第ニ章 八束の忠告
「ヒダルガミが原因なら、排除するという話だったな」
「そうだ。あれには人間に手を出すなと言ってある。だが、どうやら我の言いつけを守らなかったらしい」
「命令に従わなかった理由は?」
「知らん。聞く必要もない」
八束は、少しも執着を見せなかった。
「あれが何を考えていようと、我の山で余計な騒ぎを起こすなら不要だ。人間との間に築いたものを壊すなら、処分して構わん」
「あなたにとっては、ヒダルガミもただの住人の一つということか」
「使い道があるから置いている。それだけのことだ」
サエキは少し考えた。
八束がヒダルガミを排除するというなら、今回の事件を解決する手段としては合理的だろう。少なくとも、サエキが単独でヒダルガミを追い、対処するよりも確実性は高い。
ただし、目の前の大百足が何をするつもりなのか、完全に把握できているわけではない。
「一つ確認したい。今回の死体は、ヒダルガミに空腹を与えられて弱ったあと、山の奥へ誘い込まれた。その先で何かに食われた。そう考えていいのか?」
「おおむね、その通りだろう」
「その何かというのは?」
「我だ」
大百足は、あっさりと答えた。
サエキの視線が、わずかに鋭くなる。
「あなたが食べたのか」
「そうだ。弱った獲物が自ら山の奥へ来る。我は待っていればいい」
「自分で動き回る必要がないわけか」
「大きなものが動けば、地面が揺れる。山も騒がしくなる。あまり好ましくない」
八束は、足元を軽く見下ろした。
「我はこの姿でいる方が何かと都合がよい。本来の姿では、少し動くだけでも山肌を削る。人目にもつく。あれでは、静かに暮らすどころではない」
サエキは、先ほどから感じていた地面の違和感を思い返した。
大百足は地中に潜んでいるだけの存在ではない。必要があれば人型の姿で現れ、こうして人間と話すこともできる。だが、その本来の姿はあまりにも巨大で、動けば周囲に影響を及ぼす。
人型でいるのは、力を抑えているからではなく、その方が暮らしやすいからなのだろう。
「我はここにいるだけでいい。獲物が来るように仕向ければ、余計な手間もかからん」
サエキは、山中で感じた振動を思い返した。
ヒダルガミによる空腹は、獲物を弱らせるために利用されていた。大百足自身が積極的に狩りをする必要はない。山へ入った者が空腹に苦しみ、体力を失い、誘われるように奥へ進んでくる。
そこへ大百足が待ち構えている。
「よく考えたものだな」
「長く生きていると、無駄なことをしなくなる」
八束は、楽しげに笑った。
「それに、近頃は良い獲物が多い。昔食べた龍神族に似た味のする海の向こうから来た空を舞うトカゲの類も食べたことがある」
サエキは、その言葉を聞き流さなかった。
「龍神族….にドラゴンもか」
「ドラゴンというのか? あれらは力がある。食べるには少々手間がかかるが、なかなか美味かった」
伝承上の存在として知られる龍神族や、海外のドラゴン。
そのどちらも、大百足にとっては捕食対象だったという。
誇張や伝説の類として話している様子はない。実際に食べた経験を語っているのだろう。
サエキは、改めて目の前の存在を見た。
先ほど感じた格の違いは、間違いではなかった。
八束は、ただ巨大な怪物というだけではない。長い年月を生き、数多くの強大な存在を捕食してきた上位の捕食者なのだ。
この八束と敵対することは、避けるべきだった。
「事情は分かった。ヒダルガミの件は、あなたに任せてもいいのか?」
「構わん。我が始末しておこう」
「助かる」
「人間が私の山で死ぬと、後始末が面倒なのでな」
「そのために動いてくれるなら、こちらとしても異論はない」
サエキは、八束の申し出を受け入れた。
相手の善意を期待しているわけではない。大百足が自分の都合で動く存在であることは、すでに理解している。
それでも、利害が一致しているなら協力する価値はある。
八束は、ゆっくりと山の奥へ視線を向けた。
「さて。あの餓鬼を呼ぶとしよう」
その声に応じるように、周囲の空気がわずかに変化した。
サエキは警戒を保ったまま、木々の間を見渡した。
やがて、少し離れた場所の地面が揺れた。
土の表面に細かな亀裂が走り、そこから黒い影が這い出してくる。
人間に似た輪郭を持つが、その姿はどこか不自然だった。全身から漂う気配には、あの空腹感と同じ性質がある。
ヒダルガミ。
少なくとも、今回の異常の原因となった存在である可能性は高い。
ヒダルガミは八束の姿を認めると、動きを止めた。
「呼び立てて悪かったな」
八束の声は穏やかだった。
「少し話がある」
ヒダルガミは答えない。
その視線が八束からサエキへと移る。サエキは、相手の気配に警戒を強めた。
「人間には手を出すなと言ったはずだ」
八束は静かに告げた。
「この者が山へ来たのは、お主の仕業だな」
ヒダルガミの身体がわずかに揺れた。
「答えよ」
それでも返事はない。
ただ、その視線には明らかな反発があった。
サエキには、その理由までは分からない。八束の命令に不満があるのか、それとも別の事情があるのか。少なくとも、目の前のヒダルガミは大百足を恐れているように見えた。
それでも、従うつもりはないらしい。
「人間に手を出すなと言ったのは、我の山で余計な騒ぎを起こされたくないからだ。お前も知っているはずだが」
八束は、わずかに首を傾けた。
「それとも、何か不満でもあるのか?」
ヒダルガミの身体が揺れる。
その気配が、わずかに膨れ上がった。
次の瞬間、サエキの腹の底に、あの不快な空腹感が再び湧き上がった。
「っ……!」
サエキは即座に警戒を強めた。
ヒダルガミの狙いは八束ではない。明らかにサエキへ向けて力を放っている。
八束がいる前で、なおも人間に手を出そうとしている。
その行動を見た八束の表情から、わずかな笑みが消えた。
「痴れ者が」
短い一言だった。
八束が片手を軽く動かす。
それだけだった。
ヒダルガミの身体が、唐突に崩れた。
逃げることも、抵抗することもできない。空腹をもたらしていた気配が一瞬で途絶え、黒い影は輪郭を失っていく。
次の瞬間には、そこに何も残っていなかった。
音も、爆発も、激しい衝撃もない。
ただ、ヒダルガミという存在が消え去った。
サエキは、しばらくその場所を見つめていた。
今の一瞬に何が起きたのか、正確には把握できなかった。八束が何らかの力を行使したことは分かる。だが、その過程を観察する余裕すらなかった。
八束は、何事もなかったかのように手を下ろした。
「これでよいか?」
声にも、息の乱れはない。
怒りに任せて力を振るったというより、目障りなものを払っただけのようだった。
サエキは八束へ視線を戻した。
「……今ので終わりか」
「そうだ。言うことを聞かぬうえに、客にまで手を出そうとする。置いておく理由はない」
八束は、消えた場所を一瞥しただけだった。
そこに未練も、怒りの余韻も感じられない。
サエキは、改めて相手の力を思い知らされた。
自分一人では厄介な相手と判断したヒダルガミが、今の一動作で消え去った。八束にとって、ヒダルガミは本当に取るに足らない存在だったのだ。
「これで、今回の異常も収まるだろう」
「原因が消えたのなら、そう考えていいはずだ」
「ならばよい」
八束は、何でもないことのように頷いた。
サエキは周囲の気配を確認した。先ほどまで感じられた空腹を引き起こす気配は、すでに消えている。
少なくとも、今回の異常を引き起こしていた存在は排除された。
「今回の件については助かった。あなたが動いてくれなければ、こちらも簡単には済まなかっただろう」
「なに、たいしたことではない」
「そう言ってもらえるならありがたい」
八束は、わずかに笑った。
「人間にしては、話の分かる者だな」
「相手を見て判断しているだけだ。あなたと争う理由はない」
「それは賢明だ」
八束は、楽しそうに目を細めた。
サエキは、相手の言葉に過剰な反応を返さなかった。
目の前の存在が自分より遥かに強大であることは理解している。だからといって、必要以上にへりくだるつもりもなかった。
相手が一定の礼をもって接している以上、こちらも相応の敬意を払えばいい。
それで十分だった。
しばらく話を続けるうちに、八束はサエキの携行品へ目を向けた。
「ところで、お主は何か持っておらんのか?」
「何かとは?」
「食い物よ、菓子や酒だ。山に入る人間は、時折そういうものを持ってくる。主も何か持っているのではないか?」
サエキは少し意外に思った。
先ほどの話を聞く限り、八束は人間の供物を気に入っているらしい。もっとも、これほどの怪物が菓子や酒を楽しみにしているというのは、なかなか想像しにくい話ではあった。
「菓子なら、非常食がある」
「ほほう」
「酒も持っている。清めに使うためのものだが、それでも構わないか?」
「構わん。見せてみろ」
サエキは携行品の中からチョコレートと酒を取り出した。
チョコレートを受け取った大百足は、興味深そうに眺めてから口に運ぶ。しばらく味わうようにしていたが、やがて満足そうに頷いた。
「うむ。これはなかなか美味い」
「気に入ったようだな」
「饅頭や団子も良いが、これも美味い。なんという菓子だ?」
「これは海外菓子でチョコレートというものだ、最も日本で作られているから海外のものより甘いとおもうが」
続いて酒を受け取ると、大百足は容器を確かめた。
「こちらは清めの酒か」
「そうだ。用途が用途だけに、普通の酒とは少し違う」
「構わん。せっかく持ってきたのだ。いただこう」
八束は、酒も好きらしい。
サエキは、相手がどのように扱うのかを見ていたが、無理に尋ねることはしなかった。八束にとっては、酒であることに変わりないのかもしれない。
「人間は面白いものを作る」
「長く生きていても、まだ知らないものがあるか」
「当然だ。世の中は移り変わる。古いものばかり見ていても退屈する」
八束は、手元の菓子を眺めた。
「また持ってこい。酒もな」
「機会があれば」
「機会は作るものだろう」
八束は、楽しげに笑った。
「たまには人間と話すのも悪くない」
「それなら、また訪ねることにしよう」
「うむ。期待しておるぞ」
そのやり取りに、サエキはわずかな苦笑を浮かべた。
大百足は人間を守るために動いたわけではない。自分の山での平穏を守るためにヒダルガミを消し去っただけだ。
それでも、菓子や酒を気に入り、人間との会話を楽しんでいることは確かなようだった。
この怪物にとって、人間は食料であると同時に、山を訪れる客でもある。その距離感は、人間の価値観とは少し異なるのだろう。
サエキは、八束の申し出を受け止めた。
山を下りる前に、八束はサエキを呼び止めた。
「これも何かの縁よ、お主に忠告しといてやろう」
「忠告?」
「最近は、外から妙なものがよく来る。おかげで食い物には困らんが、少々騒がしくなった」
「外から来るものが増えているのか」
「そうだ。以前は、ここまで頻繁ではなかった」
八束は、山の向こうを眺めた。
「菓子や酒がなくなるのも困るが、時折やって来る童たちの声も、なかなかよいものだ。あれが聞けなくなるのは惜しい」
その言葉に、サエキは八束の価値観を改めて感じ取った。
この怪物は、人間を守ろうとしているわけではない。
自分の山での暮らしを気に入っており、それを維持したいだけなのだ。
だが、だからこそ、山に住むものとしての視点から語れることもあるのだろう。
「だが、気をつけることだ」
八束の声が、少しだけ低くなった。
「外から来るものに触発されて、古い連中が動き出すかもしれん」
「古い連中?」
「我と同じように、太古よりこの大和に住まう者たちだ。長く眠っていたものもいれば、我のように今もこの地に居座るものもいる」
サエキは黙って話を聞いた。
「そやつらが何を考え、何を望んでいるかは知らん。人間に興味があるとも限らん、それに我のように静かに暮らすのが好きな連中ばかりではない」
八束は、サエキを見た。
「ゆえに、覚えておくといい。この山にいる我を見て、他の連中も同じようなものだと思わぬことだ」
それは脅しではなかった。
自分が人間に友好的だからといって、同じ時代を生きた他の存在までそうだとは限らない。大百足は、ただそれを伝えている。
長い年月を生きてきた怪物だからこそ知っている、危険の存在。
サエキは、その言葉を軽く扱わなかった。
「忠告に感謝する」
サエキは八束に一礼をしてまっすぐ見た。
「外から来るものだけでなく、こちらに古くからいる存在にも注意を払う必要があるということだな」
「そういうことだ」
「私も、これまでの仕事で何度か似たような経験をしている。人間の常識や、一般的な怪異の分類が通用しない相手はいる。相手の正体を知ったつもりでいると、足元をすくわれる」
「ならば話は早い」
「今回のことは覚えておく。あなたに言葉もな」
八束は満足したように頷いた。
「それがよい」
サエキは一礼した。
深く頭を下げるようなものではない。相手に対する敬意を示す、簡潔な所作だった。
八束もまた、それ以上何かを求めることはなかった。
「では、私は戻るとしよう」
「そうか。人間の道はあちらだ」
大百足が指し示した方向には、山を下りるための道が続いていた。
「ありがとう」
サエキはその方向へ歩き始めた。
しばらく進んだところで振り返ると、そこに大百足の姿はなかった。
いつの間にか、木々の間に溶け込むように消えている。
地面の下から、かすかな振動が伝わった。
八束が本来の姿に戻り、山の奥へ身を移したのだろうか。あるいは、別の場所へ向かったのかもしれない。サエキには分からなかった。
ただ、あの巨体が動けば、山そのものが揺れる。それほどの存在が、普段は人間の姿で過ごしているという事実が、改めて奇妙に思えた。
サエキはそれ以上、山の奥を見ようとはしなかった。
山を下りたサエキは、関係者への報告を行った。
発見されたモンスターの死体については、異常な飢餓状態に陥った末に衰弱し、何者かに捕食された可能性が高いこと。山中で発生していた空腹感の原因はヒダルガミと考えられること。そして、そのヒダルガミは山の主によって消滅させられたこと。
ただし、山の主については詳細を伏せた。
あの存在について、必要以上に情報を広めるべきではない。今回の件が解決したからといって、山に棲む大百足が人間にとって安全な存在になったわけではないのだ。
被害者の状態も確認された。
空腹感に襲われた者たちは、時間の経過とともに症状が落ち着いていった。山中で意識を失った者も、回復に向かっている。
今回の事件は、ひとまず収束したと判断してよさそうだった。
しかし、サエキの頭には、大百足の最後の忠告が残っていた。
外から来る妙なもの。
それに触発されて動き出す、古くから大和に住む存在たち。
今回の大百足は、少なくとも人間との平穏を壊すつもりはなかった。菓子や酒を好み、童たちの声を気に入っている。人間を食べない理由も、長年の暮らしを守るためという実に合理的なものだった。
だが、同じような考えを持つ怪異ばかりではない。
人間に興味を持たないものもいるだろう。人間を食料としか見ないものもいるかもしれない。あるいは、人間の存在そのものを煩わしいと感じるものもいる。
そうした存在が、外から来た何かに刺激されて動き出したとき、何が起きるのか。
サエキには想像することしかできなかった。
山に潜む大百足は、強大な怪物だった。
それでも、あれは古くから大和に住む者たちの一体にすぎない。
今回の事件が終わったからといって、山の奥にあるものすべてが明らかになったわけではない。
むしろ、今回の一件は、その広大な世界の一端を覗いただけなのかもしれなかった。
サエキは山を振り返った。
木々の向こうに、あの大百足の姿はない。
だが、山のどこかで、今も静かに暮らしているのだろう。
菓子や酒を楽しみ、童たちの声を聞きながら。
そして、山に踏み込んでくるものを見定めながら。
サエキは視線を戻し、山道を歩き出した。
この先、外から来るものが何をもたらすのか。
それを知るには、まだ情報が足りなかった。




