一人?」
サエキは女の表情を観察した。
ササヤマの話に出てきた女性と同一人物かどうかは、まだ断定できない。だが、こちらの質問に対する反応を見る限り、少なくとも今回の仕掛けと無関係ではなさそうだ。
「ササヤマという青年を知っているか?」
その名を出した瞬間、女の顔から表情が消えた。
「……あの人間ね」
「やはり知っているようだな」
「何も知らないくせに、私の邪魔をした。森のことなど何も理解していない、ただの人間が」
「森に妙なものを置いておいて、注意されたら逆恨みか。ずいぶん身勝手な話だな」
女の周囲の空気が揺れた。
木々の輪郭がぼやけ、足元の地面が遠ざかっていく。森の景色が少しずつ変わり始めた。目の前にあるはずの木が消え、代わりに見覚えのない道が現れる。
幻覚だ。
サエキはすぐに違和感を察知した。
見えている景色と、足元から伝わる感覚が一致していない。風の流れも、音の方向も、目に映るものと噛み合わなかった。
「幻を見せるつもりか」
女が笑った。
「この森から出られると思う?」
「思うも何も、こんな程度の幻術で迷うほど経験が浅くない」
サエキは法力を集中させた。
サエキを中心に見えない波紋が広がる。
それは周囲を青白く照らすように広がり、偽りの景色を焼き払った。歪んでいた森の輪郭が元に戻る。
女の表情が変わった。
「何をしたの……?」
「こっちの台詞だ。人間相手なら通用すると思ったのか?」
サエキは掌を魔女に向けて法力を放った。
今度は青い波紋の衝撃波が女を捉えた。
女は反射的に身を引いたが、波紋をくらった女は軽く吹き飛ばしされて後方の木に激突する。
顔面に法力をくらった女の顔は皮膚が焦げる音とは違う、乾いた音が響く。
女の顔に怒りが浮かんだ。
「貴様……!」
「随分と偉そうだな。だが、正体を隠す余裕もなくなってきたようだ」
女の姿が一瞬、歪んだ。
そのとき、森の奥で木々が大きく揺れた。
女はサエキの背後に目を向けた。
その表情から怒りが消え、明らかな警戒が浮かぶ。
「……まだ、いたのね」
女は低く呟いた。
次の瞬間、周囲の空気が弾けたように揺れ、女の姿が消えた。
追うことはできなかった。
サエキはすぐに周囲を確認した。女が消えた方向には、魔術の残滓がわずかに残っている。だが、それ以上に気になるものがあった。
森の奥に、何かがいる。
先ほどの女が見ていたものだ。
サエキはゆっくりとそちらへ視線を向けた。
木々の間に、人影のようなものが立っていた。
それは、人間に似ていた。
しかし、人間ではない。
森の木々と同じように、そこに立っているだけで周囲の風景に溶け込んでいる。背丈も輪郭も、見ている間に変化しているように感じられた。
「さっきの女と知り合いか?」
サエキが問いかけると、それはしばらく沈黙した。
やがて、低い声が返ってきた。
「知っている。あれは、この森を傷つけた」
「そうか。なら、話を聞かせてもらおう」
「人間が、私の話を聞くのか」
「話の内容次第だ。少なくとも、あの女よりは話が通じそうに見える」
影がわずかに動いた。
「私はレーシー。遠い国の森を守っていた者だ」
「レーシー……」
サエキはその名に聞き覚えがあった。
東スラヴの伝承に登場する森の精霊。森の主、あるいは森を守る存在として語られるものだ。人間を迷わせることもあれば、道を示すこともある。姿や性質は地域や伝承によって異なるが、森と深く結びついた存在であることは共通している。
「なるほど。あんたが、あの魔女の言っていた存在か」
「私は、あの魔女を追ってここへ来た」
「ササヤマという青年を守っているのも、あんたか?」
レーシーはすぐには答えなかった。
「彼は、何も知らずに森を守ろうとした」
「海外の森で、あの女の仕掛けを片付けたんだな」
「そうだ。あの人間は、ただ森を汚すものを取り除こうとした。私の存在にも、あの女の企みにも気づいていなかった」
レーシーの声には、人間に対する憎しみはなかった。
「私は人間を一様に憎んでいるわけではない。森を壊す者もいるが、守ろうとする者もいる。あの人間は後者だった」
「それで、あんたは彼を特別に見た」
「特別という言葉が適切かは分からない。ただ、あの人間があの女に立ち向かったことは覚えている。自分が何に逆らっているのかも知らず、森のために声を上げた」
レーシーは木々の間へ目を向けた。
「だが、あの女は彼を殺そうとした。私がそこにいることに気づき、退いた」
「それで日本まで追ってきたわけか」
「そうだ。あの女は、彼が自分の計画を妨げたことを許していない。彼を追って、この国へ来た」
「そして、あんたも彼を追ってきた」
「彼を守るためだ」
レーシーの言葉は簡潔だった。
「私は、かつて仲間を守れなかった」
その声が、ほんのわずかに沈んだ。
「あの女は、私の森に入り込んだ。森に奇妙な印を置き、そこから力を引き出そうとした。初めは小さな異変だった。私はそれを取り除こうとしたが、あの女は私の仲間たちを利用した」
「利用?」
「仲間たちは、あの女の力を得るために使われた。そして、死んだ」
レーシーは淡々と語った。
「私は止められなかった。あの女が森を侵していくのを、仲間が失われるのを見ているしかなかった」
サエキは黙って聞いていた。
「だから、今度は同じことを起こさせない。あの女が別の森で、また誰かを犠牲にする前に止める」
「それが、あんたの目的か」
「そうだ。ササヤマという人間に感謝されたいわけではない。私の存在を知ってほしいわけでもない。あの人間がどう思おうと構わない」
「彼には、あんたの姿が見えているのか?」
「見られたことはある。だが、彼は私を脅威だと思っている」
「それも無理はないな。知らないものに見られているんだ。人間なら怖がるだろう」
レーシーは答えなかった。
サエキは周囲を見回した。
日本の森は、レーシーがかつて守っていた森とは違う。異国の森に根を張っていた存在が、こちらでも同じ力を発揮できるとは限らない。
「この国では、あんたの力も十分には使えないんだろう?」
「そうだ。ここは私の森ではない。森の気配は感じられるが、かつてのようには動かせない」
「魔女も同じか」
「おそらくな。あの女も、この国では力を集める必要がある。だから、あちこちに印を置いている」
サエキは先ほど見つけた記号と物体を思い出した。
「やはり、あれは魔術の仕掛けか」
「あの女は、森に印を置くことで、そこから力を集めている。集めた力を使い、森を侵し、自分の力を強めようとしている」
「一つずつは大した力を持たないが、複数をつなげているわけだな」
「そうだ」
「なら、手はある」
サエキは地面に置いた記録を確認した。
「仕掛けを一つずつ無力化する。術式のつながりを断てば、あの女がここで力を集めることは難しくなる」
「私も手伝おう」
「頼む。ただし、無理はするな。この森では、あんたも弱くなっている。力を使い切れば、彼を守ることもできなくなる」
「分かっている」
「決まりだな、まずは準備からだ」
まずサエキは相手が魔女だとわかったので、一度自宅へ戻った。
相手がわかった以上は情報を集める、レーシーが居たことから東スラブを中心に今回の魔女に該当する情報を、確認していく。
あいにく、この魔女はそこまで有名な魔女ではないようで情報はあまりなかった。
それでも対魔女の装備や情報はこの仕事をしていたら常識だと言えるほどに豊富にある。
それほど多くはないが魔女は世界に存在している。
もちろん一言に魔女といっても千差万別なので装備や情報があっても油断は禁物だ。
それでも準備は怠たる理由はない。
ある程度の準備を整えてさえはレーシーの待つ山へ戻った。
二人は山の中に配置された物体を調べて回った。
レーシーは森の変化を感じ取ることができた。木々の根元や、獣道から外れた場所に置かれた物体の位置を示し、サエキはそれを一つずつ確認した。




