第一章 閑居する大妖
山中で異常な死体が発見された。
最初にそれを見つけたのは、登山道から外れた場所で野生動物の調査をしていた調査員だった。死体は人間ではない。海外に生息するモンスターの一種で、体格だけなら大型の獣にも引けを取らない存在だった。
しかし、その姿はあまりにも異様だった。
全身の肉が落ち、皮膚は骨に張りついている。かつては十分な筋肉を備えていたと思われる四肢も、今では細い枝のようになっていた。腹部は深くへこみ、口元には何かを食べようとした痕跡が残っている。
外傷らしい外傷は見当たらなかった。
争った形跡もない。周囲の樹木や地面にも、激しい戦闘があったことを示す痕跡は残されていなかった。
それにもかかわらず、死体は明らかに衰弱しきっていた。
調査に関わった者たちは、当初、病気や特殊な毒物の可能性を疑った。だが、検査を進めても明確な原因は見つからない。さらに、発見場所の周辺では、ほかにも不可解な現象が報告されていた。
山に入った者が、突然、耐え難い空腹に襲われる。
食料を持っていた者は、その場で食べ尽くすほどの勢いで口にする。ところが、どれだけ食べても満たされない。腹が膨れても空腹感は消えず、やがて身体から力が抜けていく。
空腹に耐えられず、山を下りようとした者もいた。しかし、道を間違えたわけでもないのに、気がつけば山の奥へ進んでいたという証言が複数あった。
そのうちの一人は、数時間後に意識を失った状態で発見された。幸い命に別状はなかったが、発見時には持っていた食料をすべて食べ尽くしていたという。
これらの情報を受け、調査と対処の依頼がサエキのもとへ持ち込まれた。
現場に到着したサエキは、まず死体の状態を確認した。
「これは……妙だな」
手袋をはめた手で、痩せ細った胴体の表面を慎重に調べる。外傷は少ない。少なくとも、これほどまでに肉体を衰弱させるような損傷は見当たらなかった。
死体の周囲には、わずかに魔力の残滓が感じられた。だが、何かを直接攻撃した痕跡とは違う。
サエキは死体から少し離れ、周囲の地面を見渡した。
草木は荒れていない。大型の生物が暴れ回ったような跡もない。地面に残る足跡は、死体の主のものと思われるものがいくつかあるだけだった。
それらは山の奥へ向かって続いている。
サエキは足跡を追う前に、死体の状態をもう一度確認した。
痩せ方が尋常ではない。長期間、食事を取らなかっただけでは説明がつかないほどだ。そもそも、このモンスターが自ら食事を拒んでいたとは考えにくい。
周囲に食料がなかったわけでもない。山には野生動物がいる。食性が合うかどうかは別として、食料を探す余地はあったはずだ。
それでも、死体は飢えに苦しんだ末に命を落としている。
サエキは、現場に残る瘴気の気配を注意深く探った。
そして、ある可能性に思い至る。
「ヒダルガミか……」
空腹をもたらす怪異。人間に限らず、山へ入った者に異常な飢餓感を与える存在として知られている。
ただし、今回の現象が本当にヒダルガミによるものかは、まだ断定できない。似た性質を持つ怪異や、別の原因によって同様の現象が起きている可能性もある。
サエキは足跡の先を見た。
山の奥には、木々が密集した一帯がある。そこへ向かうほど、周囲の空気に違和感が強くなっていた。
調査を続ける価値はある。
ただし、空腹を引き起こす何かが潜んでいるなら、長居は危険だった。
サエキは持参した食料と水を確認し、必要な準備を整えてから山の奥へ進んだ。
*
山道を進み始めてしばらくすると、空腹感が現れた。
最初は、単純に食事の時間が近づいたためだと思える程度だった。だが、時間が経つにつれて、その感覚は明らかに強くなっていく。
腹の底を直接つかまれたような、落ち着かない感覚。
身体が食べ物を求めているというより、何かに食欲を無理やり刺激されているようだった。
サエキは立ち止まり、周囲を観察した。
異常な空腹感が発生していることは間違いない。だが、現時点では原因となる存在の位置までは分からなかった。
サエキは携帯していた食料を少量だけ口にした。
味は分かる。咀嚼も問題ない。胃に物が入った感覚もある。
それなのに、空腹感は消えなかった。
「なるほど。食べれば解決するものではないらしい」
食料をしまい、再び歩き始める。
空腹感は次第に強くなっていった。身体の動きにも、わずかな重さが出始めている。
この現象は、単に食欲を刺激するだけではない。食べても満たされない状態を維持し、対象の体力を消耗させている可能性が高い。
山中で長時間これに晒されれば、まともな判断力を保つことも難しくなるだろう。
サエキは足を止めた。
目の前の木々の間に、わずかな空間がある。その奥には、地面が緩やかに下がっている場所が見えた。
足跡はそこへ続いている。
しかし、違和感は空腹感だけではなかった。
山の奥へ進むほど、地面の下に何かがあるような感覚が強くなる。地中に大きな空洞があるのか、それとも別の何かが潜んでいるのか。
サエキは周囲の木々に目を向けた。
幹に目立った傷はない。枝が折れた形跡も少ない。だが、地面にはところどころ不自然な盛り上がりがあった。
自然にできたものと考えるには、規則性がありすぎる。
そのとき、地面がかすかに揺れた。
サエキは反射的に身構えた。
揺れは一度だけだった。地震というほどのものではない。遠くで何か大きなものが動いたような、鈍い振動だった。
その直後、空腹感がさらに強まった。
「……ここから先は、あまり長居できないな」
サエキは進む方向を慎重に選びながら、山の奥へ向かった。
しばらく進んだ先で、サエキは人影を見つけた。
山奥に人がいること自体は不自然ではない。しかし、その人物は登山者にも山仕事をする者にも見えなかった。
木々の間に立つ、年齢の分からない人物。
服装は古風にも見えるが、特定の時代のものと断定できるほどではない。姿勢は自然で、こちらを待っていたかのように静かに佇んでいる。
サエキは足を止めた。
人間ではない。
それは直感に近い判断だった。姿形は人間に似ている。だが、その存在感が明らかに違う。
周囲の空気が、妙に重い。
相手が何かをしたわけではない。敵意を向けている様子もない。それでも、サエキの身体は警戒を解こうとしなかった。
目の前の存在が持つ力の大きさを、サエキは正確に測れない。
だが、一つだけ分かることがあった。
この相手と正面からやり合うことになれば、サエキ一人では何も出来ずに終わるだろう。
相手の正体は分からない。能力も、どこまでの力を持っているのかも不明だ。
それでも、格が違う。
サエキは無意識に力を入れていた手を緩めた。
戦闘態勢を取ることに意味はない。相手が敵対していると確認できていない以上、こちらから仕掛ける理由もなかった。
人の形をしたモノが、ゆっくりと口を開いた。
「人間が一人、ここまで来るとは珍しい」
落ち着いた声だった。
威圧するでもなく、驚くでもなく、ただ事実を口にしたような声音。
「この山で起きている異常を調べに来ている」
「ほう。その異常とは?」
「餓死に関係することだ」
人影はサエキを眺めた。
視線には好奇心が感じられる。だが、そこに人間に対する親しみがあるのかどうかは分からない。
「なるほど。お主ががここへ来たのは、あの餓鬼が原因か」
サエキは相手の言葉に注意を向けた。
「あの餓鬼?」
「人に耐え難い空腹を与えるものだ。お主も、すでに味わっているのだろう」
「ヒダルガミのことか」
「ヒダルガミ?人間はあの餓鬼をそう呼ぶのか?
まあ、呼び名などどうでもよい」
人の形をしたモノは軽く頷いた。
「どうやら、我の言いつけを守らなかったらしいな」
「言いつけ?」
「人間には手を出すなと言ってあるのだがね」
サエキは相手の顔を見た。
ヒダルガミを知っている。しかも、命令を与える立場にあるらしい。
目の前の存在と、山中で起きている現象。その関係を考える必要があった。
「この山で起きていることは、あなたの意向ではないということか?」
「少なくとも、人間を相手にするよう命じた覚えはない」
「では、あの死体は?」
「死体?」
「山の中で、モンスター….外来の怪異が死んでいた。ひどく痩せ細っていた。あれもヒダルガミの仕業か」
人の形をしたモノは少しだけ考えるような仕草を見せた。
「おそらくな。あの餓鬼の仕業なら、説明はつく」
「その先に何がいる?」
サエキの問いに、答えなかった。
代わりに、足元へ視線を落とす。
「お主は、ずいぶん奥まで入ってきた。ここから先は、我の領分だ」
その言葉と同時に、地面が低く唸った。
木々の間を風が抜ける。
サエキはその者から視線を外さず、足元の変化に注意を払った。
地面の下に、巨大な何かがいる。
先ほどまで感じていた違和感が、今になってはっきりと形を持ち始めていた。
人の形をしたモノは、サエキの反応を見ている。
「気づいたか」
「地中に何かいる。それも、かなり大きい」
「そうだ」
人の形をしたモノは、わずかに口元を緩めた。
「この山は、私の住処だ」
その瞬間、サエキの脳裏に一つの考えが浮かんだ。
目の前の人物は、単に山に住んでいる怪異ではない。山そのものを自分の領域として扱っている。
「失礼を承知でお伺いします、あなたは何者ですか?」
目の前のそれは面白いと言わんばかりに笑った。
「ははは、何者、か。さてな……大昔の人間共は我をこう呼んでいた「大百足」とな」
その名を聞いた瞬間、サエキはわずかに目を細めた。
大百足。
日本の伝承において、山に棲む巨大な怪物として語られてきた存在。だが、伝承にあるものと目の前の存在がどこまで一致するかは分からない。
それでも、相手の力については疑う余地がなかった。
人間の姿をしているからといって、相手の本質まで人間に近いわけではない。目の前にいるのは、長い年月を生きてきた怪物だ。サエキの経験が、そう告げていた。
「なるほど。あなたがこの山の主か」
「そういうことになる、最も我は大百足という呼び名は好かん。それはお主らでいう人間みたいな言葉なのだろう? 我は我だけよ」
サエキは表情には出さないが、苦虫を噛んだ気持ちになった。
目の前にいるのが大百足だとすれば今の自分ではどうしようもない。
大百足と対峙した経験はある、だが目の前のそれは過去の大百足とは比較にならない規格外だ。
先ほど感じた気配は山そのものだった、下手をすれば山より遥かに大きいと感じるほどの存在感。
それが人の形を模しており、あまつさえ対話ができるときた。
神格化していると言って良い存在だった。
サエキはヒダルガミのことは捨て置く必要があった。
目の前にいる大妖から生き延びるためには敬意を持って接する必要がある。
「失礼しました、私の名はサエキと申します。もし宜しければあなた様の名があればお聞きしたいのですが。」
大百足はからかうようにサエキに言葉をかける
「ふむ、急に態度が改まったな。何か、我に対する見方でも変わったか?」
大百足のからかいにサエキは毅然とした態度で答える。
「見方が変わったというより、正しく理解し直したと言うべきでしょう。失礼のないよう、改めてお話しさせていただこうと思います」
サエキの返答に僅かばかり重かった空気が軽くなったように感じた。
「ふっ、そこまでせずともよい。お主に畏まられては、かえってこちらが話しにくいわ」
サエキは警戒を解くまではいかなくとも少し胸を撫で下ろした。
「そうですか。では、お言葉に甘えさせてもらいます」
「うむ。それでよい。我の呼び名はだった八束と呼べ」
「八束……それがあなたのお名前ですか?」
「昔に我をそう呼んだ者がおってな。いつの頃からかは忘れたが、なかなか悪くない響きでな。我も気に入って使っておる」
「人間が付けた名を、そのまま使っているのですか」
「何かおかしいか? 気に入ったものを使う。それだけのことよ」
「なるほど。では、改めて。八束殿、よろしくお願いします」
「殿もいらぬ。八束でよいと言っておろう?それに言葉使いも砕けて構わん。いちいち話しずらいわい」
サエキは苦笑いをした
「それは少々、抵抗がありますが…….わかった。必要最低限の敬意を持って話をしよう。」
「くくっ。それで良い。話がそれたな、なんぞ我に聞きたいことがあるのだろう?」
八束から話題を戻してくれるのはサエキにとっては非常にありがたかった。
「ヒダルガミはあなたの配下なのか?」
「従えている、という言い方は少し違うな。あれはあれで勝手に動く。だが、この山で好き放題に振る舞われるのは好かんな」
大百足は何でもないことのように話した。
「お主が望むなら、あれを排除しよう。我の山で、我の客に余計な迷惑をかけられては困る」
「客、か」
「お主も客だろうて、それに人間は時折、菓子や酒を持ってくる。量は少ないが、なかなか美味い。あれを持ってくる人間もいるし、たまに童たちがやって来ることもある」
八束は、どこか懐かしむように目を細めた。
「童たちの声も、悪くない。あれが聞けなくなるのは惜しい」
「それで、人間には手を出すなと?」
「そうだ。ここ数百年、人間を食べていない」
サエキは意外そうに眉を上げた。
「ずいぶん長い間だな」
「食べる必要がなくなったからだ。近頃は外から妙なものがよく来る。食い物には困らん」
「海外のモンス…..怪異か」
「そうだ。人間よりも量が多い。食べごたえもある。味も、なかなか気に入っている」
八束は淡々と話す。
「力のある人間は美味いが、量が少ない。それに、人間を食べれば面倒なことになる。討伐者やら何やらが押し寄せてきて、山が騒がしくなる。私としては、そんなことに付き合う理由がない」
「つまり、人間を食べないのは、こちらに配慮しているわけではないと」
「当然だ。人間を守るために生きているわけではない。それに勝手に侵入してきた痴れ者を食べたところで誰も困らんしの」
八束は、サエキの目を見た。
「ただ、今の暮らしが気に入っている。それを壊されたくないだけだ」
その言葉には、取り繕った様子がなかった。
人間に友好的であることと、人間を尊重していることは別なのだろう。
八束にとって人間は、山に訪れる客であり、菓子や酒を持ってくる存在でもある。童たちの声も気に入っている。
だが、それは人間を対等な存在として認めているという意味ではない。
サエキは、その価値観を理解した。




